20
六月。
快晴。
朝。
「のだぁ〜♡」
伊藤レイ(51)は、珍しく朝からご機嫌だった。
理由。
高橋美咲が日焼け止めを塗ってくれているからである。
「動かない」
「のだっ♡」
都内近郊。
登山口近くの駐車場。
周囲には中高年登山客。
本格装備のおじさんたち。
アウトドア夫婦。
そして。
妙に場違いな男。
ロブスターの亡霊Tシャツに帽子を被ったレイである。
「はい、首も」
「のだぁ〜♡」
レイはニヤニヤしていた。
「美咲ぃ〜♡」
「なに」
「なんか新婚っぽいのだぁ♡」
「山登る前から疲れること言わない」
しかし。
レイは完全に浮かれていた。
今日は美咲の趣味のひとつ、“軽い山登り”に付き合うことになったのである。
軽い。
その言葉をレイは信じた。
完全に。
「うむ!」
レイはドヤ顔した。
「吾輩、余裕なのだぁ!」
「本当に?」
「最近健康になったのだぁ!」
「それは良かったけど」
「昔の吾輩とは違うのだぁ!」
なお。
昔の吾輩。
・運動ゼロ
・ストロング缶
・夜食
・ロブスターライブで足をつる
である。
そして。
登山開始四十分後。
「のだぁ……」
レイ、死にかけ。
汗ダラダラ。
顔真っ赤。
呼吸荒い。
「はぁっ……はぁっ……」
完全に弱っていた。
「……大丈夫?」
「のだぁ……」
「まだ序盤だけど」
「序盤ぅ!?」
レイは愕然とした。
周囲では七十代くらいのおじいちゃんおばあちゃんが普通に歩いている。
しかも速い。
「な、なんでなのだぁ……」
レイは本気で困惑していた。
「老人たちが強すぎるのだぁ……」
「みんな慣れてるのよ」
「吾輩ぁ……」
レイは膝に手をついた。
「最近健康になった気でいたのだぁ……」
「階段息切れしなくなっただけでしょ」
「健康革命だったのだぁ……」
しかし現実。
山。
坂。
日差し。
虫。
全部キツい。
「のだぁ……」
レイはヨロヨロ歩く。
「え?美人ってぇ……」
「うん?」
「中年以降も活動的じゃないといけない法律でもあったのだぁ!?」
「ないわよ」
「恐ろしいのだぁ!」
レイは本気だった。
美咲は普通に歩いている。
息も乱れていない。
姿勢も綺麗。
しかも。
普通に楽しそう。
「景色綺麗ね」
「のだぁ……景色を見る余裕がないのだぁ……」
レイは汗だくだった。
さっきまで。
日焼け止め塗ってもらって。
「新婚なのだぁ♡」とか言っていた男とは思えない。
「水飲む?」
「のだっ……」
美咲がペットボトルを渡す。
レイは本気で感動した。
「うめぇぇぇぇ……」
「普通の水よ」
「山の水は命なのだぁ……」
その時。
後ろから六十代くらいの登山夫婦が抜いていく。
「こんにちは〜」
「こ、こんにちはなのだぁ……」
レイは死にそうな顔だった。
一方。
夫婦は超元気。
「今日は天気いいですねぇ」
「そうですね〜」
「頂上で蕎麦食べる予定なんですよ」
「……」
レイはその後ろ姿を見送った。
「強いのだぁ……」
「毎週来てる人たちじゃない?」
「日本の老人怖いのだぁ……」
さらに二十分後。
「のだぁぁぁ……」
レイ、岩に座り込む。
「……休む?」
「休憩ではないのだぁ……」
「うん」
「これは遭難寸前なのだぁ……」
「大げさ」
しかし。
レイは本当に驚いていた。
美咲は想像以上に活動的だった。
生け花。
旅行。
山登り。
ウォーキング。
料理。
普通に人生を楽しんでいる。
一方。
自分。
ロブスターの亡霊。
ストロング缶。
ソファ。
終わっている。
「……のだぁ」
レイは遠い目をした。
「なに」
「美咲ぃ」
「うん」
「吾輩、最近気づいたのだぁ」
「何を」
「美人ってぇ……」
「うん」
「努力し続ける生き物なのだぁ……」
「急にどうしたの」
「怖いのだぁ……」
レイは本気で震えていた。
「吾輩ぁ……」
「うん」
「二十代後半からビール腹育成しかしてなかったのだぁ……」
「知ってる」
「なのに美咲は山登ってるのだぁ……」
「趣味だから」
「吾輩の趣味は甲殻類なのだぁ……」
「それはそれで楽しそうだからいいじゃない」
レイは少し黙った。
そして。
「……のだぁ」
「ん?」
「美咲ぃ」
「なに」
「手ぇ」
「……」
「引っ張ってほしいのだぁ……」
「子供なの?」
「遭難者なのだぁ……」
美咲は吹き出した。
「ふふっ」
そして。
少しだけ呆れながら。
「はい」
手を差し出した。
「のだっ♡」
レイは嬉しそうに掴む。
「うむぅ〜♡」
「重い」
「愛なのだぁ!」
「汗すごい」
「生命活動なのだぁ!」
山道。
木漏れ日。
蝉の声。
五十一歳のおっさんが、汗だくで半分遭難しながら手を引かれている。
かなり情けない光景だった。
でも。
レイは妙に幸せそうだった。
「……のだぁ」
「なに」
「若い頃ぉ」
「うん」
「デートってもっとオシャレなものだと思ってたのだぁ……」
「今後悔してる?」
「全然なのだぁ!」
レイは即答した。
「でもぉ!」
「うん」
「次は平地がいいのだぁ……」
なおその後。
頂上で食べた蕎麦に感動したレイは「山の民になるのだぁ!」と叫び、翌日全身筋肉痛で会社を半休した。




