第87話 脂ギッシュな魔獣と、ナオトのピンチ
「ドワーフの長老が言っていた通りだな。東の大陸に足を踏み入れて早々、面白い場所に当たった」
「面白いっていうか、歩きにくいわ。地面がヌルヌルしてるし、靴の裏に油がこびりついて気持ち悪い」
じりじりとした熱気と共に鼻をつく濃厚な匂いが漂っていた。
東の大陸・無法地帯の一角、脂の谷。
ドワーフの隠れ里で未踏エリアの情報を仕入れた二人が、極上の食材を求めてやってきた場所だ。
地面の岩肌は黒く光り、あちこちから黄色い油が湧き出している。
「足元に気をつけろよ。この谷全体が天然の油田みたいなもんだ。転んだら全身油まみれになるぞ」
「最悪ね。でも、匂いはいいのよ。なんかこう、高級なステーキハウスの換気扇の前にいるみたいで、お腹が空いてくるわ」
「確かに。ここには全身が極上の脂身で構成された魔獣、オイル・ボアが生息している。奴らが岩肌に体を擦り付けるせいで、谷全体がラードでコーティングされているんだとさ」
「ラードの谷。名前だけで胸焼けしそうだけど、食欲もそそるわね」
ミオがジュルリと涎をすする。
その背中には鍛冶師ガンテツと打ち直したばかりの愛剣が輝いている。
「ナオト、索敵はどう? 美味しいイノシシは近くにいる?」
「出たぞ。前方30メートル。デカいな。トラック並みだ」
ナオトが指差した先。
油の沼から巨大なイノシシが姿を現した。
体長5メートル。その巨体は鋼のような剛毛ではなく、プルプルと震える分厚い脂肪の層で覆われている。
太陽の光を浴びて、全身が黄金色に輝いていた。
「ブモォォォォッ」
「うわ、見た目通り脂ギッシュね。走るたびに脂が飛び散ってるわよ」
「オイル・ボアだ。推定レベル20のネームドモンスターだな。厄介なのは、あの脂肪の鎧だ。生半可な攻撃は滑るか吸収される」
「滑る前に私の新しい剣で三枚おろしにしてあげるわ。行くわよ、今夜のメインディッシュ」
ミオが地面を蹴る。
ヌルつく足場をものともせず、剛剣を引き抜いて突っ込んだ。
「食らえ、極上スライス」
ミオが剣を振りかぶった、その瞬間だった。
「ブヒィィッ」
オイル・ボアがブルブルと体を震わせ、全身から高温の油を撒き散らした。
まるでスプリンクラーのように黄色い液体が周囲に降り注ぐ。
「うわっ、熱っ!?」
ミオが咄嗟に顔を庇う。
だが、飛び散った油はミオの手に、そして剛剣の柄にべっとりと付着した。
「あっ」
ミオが剣を振り下ろそうと力を込めた瞬間、柄を握っていた手が派手に滑った。
摩擦係数がゼロになったかのように、重い剣が手からすっぽ抜ける。
ヒュー。
ズチャッ。
剣は虚しく宙を舞い、数メートル先の油だまりに突き刺さった。
「ちょっと、嘘でしょ。手が滑ったわ」
「おい、何やってるんだ。武器を落とす前衛がいるか」
「だって油がヌルヌルなんだもん。柄が握れないのよ」
「言い訳は後だ。ミオ、離れろ。奴が突っ込んでくるぞ」
「ブギャァァァァッ」
オイル・ボアが武器を失ったミオに向かって、猛烈な勢いで突進してくる。
巨大な脂肪の塊が迫る様は、さながら肉の暴走機関車だ。
「拾ってる暇がないわね。ナオト、動きを止めて」
「注文が多いな。物理演算の基本を見せてやる」
ナオトは影の倉庫から数本のフラスコを取り出した。中身は極低温の液体窒素だ。
それを正確な投擲スキルで突進してくるボアの足元に投げつける。
パリンッ。
シュゴォォォォォッ。
液体窒素が気化し、周囲の熱を一気に奪う。
