第77話 確率操作と、路地裏の英雄
カジノ・ロワイヤル、特別室ハイ・ローラーズ・ルーム。
極彩色のネオンと高級な香水の香りに満ちたその部屋は凍りついたような静寂に包まれていた。
巨大なルーレット台の中央で、銀色の球が0のポケットに収まっている。
それは全てのチップがカジノ側に没収されることを意味する絶望の数字だ。
「ありえない……」
ナオトが乾いた笑いを漏らす。
目の前の光景が信じられないのではない。
信じたくない現実として、脳が処理を拒絶しているのだ。
「ゼロ? 緑? え、なに? どういうこと? 私の赤の7番は?」
ミオが状況を理解できず、きょとんとした顔で盤面とナオトを交互に見る。
「外れだ。俺たちの全財産は今この瞬間、電子の藻屑と消えた」
「嘘よ! だって入ってたじゃん! 絶対入ってたよ! 最後になんか変な動きしたもん! フワッて! お化けがイタズラしたみたいに!」
ミオがバンッとテーブルを叩く。
「イカサマだ! これは明白な物理法則への介入だ! 俺の動体視力と演算能力は誤魔化せんぞ!」
ナオトが男に詰め寄る。
先ほどまで紳士を演じていた態度は消え失せ、目にはゲーマー特有の、理不尽な判定に対する怒りが燃え上がっていた。
「あの球の軌道変化は自然な摩擦や重力では説明がつかない。明らかに外部からの磁力干渉、あるいは局所重力操作が行われたはずだ!」
「お客様。困りますねえ、そのような言いがかりは」
男は眉一つ動かさず、冷徹なアンドロイドのような無表情で応対する。
「当カジノは公正公平。全てのゲームは厳正なプログラムによって管理されております。今の現象はあくまで確率の揺らぎ……いわば運命の悪戯でございますよ」
「運命だと? ふざけるな! あんな直角に曲がる運命があるか! これは強制敗北イベントだろ! プレイヤーの選択権を無視したレールロードなシナリオ進行だ!」
「専門用語はわかりかねますが……結果は結果です。チップは頂戴いたします」
男がパチンと指を鳴らす。
その合図と共に部屋の四隅に控えていた黒服の警備兵たちが動き出した。
彼らは人間ではない。無機質な金属骨格にスーツを着せた、戦闘用オートマタだ。
「クリーニングの時間だ。排除しろ」
ウィィィン……ガシャッ!
警備兵たちの腕が変形し、スタンバトンや捕獲ネットが飛び出す。
「ナオト! こいつらやる気だよ! 私の大事なお金を取り返すなら今しかない!」
ミオがドレスの裾を破り捨て、隠し持っていた剛剣ギガントに手をかける。
彼女の瞳孔が開いていく。それは猛獣が獲物を狩る時の目だ。
「やってやるわ! カジノ強盗よ! 私の勝ち分、利子をつけて返してもらうからね!」
「待てミオ! ここで戦闘はまずい! ここは敵のテリトリー内、しかもアンチ・マジック・フィールドが展開されている可能性がある!」
「関係ない! 肉の恨みは怖いのよッ!」
ミオがテーブルを蹴り飛ばし、警備兵に向かって跳躍する。しかし――。
ブォンッ!!
空中で見えない壁に弾かれ、ミオが床に叩きつけられた。
「きゃっ!?」
「重力魔法か!?」
「当VIPルームではお客様の安全のために暴徒鎮圧システムが常時稼働しております。物理攻撃を検知すると、自動的に重力プレスが作動する仕組みです」
男が涼しい顔で説明する。
床に這いつくばったミオの上には数トンの重りが乗っているかのような負荷がかかっていた。
「うぐぐ……! 重い! 体が……動かない!」
「ミオ!」
ナオトが駆け寄ろうとするが、すぐに警備兵たちに取り押さえられる。
錬金術を使おうにも、この部屋の魔素濃度が極端に薄められているため、術式が起動しない。
「くそっ、完全にハメられたか! 最初から俺たちをカモにするための舞台装置だったわけだ」
「賢明なご判断です。あなたのようにイレギュラーな幸運を持つお客様からは、こうして適正に資産を回収し、国家のために還元するのが支配人の務めですので」
支配人がナオトの顔を覗き込む。その目は笑っていない。
「モンテ・クリスト伯爵……いえ、指名手配犯ナオト。そしてミオ。変装など、最初から見抜いておりましたよ」
「チッ! 泳がされていたのか」
「ええ。たっぷり稼がせて、有頂天になったところで全てを奪う。その人間の絶望した顔……そのデータこそが我が主にとって最高の娯楽なのです」
「悪趣味な主だな。性格の悪さが透けて見えるぜ」
「お褒めにあずかり光栄です。では退場願いましょうか。裏口から」
支配人の合図で床の一部がスライドし、黒い穴が口を開けた。
そこからは生ゴミとドブの臭いが立ち上ってくる。
「おい、まさかここから落とす気じゃ」
「お客様のお帰りでーす! 次回の挑戦をお待ちしております!」
「ふざけんな! わたしの金返せーッ!」
「覚えてろ! インチキ運営があぁぁぁッ!」
ヒュンッ!
