第78話 オイルまみれの潜入と、人間整備工場
雨の降りしきるカジノ・ロワイヤルの裏路地。
生ゴミと鉄錆の臭いが充満するその場所で、ナオトは怪しげな一斗缶を掲げていた。
「これだ。これが今回の作戦の要、高粘度工業用潤滑オイルだ」
ナオトが得意げに見せる缶にはドクロマークと引火厳禁の文字が書かれている。
「本気なの? ナオト。それを私に塗るって言ってるの?」
ミオが濡れた子犬のような目で見つめる。
彼女は現在、重装備の鎧を脱ぎ捨て、インナーウェアである黒のボディスーツ一枚という姿だった。
カジノで全財産を失い、装備を買い直す金もない。
そして何より、今回の作戦にはこの姿が必要だった。
「本気も本気だ。いいかミオ、俺たちの目的はこの搬入口からタワー内部へ侵入することだ。だが、今の俺たちはIDを持たない不審者だ。正面から入れば警備ロボットの餌食になる」
「だからって、なんで私がロボットのフリをしなきゃいけないのよ!」
「メンテナンス用アンドロイドだ。このタワーには日々、大量の資材と共に整備用のドロイドが運び込まれている。人間に対するチェックは厳しいが、備品に対するチェックはザルだ。さっきのスクラップ列車で実証済みだろ?」
「それはそうだけど……」
「問題はお前がどう見ても人間にしか見えないことだ。肌の質感、体温、そしてその無駄に健康的な肉付き。これではセンサーをごまかせない」
「無駄に健康的って失礼ね! これは魅力が高いって言うの!」
「その魅力が邪魔なんだ。だから、このオイルを使う。これを全身に塗ることで肌の表面温度を隠蔽し、さらに光沢を出すことで合成樹脂製スキンに見せかける。いわゆるテクスチャ偽装だ」
「うぐぐ……。理論武装されると言い返せない」
「文句を言っている時間はないぞ。警備の交代まであと10分だ。ここで塗るか、カジノに戻って皿洗いからやり直すか、どっちだ?」
「やる! やりますよ! 私の100億ゴールドを取り返すためなら、油まみれでも泥まみれでもなってやるわよ!」
ミオが決死の覚悟で両手を広げる。
ナオトはニヤリと笑い、一斗缶の蓋を開けた。
ドロリとした琥珀色の液体が重力に従って糸を引く。
「よし、動くなよ。塗り残しがあると、そこから生体反応が漏れるからな。念入りに行くぞ」
「ひゃっ! 冷たっ!」
ナオトの手がミオの肩に触れると、ミオが悲鳴を上げた。
冷たいオイルが肌の上を滑り落ちていく。
「声を出すな。アンドロイドを演じるんだ」
「だって、冷たいんだもん! うわ、ベトベトする! 気持ち悪い!」
「我慢しろ。これは耐熱・耐摩耗性に優れた高級オイルだ。肌荒れ防止になるかもしれんぞ」
「なるわけないでしょ! 工業用って書いてあるじゃん!」
ナオトはミオの抗議を無視し、職人のような手つきでオイルを塗り広げていく。
肩から腕へ、そして背中へ。
ボディスーツの上からでも分かる肉感的なラインが、オイルによってさらに艶めかしく強調される。
「くっ、くすぐったい! ナオト、そこ脇腹! 敏感なとこ!」
「関節部は駆動系が集中している設定だからな。念入りに潤滑させておく必要がある」
「絶対楽しんでるでしょ! その目、鑑定スキル使ってる時の目だよ!」
「失敬な。俺は今、お前をオブジェクトとして認識している。色気など感じていない。……ふむ、大腿部の筋肉量が以前より増えているな。キック力に補正が入りそうだ」
「触りながら分析しないで! ああっ、お尻! お尻は関係ないでしょ!」
「重心制御ユニットだ。ここが錆び付くと機動力が落ちる」
「嘘つけ! ロボットにお尻の肉なんてないわよ!」
「この国の技術力を甘く見るな。人間そっくりのアンドロイドを作れるんだぞ? リアリティ追求のために柔らかさを再現している可能性は高い」
「もう! 早く終わらせてよぉ!」
数分後。
そこには全身テカテカに光り輝く、黒光りするミオが立っていた。
雨とオイルが混じり合い、街灯の光を反射してヌラヌラと輝いている。