ドロドロだった地面の油とボアの足元の脂肪がカチカチに凍りついた。
「ブギッ」
ボアが足を取られ、つんのめって転倒する。
凍りついた脂肪は柔軟性を失い、ただの脆い氷塊と化していた。
「それっ、追加の液体窒素だ。ミオ、凍った脂は砕けるぞ」
「ナイスアシスト。じゃあ、このまま行くわ」
ミオが跳躍する。
剣を取りに行くのではなく、彼女はそのまま拳を握りしめた。
力を拳に集中させ、凍結したボアの首筋に向かって急降下する。
「肉叩きパンチ!」
ドゴォォォン。
ミオの素手の一撃が凍った脂肪を粉砕し、その下の頸椎をへし折った。
「ブギィィィィッ!」
断末魔を上げ、巨大な脂の塊が沈黙する。
「ふぅ。一丁上がりね」
ミオが拳をフーフーと吹きながら着地する。
「おい。せっかく鍛え直してもらった名剣の出番なしかよ」
「しょうがないじゃない。手が滑ったんだから。でも結果オーライでしょ。筋肉は裏切らないのよ」
「お前のその脳筋思考だけはレベルが上がっても変わらないな」
「さあさあ、細かいことは気にしないの。解体よ、解体。極上のお肉が待ってるわ」
◇ ◇ ◇
数十分後。
安全な岩陰で、二人は焼肉パーティーを開催していた。
ナオトが作った即席の鉄板の上で、分厚く切ったオイル・ボアの肉がジュージューと音を立てている。
「すごい脂ね。油をひかなくても、自分から出る脂で揚がってるみたい」
「これぞ天然のコンフィだな。ドワーフの村で仕入れた岩塩を軽く振るだけで十分だ。……焼けたぞ」
ナオトが肉を皿に取り分ける。
表面はカリカリ、中はジューシー。フォークで刺すだけで崩れそうなほどの柔らかさだ。
「いっただきまーす」
ミオが一切れ放り込む。
「んんっ。溶けた。お肉が口の中で溶けたわ」
「美味いな。脂の甘みが半端じゃない。これ、肉っていうか、上質なスープを固めたような味わいだ」
「飲める。このお肉、脂が飲めるわよナオト。無限にいけるわ」
「ペースを考えろよ。まあ、美味いのは確かだがな」
二人は無言になり、ひたすらオイル・ボアの肉を堪能した。
口の周りをギトギトにしながら、巨大な肉の塊をあっという間に平らげていく。
影の倉庫から取り出した冷えた炭酸水が、脂の重さを洗い流してくれるため、いくらでも胃に収まってしまう。
「幸せ。もう動けないわ」
「食ったな。見事な完食だ。俺もさすがに腹が膨れた」
「でも、最高だったでしょ」
「ああ。ここ最近で一番のヒットかもしれないな」
ナオトは鉄板を片付け、影の倉庫に収納した。
満腹感と心地よい疲労感が体を包んでいる。
「よし、出発するか。この辺りはまだ魔物が多い。匂いにつられて別の獲物が来る前に移動だ」
「えー、もうちょっと休もうよ」
「ダメだ。消化を促すためにも歩くぞ」
ナオトは強引にミオを立たせ、歩き始めた。
目指すは東の街道。満腹の二人にとって、足取りは少し重いが気分は悪くない。
ザッ、ザッ、ザッ。
乾いた足音が荒野に響く。
歩き始めてしばらく経った頃だった。
ナオトはふと、歩調を合わせている自分の体に、わずかな違和感を覚えた。
腹が痛いわけではない。
グルグルと鳴るような警告音もなかった。
冷や汗が出るような兆候も一切ない。
ただ、体が少し重いと感じた、その瞬間だった。
――ブリッ。
静寂な荒野に湿った破裂音が響いた。
「…………」
「…………」
二人の足がピタリと止まる。
ミオがゆっくりと振り返った。
「……ねえ。今の音、なに。カエル?」
「…………」
ナオトの思考が完全にフリーズした。
