6
深夜零時過ぎ。
東京駅のホーム。
伊藤レイ(50)は、電車の窓に映る自分の顔をぼんやり見ていた。
「……のだぁ」
少し酔っている。
高級レストランのワイン。
慣れない空気。
妙に静かな会話。
全部がなんとなく頭の中に残っていた。
ガタン、と電車が揺れる。
周囲には仕事帰りの人間。
疲れた会社員。
酔っ払い。
スマホを見続ける若者。
寝落ちしてるサラリーマン。
その中にレイも混じっていた。
「のだぁ……」
美咲の顔が浮かぶ。
『変わらないね』
笑っていた。
高校時代と少し似た笑い方だった。
「……のだぁ」
レイは少しだけ変な気分だった。
若いキャバ嬢といた時みたいな興奮ではない。
もっとこう。
居心地が悪い。
でも少し安心する。
そんな感じ。
「……うむ」
レイは急に頭を振った。
「何を考えてるのだぁ!」
隣のサラリーマンがビクッとした。
「別にぃ!吾輩はぁ!昔振られた女に未練とかそういうのではないのだぁ!」
誰も聞いてない。
「ただぁ!高級レストランの練習相手にちょうどよかっただけなのだぁ!」
ホームにいた女子高生が距離を取った。
レイは気づかない。
数十分後。
郊外。
築三十五年アパート。
レイは階段を上っていた。
「のだぁ……」
酔いが少し抜けてきた。
現実感も戻ってくる。
古い鉄のドア。
カバンから鍵を出す。
ガチャ。
部屋の電気をつける。
狭い。
そして静かだった。
「……のだぁ」
シンクには洗ってない皿。
床にはコンビニ袋。
脱ぎ散らかした靴下。
加湿器は壊れている。
誰もいない。
本当に。
誰もいない。
レイは数秒突っ立っていた。
さっきまでいたレストランとはまるで別世界だった。
美咲は今頃どうしてるのだろう。
ホテルかなにかでゆっくりしているのか。
娘とLINEでもしているのか。
風呂に入って、落ち着いて、寝る準備をしているのか。
一方。
自分。
「のだぁ……」
レイはネクタイを外した。
腹が解放される。
「ふぅぅぅぅ……」
ジャケットを脱ぐ。
急に現実感が戻る。
五十歳。
独身。
窓際社員。
帰る家には誰もいない。
「……のだぁ」
レイは冷蔵庫を開けた。
ストロング缶。
半額唐揚げ。
謎の漬物。
「うむ!」
一本開ける。
プシュッ。
そして一気飲み。
「くはぁああああ!!」
いつもの味。
いつもの夜。
少しだけ安心した。
「明日も仕事なのだぁ……」
営業三部。
若手に馬鹿にされ。
部長に睨まれ。
総務から警戒され。
謎の書類仕事を押し付けられる日常。
「……のだぁ」
レイは座椅子に倒れ込んだ。
ふと。
今日のことを思い出す。
『伊藤くんは変わらないね』
「……のだぁ」
昔。
高校時代。
レイは本気で“特別な人生”になると思っていた。
超美人と結婚して。
なんか成功して。
みんなを見返して。
モテまくって。
チヤホヤされて。
人生楽勝だと思っていた。
だが現実。
五十歳。
キャバ嬢に五百万。
窓際。
痛風予備軍。
高級レストランでパンをフォークで刺す男。
「……のだぁ」
少しだけ胸がモヤモヤした。
しかし。
レイはレイである。
深刻さが長続きしない。
「うむ!」
急にスマホを取り出した。
「大人気アイドルグループ《ロブスターの亡霊》の動画を見るのだぁ!」
一気に元気になった。
YouTubeを開く。
再生。
『ロブスターの亡霊 7th LIVE “海底♡ラブパニック”』
「のだぁぁぁぁぁ!!」
レイの目が輝いた。
ロブスターの亡霊。
意味不明な名前の地下寄り女性アイドルグループである。
メンバー全員、なぜかロブスターのカチューシャをつけている。
曲名も意味不明。
『甲殻類♡フォーエバー』
『ボイルして♡マイハート』
『深海1200メートルLOVE』
世界観が狂っている。
しかしレイは大ファンだった。
「のだっ♡のだっ♡」
座椅子の上でペンライトを振り始める。
なお五十歳である。
「うむぅ!センターの海老原ぴぴるちゃん今日も可愛いのだぁ!」
画面の中では、アイドルたちがエビのハサミみたいなポーズで踊っていた。
『♡ボイル!ボイル!恋心〜♡』
「のだぁあああああ!!」
レイも踊る。
腹が揺れる。
床が軋む。
「甲殻類最強なのだぁああああ!!!!!!」
数十分後。
完全にいつものレイに戻っていた。
「うむぅ〜♡」
酔っ払いながら動画コメントを読む。
『ぴぴるちゃん今日も神』
『このグループ意味不明すぎて好き』
『衣装代ちゃんと出てるのか心配』
「うむ!吾輩も心配なのだぁ!」
そして。
ふと。
スマホ上部に通知が来た。
『今日はありがとう。楽しかったよ』
美咲からだった。
レイの動きが止まる。
「……のだ」
数秒、固まる。
ロブスターの亡霊は背後で元気に踊っている。
『ザリガニ♡カーニバル〜♪』
だがレイは画面を見つめたまま動かない。
「……」
返信欄を開く。
『うむ!吾輩も楽しかったのだぁ!』
消す。
『また飯行くのだぁ!』
消す。
『今日はありがとなのだぁ』
消す。
「のだぁぁぁぁ……」
レイは悩んだ。
妙に。
本当に妙に。
変なことを書きたくなかった。
キャバ嬢相手なら秒でキモい長文送るのに。
「……」
数分後。
ようやく送信。
『うむ。また機会があればなのだぁ』
無難。
驚くほど無難。
送信後。
「……のだぁ」
レイは座椅子に倒れ込んだ。
天井を見る。
ロブスターの亡霊はまだ歌っている。
『♡茹でてよ恋心♡』
「……」
レイは小さく呟いた。
「……高校の時より話しやすかったのだぁ」
そのまま。
スマホを握ったまま。
ロブスターの亡霊のライブ映像を流しながら。
伊藤レイは眠りに落ちた。
なお翌朝。
ペンライトを抱きしめたまま寝落ちしていたせいで、寝違えて首を痛めた。