その姿は確かに人間離れした質感を持っていた。
「完璧だ。これなら最新鋭の潜入用アンドロイドと言っても通じる」
「なんか、すごく恥ずかしいんだけど。私、変な格好してない?」
「堂々としていろ。恥じらいを見せたら即バレだ。お前は機械だ。感情を持たないマシーンだ。いいな?」
「イエス、マスター。……これでいい?」
「上出来だ。俺も準備する」
ナオトはゴミ捨て場から拾った作業着を着込み、顔に煤を塗って変装を完了させた。
手には工具箱 (中身は石ころだが)を持っている。
「行くぞ。俺は第3整備班のナオト。お前は試作型戦闘ドロイドM-10だ。作戦開始!」
二人は搬入口のゲートへと向かった。
ゲートには巨大な赤外線センサーと、2体の武装警備兵 (人間)が立っている。
「止まれ。IDを見せろ」
警備兵が銃口を向けてくる。ナオトは愛想笑いを浮かべて近づいた。
「お疲れ様です! 第3整備班の者です。緊急の要請がありましてね。こいつの納品に来ました」
ナオトは背後のミオを指差す。
ミオは直立不動で無表情を貫いている。
全身から滴るオイルが、足元に水溜まりを作っていた。
「第3整備班? 搬入予定なんて聞いてないぞ」
「いやあ、急な話でして。カジノのオーナーから直々の命令なんですよ。VIPルームの警備強化のために試作機をテスト運用したいとかで」
ナオトは滑らかに嘘を並べる。
虚偽スキルと、さっきカジノで見た光景を組み合わせた即興のシナリオだ。
「カジノのオーナー? ふむ、確かに最近、上層部はピリピリしてるからな」
警備兵の一人が怪訝そうな顔でミオを見る。
「しかし、なんだこの機体は? 随分と……濡れているな」
「ははは! これが最新のオイル・コーティング装甲ですよ! 物理攻撃を滑らせて無効化するんです。まだ実験段階なので、オイル漏れが酷くて……整備が大変なんですよ」
「なるほど。理には適っているが……随分と生々しい造形だな」
警備兵がミオに近づき、じろじろと体を舐めるように見回す。
「おい、これ本当に機械か? 質感が人間そっくりだぞ」
「だからこその最新鋭ですよ。敵を欺くための擬態機能です」
「ふーん」
警備兵が手を伸ばす。
「ちょっと触ってみてもいいか? こんなリアルな機体、初めて見た」
「おっと! 触らない方がいいですよ!」
ナオトが慌てて制止する。
「このオイル、特殊配合の強酸性添加剤が入ってるんです。素手で触ると皮膚が溶けますよ?」
「うわっ、危ねえ!」
警備兵が手を引っ込める。
もちろん、ナオトのハッタリだ。ただの潤滑油だが相手を遠ざけるには十分だった。
「それに、今は可動域調整モードに入ってるんです。下手に刺激すると、誤作動を起こして暴れるかもしれません」
「暴れる? こいつがか?」
「ええ。試作機ですが、仮にも警備用ですから。特にこいつは関節の柔軟性に優れた機体でして、人間に限りなく近い設計です。……おいM-10、起動。可動域チェック・プログラムAを実行せよ」
ナオトがもっともらしい顔で命令を下す。
突然の振りにミオがビクリと反応した。
(えっ? プログラムAって何? 聞いてないよ!?)
ミオが目で訴えるが、ナオトは知らんぷりだ。
「どうしたM-10。命令が聞こえないのか? 四つん這いになって背部装甲の展開を見せろ」
(この悪魔! 四つん這い!? ここで!?)
しかし、警備兵たちが疑わしげに見ている。
やるしかない。
ミオは覚悟を決め、濡れた地面に手をついた。
ヌルリとした感触。
四つん這いになり、背中を反らせる。いわゆる猫のポーズだ。
「おおっ! すごい柔軟性だ」
警備兵たちが感嘆の声を漏らす。
オイルで光る背中のラインと、突き出されたヒップラインが街灯の下で妖しく輝く。
「次はプログラムBだ。開脚前屈による股関節サーボの確認」
「イ、イエス……マスター……」
ミオは恥ずかしさで顔から火が出そうになりながら、足を大きく広げて前屈する。
オイルのせいで足が滑り、予想以上に開いてしまう。
(ひゃうっ!?)