消化しきれなかった上質な油が、なんの警告もなく、腸を素通りして溢れ出たのだ。
温かく、そして重い感触が、お尻のあたりに広がっている。
腹痛の予兆すらない、完全なる不意打ち。
大人の尊厳という名のダムが、音もなく決壊していた。
「……そうだな、カエルだ」
ナオトは前を向いたまま、抑揚のない声で答えた。冷や汗がどっと噴き出す。
「ふーん。カエルねぇ」
ミオが近づいてくる。鼻を少しひくつかせながら。
「なんか、臭うわよ。まさか……」
「気のせいだ。さあ、行くぞ。急ごう」
ナオトが早歩きで逃げようとする。しかし、その歩き方は明らかに不自然だった。
ガニ股で、腰が引けている。ペンギンのような歩行だ。
「ナオト」
「なんだ」
「漏らしたでしょ」
「……ッ」
ナオトが硬直した。
図星だ。完全に見抜かれている。
「ち、違う。これは……錬金術の試薬が漏れて……」
「嘘おっしゃい。その歩き方と、この匂い。間違いないわ」
ミオがナオトの背後に回り込む。
ナオトは顔を覆ってうずくまりたかった。
だが、うずくまると大惨事が拡大する。直立不動のまま、羞恥で顔を真っ赤にして震えるしかない。
「あーあ。最強の錬金術師様が、お漏らしですか。脂っこいお肉、食べすぎちゃったのかな」
「……殺せ。いっそ俺を殺してくれ……」
「ドルグで私をオイルまみれにして笑ってたバチが当たったのね。因果応報ってやつ」
「……うぐぐ」
ナオトは完全に打ちのめされた。
論理も計算も通じない、身体機能の裏切り。
これはSEとしての彼が恐れていた、ハードウェアの致命的なエラーだ。
「ばかね。そんなことで殺すわけないでしょ」
からかっていたミオの声色が、ふと優しくなった。
「ほら、あっちの岩陰。死角になってるわよ」
「……え」
「あっち向いてるから、早く着替えちゃいなさいよ。水と着替え、影の倉庫に入ってるんでしょ」
ミオが背中を向け、軽く手を振る。
「ミオ……」
「誰にでも失敗はあるわよ。お腹の調子なんて、自分じゃどうにもならない時もあるし」
ミオの背中は少しだけ震えていた。
笑いを堪えているのだろう。だが、それ以上に彼女なりの気遣いが感じられた。
「すまん。ちょっと時間をくれ」
「べつにかまわないわよ。そんなに気にしないで」
ナオトはロボットのようなぎこちない動きで岩陰へと向かった。
影の倉庫を開き、水とタオル、そして新しいズボンを取り出す。
汚れた服は倉庫の廃棄予定フォルダの最深部に封印した。二度と日の目を見ることはないだろう。
数分後。
さっぱりとした服装に着替えたナオトが戻ってきた。
「終わったぞ」
「お帰り。スッキリした?」
「ああ。色々な意味でな」
「ふふっ。ナオトでも、そんなドジすることあるんだね。少し安心したかも」
「計算外の事態だ。オイル・ボアの脂質が消化吸収のキャパシティを超えていたらしい」
「はいはい、言い訳はいいから。ほら、水分摂りなよ」
ミオが自分の水筒を差し出す。
ナオトはそれを受け取り、無言で飲み干した。
「じゃあ、行こうか。ゆっくり歩いてあげる」
「そうだな。胃腸に優しいペースで頼む」
二人は再び歩き出した。
夕日が二人の影を長く伸ばす。
ナオトの足取りはまだ少し慎重だが、隣を歩くミオの足取りは軽やかだ。
最強のコンビにも、予測不能な弱点はある。
ナオトは心の中で深く反省しつつ、相棒の優しさに少しだけ救われた気持ちになっていた。
旅は続く。時にはかっこ悪く、泥臭く、前へと進んでいくのだった。




