19
日曜日。
昼過ぎ。
高橋美咲のマンション。
静かなリビングには煮込みの匂いが漂っていた。
「のだぁ〜……」
一方。
ソファ。
伊藤レイ(51)。
完全にダメ人間化していた。
ジャージ姿。
腹出てる。
ソファに横倒し。
昼食後なので眠そう。
しかも。
妙にくつろいでいる。
「起きて」
「のだぁ……」
「食べてすぐ寝ない」
「消化中なのだぁ……」
「トドなの?」
美咲は呆れた。
だが。
その顔は少し笑っている。
最近。
本当に最近。
妙に世話焼きが加速していた。
最初はここまでじゃなかった。
たまにご飯を作る程度。
だが今は。
「はい」
「のだ?」
「野菜ジュース」
「のだぁ……」
「飲む」
「嫌なのだぁ」
「飲む」
完全に管理されている。
さらに。
「靴下裏返しで脱がない」
「のだぁ……」
「洗濯機の横に置かない」
「のだぁ……」
「夜中のポテチ禁止」
「人権がないのだぁ……」
美咲はため息をついた。
しかし。
正直。
少し楽しかった。
「……」
娘が家を出てから。
部屋は静かだった。
広いマンション。
一人暮らし。
もちろん気楽ではある。
好きな時間に寝られる。
誰にも気を遣わない。
でも。
長年“誰かの世話をする生活”だったせいか、急に全部なくなると少し手持ち無沙汰になる。
そこへ。
伊藤レイ。
放っておくと生活が壊滅する男。
変人。
うるさい。
でも。
反応が異様にわかりやすい。
「のだっ♡」
ご飯を出せば喜ぶ。
「うぇえええん!!」
怒れば本気でしょんぼりする。
「のだぁぁぁ!!」
褒めればすぐ調子に乗る。
大型犬みたいである。
「……」
美咲は味噌汁を温めながら少し笑った。
その時。
「のだぁ?」
レイがソファから顔を出した。
「なに」
「おかしいのだぁ」
「何が」
「普通ぅ!」
レイはゴロッと転がる。
「その年ならぁ!子供が巣立ったから伸び伸び出来て清々するって言うのだぁ!」
「まあ人によるわよ」
「なのにぃ!」
レイは美咲を指差した。
「なんか吾輩の世話焼きレベルが上がってるのだぁ!」
「気のせい」
「気のせいじゃないのだぁ!」
レイは本気だった。
最近の美咲。
本当に細かい。
「野菜食べなさい」
「風呂上がり髪乾かしなさい」
「寝落ちするなら布団行きなさい」
「そのTシャツ穴空いてる」
など。
妙に生活感ある注意が増えた。
「吾輩ぁ……」
レイは遠い目をした。
「最近……」
「うん」
「健康的になりすぎて長生きしそうなのだぁ……」
「良いことよ」
「怖いのだぁ……」
美咲は笑った。
「大げさ」
「大げさではないのだぁ!」
レイは起き上がる。
「吾輩の若い頃はなぁ!」
「うん」
「毎週終電後ラーメン!」
「はい」
「上司に飲まされ!」
「うん」
「会社の床で寝て!」
「最低」
「ストロング缶と共に生きてきたのだぁ!」
「だから身体壊すのよ」
「それが男なのだぁ!」
「昭和すぎる」
しかし。
美咲は少しだけ理解していた。
レイの“ビール腹への妙な誇り”。
あれは。
半分くらい“生きてきた証”なのだ。
若い頃。
無茶した。
働いた。
飲んだ。
失敗した。
情けないこともいっぱいあった。
その積み重ねが、あのだらしない腹みたいなものなのだろう。
「……」
でも。
だからこそ。
最近少し健康になったレイを見ると、妙に安心する。
「のだぁ……」
レイはまたソファへ沈んだ。
「美咲ぃ」
「なに」
「元旦那はぁ……」
「うん?」
「もっとスマートな感じだったのだぁ?」
「まあそうね」
美咲は少し考えた。
「仕事できる人だったし」
「のだぁ……」
「忙しかったけど」
「……」
「家でも静かだったかな」
レイは黙った。
数秒後。
「……のだぁ」
「なにその顔」
「負けた気分なのだぁ……」
「何と戦ってるの」
「吾輩……」
レイは腹をさすった。
「静かにワイン飲むエリート感ゼロなのだぁ……」
「それはそう」
「ライブで甲殻類になる男なのだぁ……」
「それもそう」
レイは本気で落ち込んだ。
だが。
美咲は少し笑った。
「でも」
「のだ?」
「今の方が家に人いる感じするわよ」
「……」
「前は静かすぎたから」
レイは止まった。
「……のだぁ?」
「あなた、うるさいし」
「のだぁ!」
「物なくすし」
「のだぁ!」
「ロブスターだし」
「それ悪口なのだぁ!?」
「でも」
美咲は少しだけ柔らかく笑った。
「帰ってきた感じはする」
「……」
レイは数秒黙った。
そして。
急に顔を赤くした。
「のだぁぁぁ……」
「なによ」
「最近……」
「うん」
「美咲、たまに変なこと言うのだぁ……」
「そう?」
「吾輩、弱いのだぁ……そういうのぉ……」
レイはソファに顔を埋めた。
美咲はそんな姿を見て少し笑う。
本当に。
この男は反応がわかりやすすぎる。
「はい」
「のだ?」
「みかん」
「のだっ♡」
一瞬で復活。
「うむぅ♡」
レイは嬉しそうにみかんを受け取った。
「美咲は優しいのだぁ……」
「甘やかしすぎたかもね」
「もっと甘やかすのだぁ!」
「調子乗らない」
「のだぁ……」
窓の外。
穏やかな休日。
静かな高級マンションの一室で。
元々は“伸び伸び自由に暮らす予定”だった五十一歳の女性は。
なぜか今。
ロブスターオタクのおっさんにみかんを剥いていた。
そしてそれを。
少しだけ楽しいと思っていた。




