5
東京。
丸の内。
高層ビルの夜景がガラスに滲む高級フレンチレストラン。
店内は静かだった。
静かすぎた。
グラスの触れる音まで上品で、店員は全員姿勢が良く、客たちは小声で会話している。
そして。
その空間に。
明らかに場違いな男が一人。
「の、のだぁ……」
伊藤レイ(50)は完全に硬直していた。
慣れてる感を出そうとしている。
だが無理である。
歩き方がもう怪しい。
ジャケットも新調したものだが、着慣れていないので肩が妙に突っ張っている。
店員が椅子を引いただけでビクッとした。
「こちらへどうぞ」
「のだっ!?う、うむ!」
声が裏返る。
しかしレイは必死に平静を装った。
(落ち着けなのだぁ……)
メニューを見る。
(のだぁ……)
理解不能。
『本日の鮮魚のポワレ』
『蝦夷鹿のロティ』
『ソース・ヴァンルージュ』
「何語なのだぁ……?」
値段を見る。
「……っ!!」
危うく声が出そうになる。
前菜六千円。
肉料理一万二千円。
ワイン、グラスで二千円。
(怖いのだぁぁぁ!!)
だが顔には出せない。
五十歳である。
しかも今日は“東京で働く男”感を出したい。
レイは必死に足を組んだ。
しかし慣れてないので腹が苦しい。
「のだぁ……」
その時。
「ごめん、お待たせ」
レイは顔を上げた。
「のだっ」
高橋美咲が立っていた。
ベージュ系の落ち着いたワンピース。
派手ではない。
ブランド主張もない。
だが。
妙に品があった。
アクセサリーも控えめで、髪も自然に整っている。
“ちゃんと大人として生きてきた女性”の雰囲気だった。
レイは数秒固まった。
(……のだぁ)
高校時代より美人とかそういう話ではない。
なんというか。
“ちゃんとしてる”。
その感じが妙に眩しかった。
一方のレイ。
新調したジャケットに着られている。
妙に汗かいてる。
メニューを逆さに持ってる。
終わっている。
「久しぶりだね、こういうお店」
「の、のだっ♡」
レイは慌てて姿勢を正した。
「うむ!吾輩はよく来るのだぁ!」
嘘である。
「へぇ?」
「このレベルなら日常なのだぁ!」
嘘である。
「そうなんだ」
美咲は笑った。
その笑い方が、“ああ、この人見栄張ってるな”と気づいている大人の笑い方で、レイはなぜか少しムカついた。
(なんなのだぁ……)
落ち着いてる。
余裕がある。
店員との会話も自然。
「お飲み物は?」
「白をグラスでお願いします」
「かしこまりました」
スムーズ。
一方レイ。
「のだっ!?の、飲み物!?」
店員が微笑む。
「ワインリストお持ちしますか?」
「う、うむ!当然なのだぁ!」
ワインリスト到着。
「……」
「……」
「……」
長い。
しかも意味がわからない。
(助けてなのだぁ)
しかし聞けない。
五十歳のプライドが邪魔をする。
「お決まりでしょうか?」
「のだっ!?……えーっと……」
適当に一番上を見る。
値段。
八千円。
(高いのだぁ!?)
慌てて下を見る。
三万円。
(もっと高いのだぁ!?)
レイは混乱した。
すると。
「同じ白で大丈夫?」
美咲が自然に助け舟を出した。
「のだっ!う、うむ!それなのだぁ!」
レイは即乗っかった。
店員が去る。
レイは妙に悔しかった。
(なんなのだぁ……)
美咲は自然にこの空間に馴染んでいる。
レイだけが浮いている。
だから。
いつもの悪癖が出た。
緊張すると喧嘩を売る。
高校時代から変わっていない。
レイはワインを一口飲み、無理やりニヤついた。
「のだぁ?」
「ん?」
「なんですのだぁ!?その格好はぁ!」
美咲がきょとんとする。
「格好?」
「なんかぁ……あれなのだぁ!」
「どれ?」
「そのぉ……なんか……ちゃんとしてる感じなのだぁ!」
喧嘩の売り方が雑すぎる。
美咲は数秒黙ったあと、吹き出した。
「何それ」
「のだぁ!」
「褒めてるの?喧嘩売ってるの?」
「のだぁ……?」
本人もわかってない。
「高校の時もっと派手だったのだぁ!」
「あー」
美咲は少し笑った。
「若かったしね」
「地味になったのだぁ!」
「五十歳だよ?」
「のだぁ……」
「逆に伊藤くんは変わらないね」
「のだっ♡」
レイはちょっと嬉しそうになった。
「落ち着きがないところとか」
「のだぁ!?」
「緊張するとすぐ変なこと言うところとか」
「……」
「昔からそうだったよね」
レイは黙った。
図星だった。
高校時代。
美咲と話す時だけ、レイは妙におかしかった。
変にふざける。
急にイキる。
意味不明なことを言う。
今も全く同じである。
「……のだぁ」
前菜が運ばれてくる。
レイはナイフとフォークを見て一瞬止まった。
(どれ使うのだぁ!?)
美咲は自然に外側から使っている。
(なるほどなのだぁ!)
レイも真似する。
しかし緊張しすぎてパンをフォークで刺した。
「のだっ!?」
美咲がまた笑う。
「ふふっ」
「笑うななのだぁ!」
「ごめんごめん」
「これは高度な食事技法なのだぁ!」
「絶対違うでしょ」
その後も。
レイは必死だった。
店員が来るたび背筋を伸ばす。
料理名を聞いて知ってるふり。
ワインも“わかってる男”っぽく飲む。
しかし内心。
(味わからんのだぁ……)
全部ちょっとオシャレな肉としか認識できていない。
一方。
美咲は普通に楽しんでいた。
「ここ、娘の大学合格祝いでも来たことあるよ」
「のだぁ?」
「元夫の昇進祝いとかも」
「……」
「あと結婚記念日とか」
「……のだぁ」
レイは少し黙った。
自分の人生には、そういうイベントがなかった。
誰かと積み重ねた記念日。
家族の祝い。
そういう“普通の人生”の時間。
キャバ嬢に五百万吸われた記憶しかない。
「伊藤くんは?」
「のだっ!」
レイは慌てて胸を張る。
「吾輩もぉ!いっぱい来てるのだぁ!」
「例えば?」
「……」
「……」
「キャバクラ帰りとか」
「それ高級レストランじゃないよね?」
「のだぁ……」
美咲はまた笑った。
馬鹿にする感じじゃなく。
なんというか。
“昔のままだなぁ”という笑い方だった。
その顔を見ながら。
レイはなぜか少しだけ落ち着かなくなった。
「……のだぁ」
窓の外。
東京の夜景が光っていた。
レイはワインを飲みながら思う。
(なんかぁ……)
若い女といる時より。
全然ドキドキするのだぁ……。




