13、真夜中
「……今日はもう、風呂入ったあとだし」
俺は、黒いタンクトップの裾を軽く摘まみながら、そう言った。声は、いつものように小さくて、どこか逃げるような響きを帯びている。
咲優はベッドの端に腰を下ろしたまま、手に持った黒い麻布風のマフラーを、指先でゆっくりと弄んでいた。さっき衣装ケースから引っ張り出した、あのダークヒーローの一式。鈍く光るアーマーと、複眼が紅く光る黒いマスク。俺の部屋の薄暗い照明の下で、それは妙に現実味を帯びて見えた。
「夜も遅いし……」
俺は続けた。視線は、咲優の顔ではなく、床の一点に落ちている。
「明日、俺も仕事だし。咲優も、疲れてるだろ」
「……ふーん」
咲優は短く息を吐いた。投げやりな声音だけど、どこか納得したような、あるいは興味を失ったような、曖昧な響きだった。マフラーをゆっくりと畳み、アーマーの上に重ねて元の衣装ケースへ戻す。蓋を閉めた音が、静かな部屋に小さく響いた。
「まあ、いいけど」
そう言って、咲優は肩をすくめた。黒とピンクのウルフカットが、ほんの少し揺れる。
俺は、ほっとしたように小さく息を吐き、すぐに次の行動に移った。ベッドのシーツを軽く整え、枕の位置を直す。
「ベッド、咲優が使って。俺はこっちで寝るから」
そう言って、俺はデスクの横に置いてあった座椅子を引き出した。安価な折りたたみ式のやつで、背もたれを完全に倒すと、ほぼ床に近い簡易ベッドになる。
俺はそれを部屋の中央、テーブルのすぐそばに置き、持っていた薄い毛布を一枚広げた。
「……いいの? お前、そこで寝たら体痛くなるかもよ?」
咲優が、ベッドの上からこちらを見下ろして言った。声は平熱のままだけど、ほんのわずか、心配のようなものが混じっている気がした。
「大丈夫だ、慣れている。」
俺は苦笑いに近い表情を浮かべて、照明のスイッチに手を伸ばした。白い蛍光灯を消し、壁際の小さなスタンドライトだけを残す。暖色のオレンジ色の光が、部屋をぼんやりと染めた。殺風景なワンルームが急に夜の色を帯びる。
「おやすみ」
俺が先に言った。
「……おやすみ」
咲優も短く返した。
ベッドに潜り込む音と、座椅子の上で毛布を引っ張り上げる音が、ほぼ同時に聞こえた。あとは、互いの呼吸だけが、オレンジ色の闇の中に残る。
────────
夜中の一時半。
私は、ゆっくりと目を開けた。
天井のシミが、オレンジ色の明かりに照らされて、ぼんやりと浮かんでいる。体はベッドの中央に沈んでいて、シーツはまだ少し他人の匂いがした。洗剤の香りと薄い男性特有の体臭。お兄さんのものだ。
彼女は動かずに、横目で部屋を見渡した。
お兄さんは、座椅子の上で完全に眠っていた。背もたれを倒した簡易ベッドに仰向けになり、片方の腕を額に乗せて、口を少し開けている。黒いタンクトップの胸が、規則正しく上下している。いびきはかかない。ただ、深くて、途切れのない寝息だけが聞こえる。
……全然、起きなそう。
私は、そっと上体を起こした。ベッドの軋む音を最小限に抑えるように、ゆっくりと。ウルフカットの前髪が額に落ちる。私はそれを指で払い、お兄さんの方を再び見た。
さっきまで「また着てみる?」と軽く誘った自分が今は少しだけ後悔していた。断られた瞬間、正直、拍子抜けした。でも同時に…少しだけ、安心したのも事実だった。
コイツは、自分を「どうにかしよう」としてこない。少なくとも、今のところは。
私は、膝を抱えるようにしてベッドの上に座った。夜中の歌舞伎町なら今頃広場はまだ人が残っているはずだ。明莉や凛が、相変わらず誰かの車に乗ろうとしているかもしれない。祐輝が、どこかで喧嘩を売られているかもしれない。
私はお兄さんの寝顔をもう一度見つめた。弱々しい顔だ。マスクを被れば別人になれるのかもしれないけど、素顔はどこまでいっても「普通の、弱い男」のままだった。
(……なんで、助けようとしたんだろうな、この人は。)
私は小さく息を吐き、再び体を横たえた。シーツを顎まで引き上げ、オレンジ色の光を視界から消す。
寝息が、規則正しく微かに聞こえる…気がした。
私はその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。