「見ましたか! このオイルのおかげで摩擦係数がゼロに近いんです! 敵の予想を超える動きで翻弄し、触れた相手を酸で焼く、これがオーナーの特注品です」
「すげえな。人間じゃ股関節が外れるレベルだぞ」
「さらにプログラムC! ブリッジからの片足上げ!」
(もうやだぁぁぁ!)
ミオが心の中で叫びながら、背中を反らせてブリッジをする。
雨とオイルが顔に滴り落ちる。
その状態で片足を天高く上げる。
ボディスーツが極限まで引っ張られ、際どいラインが露わになる。
「うおおお! 芸術的だ!」
「なんてメカニカルなんだ!」
警備兵たちが拍手喝采を送る。
彼らは完全にミオを高性能な機械として見ていた。
あまりにも人間離れした動きとオイルの光沢が、彼らの常識を麻痺させたようだ。
「どうです? これが我が工房の傑作です。で、中に入れてもらえますか? これ以上雨に晒すと内部回路がショートしてしまいそうで」
「あ、ああ。すまない、見とれてしまった。通っていいぞ」
「感謝します。ああ、そうだ。もう一つ」
ナオトはゲートを通り抜けようとして、ふと思い出したように振り返った。
ここからが本題だ。
「この機体が背負っているスクラップも処分するように言われてるんですがね」
ナオトがミオの背中にある剛剣ギガントを指差す。
刃こぼれだらけで、泥とオイルにまみれた巨大な剣だ。
「なんだそれは? 大きな鉄屑か?」
「ええ、負荷テストで壊れた失敗作です。ガンテツっていう技術者に渡して、リサイクルしろって言われてるんですが……場所を聞くのを忘れちまって」
「ガンテツ? ああ、あの頑固なドワーフか」
警備兵が端末を操作する。反応があった。ビンゴだ。
「あの爺さんなら、昨日移動になったぞ。最上階のラボにいたんだが、『ここは火力が足りん! もっと熱い場所へ行かせろ!』って暴れたらしくてな」
「へえ、熱い場所って言うと?」
「地下の中央動力炉だよ。あそこの整備区画に隔離されてるはずだ。物好きな爺さんだよ、あんな灼熱地獄に行きたがるなんて」
「なるほど、地下ですか。助かりました」
ナオトは深々と頭を下げ、ゲートを通過した。
警備兵たちはまだ、ミオの後ろ姿を名残惜しそうに見つめていた。
「おいM-10、直立モードに戻れ」
ゲートが閉まり、警備兵の声が届かなくなったのを確認して、ナオトが言った。
ミオはプルプルと震えながら立ち上がった。
「ナオトぉぉぉぉ!!」
ミオがナオトの首を絞める。
オイルまみれの腕が滑って、うまく力が伝わらない。
「な、なんだよ! 作戦成功だろ!」
「どこが成功よ! 私の尊厳が! 乙女のプライドが! あんな恥ずかしいポーズさせるなんて!」
「必要な演出だったんだ。おかげで重要な情報も手に入った」
「絶対楽しんでたでしょ! ニヤニヤしてたもん!」
「してない。あくまで学術的な興味だ。しかし、体柔らかいな。器用度にボーナスが入ってるんじゃないか?」
「うるさいうるさい! 早く服着たい! お風呂入りたい!」
「ここはまだ搬入エリアだ。タワーの深部はこれからだぞ」
二人が足を踏み入れたのはタワーの最下層にある巨大な工場エリアだった。
天井は見えないほど高く、無数のベルトコンベアが血管のように走り回っている。
そこで製造されているのは大量の銃火器と、ミオたちが遭遇したのと同じ型の戦闘用アンドロイドたちだ。
「うわぁ。すごい数のロボット」
ミオが圧倒される。
出荷を待つ何百体ものロボットたちが死体のように静かに整列している。
「ここは兵器開発局の量産プラントだな。ここのトップは戦争でも始める気か?」
「こんなのが街に溢れたら大変だよ」
「ああ。これはなんとかしておきたいな。さて、さっきの警備兵の話だと、ガンテツはこのさらに下、地下動力炉にいるらしい」
「なるほどね。それはいいけどナオト、この辺りは足元滑るから気をつけてね」
「お前のオイルのせいだろ、おっ!?」
ステーン!
ナオトがミオの歩いた跡で足を滑らせ、盛大に転倒する。
「このオイル作戦、敵味方無差別の範囲攻撃だな」
「ほら、言ったそばから転んでるし」
ヌルヌルの英雄たちは互いに支え合いながら、鋼鉄の迷宮の奥深くへと進んでいった。




