〜第零話『声と光』 / イラストについて〜
最初に感じたのは、浮遊感だった。上も下もない。光も影もない。空間という概念そのものが溶け出したような場所だった。
手を動かそうとすれば動くような気もするが、その手が実体なのか、それとも手を動かしたいという意志だけがそこに漂っているのか、判別がつかなかった。
やがて——声がした。
「——目覚めたか」
鼓膜を震わせる振動ではなく、意識の内側に直接置かれた言葉だった。低く、静かで、途方もなく古い。山脈が風雨に削られて丸くなるまでの時間を、そのまま音にしたような声だった。
「……ここは、どこですか」
「どこでもあり、どこでもない」
声に感情はなかった。怒りも喜びも、慈悲も残酷さもない。ただ、圧倒的な存在の質量だけがあった。
「お前は、何を望む」
問いが、ずしりと胸の中に落ちた。
何を望む。その問いかけは単純なのに、答えようとすると途方もなく難しかった。望み。自分は何を望んでいるのか。
ここがどこなのかもわからない。なぜここにいるのかもわからない。自分が何者であるかさえ
——
いや。
それは覚えている。
自分が何者であるかは、覚えている。
名前も、顔も、今ここで口にすべきかどうかはわからないが——少なくとも、自分の輪郭は、まだ保たれていた。
そして、自分が何を望んでいるかも。
それは昔から変わらなかった。壮大なものでも、英雄的なものでもない。
むしろ、人に話せば笑われるかもしれないほど、ささやかなものだった。
「……穏やかに過ごしたい」
「穏やかに?」
「はい。誰かのそばで、静かに。特別なことはいらない。ただ——大切な人たちが笑っていて、自分もその輪の中にいられたら」
長い沈黙の後、声が言った。
「力を欲さぬ者は珍しい。覇道を、栄華を、不死を——即座に口にする者が大半だ」
「向いていないので」
「ならば——そのように」
虚無の中に、淡い緑色の光が滲み出した。蛍の光よりも儚く、月の光よりも近い。光は体の輪郭に沿って漂い、胸の中心へと集まっていく。
「お前の望みに応じたものだ。この力は、お前がお前であり続ける限り、傍らに在るだろう」
「力は望んでいません」
「望まぬ力こそが、最も正しくその者に宿る。欲する者の器は常に渇き、欲せぬ者の器はすでに満ちている」
緑の光が胸の中心で脈打っていた。心臓と同期するように、ゆっくりと明滅を繰り返す。
「お前の器は、一人では満たされぬ。そしてお前は、それを知っている」
意味を理解したわけではない。けれど、光が灯った場所が、その言葉に共鳴するように震えた。
「この力の在り方は、お前自身が歩む中で知れ。教えることではない」
声が遠のき始めていた。物理的な距離ではなく——意識と意識の間に、再び隔たりが戻っていく感覚。
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意識が浮上していく。
暗闇の底から水面へ向かって泳ぎ上がるように、感覚が一つずつ戻ってくる。
まず聴覚——遠くで虫が鳴いている。
次に触覚——背中に硬いものが当たっている。ベンチの板の感触。
それから嗅覚——土の匂い。草の匂い。かすかに、夕暮れの空気の匂い。
目を開けた。
オレンジ色の空。学校のグラウンド。膝の上にスケッチブックが載っている。描きかけの鉛筆画。何を描いていたのか、思い出せなかった。
妙な夢を見た。鮮明なのに、目覚めた瞬間から輪郭が溶けていく。何を話した? 誰と?
ただ、胸の中心がほんのりと温かかった。
風がスケッチブックのページをめくった。白紙の端に——淡い緑色の光が一瞬だけ滲んだように見えた。瞬きをした。何もなかった。夕陽の反射だ。
「……気のせい、か」
スケッチブックを閉じ、立ち上がる。いつもの帰り道を歩き始めた。
胸の温かさは、まだ残っていた。何かが始まる予感が、小さく灯っている。恐ろしいものでも、輝かしいものでもなく——ただ、温かいもの。
そしてスケッチブックの中では、閉じたページの奥で、誰にも気づかれることなく、淡い緑色の光が静かに息をしていた。
第零話 了
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あとがき
本作では、AIイラストを活用して世界観を広げる試みを行っています。
イラストはカクヨム近況ノートで確認できますので、ぜひチェックしてみてください。
主人公あかりのイメージイラスト
https://kakuyomu.jp/users/ponpoko_kaihou/news/2912051595859451541
https://kakuyomu.jp/users/ponpoko_kaihou/news/2912051595860082004
https://kakuyomu.jp/users/ponpoko_kaihou/news/2912051596470663142