二人の体はダストシュートへと投げ込まれた。
カジノの煌びやかな光が遠ざかり、暗黒の滑り台を滑り落ちていく。
ドサッ! バシャーン!
冷たい雨が降る路地裏。
ゴミ溜めの中に、二つの影が投げ出された。
生ゴミの山がクッションになったおかげで怪我はないが、精神的なダメージは計り知れない。
「「…………」」
二人は無言でゴミ山から這い出し、濡れたアスファルトの上に座り込んだ。
高級だったはずの燕尾服とドレスは見るも無惨に汚れ、悪臭を放っている。
「……ナオト」
「……なんだ」
「夢だよね? これ。目が覚めたら、ふかふかのベッドの上で、枕元にはチップの山があるんだよね?」
「残念ながら、これは現実だ。しかもハードモードのな」
ナオトが雨に濡れた髪をかき上げる。
懐を探るが、財布どころか、隠し持っていた予備の金貨袋まで綺麗サッパリ無くなっている。
装備品以外、身ぐるみ剥がされた状態だ。
「ない。一銭もない。ベヒモス討伐の報酬も、行商で稼いだ利益も、カジノで増やした分も、全部ゼロだ」
「うわあああああん!!」
ミオが夜空に向かって絶叫した。
その声は雷鳴にかき消されることなく、スラム街に響き渡る。
「私のお金ぇぇぇ! お肉ぅぅぅ! 私のセレブ生活がぁぁぁ!」
「泣くな。みっともない」
「泣くよ! 泣くに決まってるでしょ! あんなにあったんだよ!? 一生遊んで暮らせるくらいあったのに! なんで0なの! なんで緑なのよぉぉぉ!」
ミオがナオトの胸板をポカポカと叩く。
「ナオトの馬鹿! 計算間違い! ポンコツ錬金術師!」
「俺の計算は完璧だった! 間違っていたのはこの国の物理法則だ!」
ナオトも叫び返す。
彼にとっても、あの敗北は許しがたい屈辱だった。
金銭的な損失もさることながら、自身の最強の武器である論理を、理不尽な力でねじ伏せられたことが我慢ならない。
「あのルーレットの動き。あれは絶対回避のスキルだ。プレイヤーがどこに賭けようと、必ず外れる場所に球を誘導するプログラムが組まれていたんだ」
「つまり?」
「つまり、最初から勝てる確率は0%だった。俺たちはただ、カジノの養分になるために踊らされていただけだ」
「……許せない」
ミオの泣き声が止まった。
代わりに腹の底から湧き上がるような低い唸り声が漏れる。
「私の純情と、食欲と、未来への希望を。よくも弄んでくれたわね、あの鉄屑ども」
グゥゥゥゥゥ。
タイミングよく、ミオの腹の虫が盛大に鳴いた。
それは空腹の合図であり、怪獣の咆哮のようでもあった。
「お腹空いた。ナオト、お金ないの?」
「ないと言っただろ。パンの耳一枚買えない」
「じゃあ、どうするの? このまま雨に打たれて、ひもじい思いをして野垂れ死ぬの?」
「まさか。俺たちがそんなバッドエンドを迎えるわけがない」
ナオトが立ち上がる。
泥を払い、汚れたシルクハットを被り直す。
その目には冷徹な光が戻っていた。いや、以前よりもさらに鋭く、危険な光だ。
「ルール無用のイカサマにはルール無用の暴力で対抗するしかない。TRPGの黄金律だ」
「暴力?」
「ああ。俺たちの目的はなんだ?」
「お金を取り返すこと?」
「それと、鍛冶師の救出だ。奴らは俺たちをゴミ捨て場に放り出したが、ここはカジノの真裏。つまり、兵器開発局タワーの搬入口に一番近い場所だ」
ナオトが指差した先。雨に煙る巨大なタワーの搬入ゲートが見える。
そこにはカジノの売上金や、工場の資材が運び込まれるルートがあるはずだ。
「正面から客として入るルートは閉ざされた。なら、次は招かれざる客として裏口から入るまでだ」
「つまり、強盗?」
「人聞きが悪いな。資産の回収と人質救出作戦だ。奪われたものを奪い返す。正当防衛だよ」
「いいね」
ミオが立ち上がり、剛剣の柄を握りしめる。その顔に凶悪な笑みが浮かんだ。
「やろうナオト。あの支配人も、警備ロボットも、全部スクラップにしてやるわ。そして金庫の中身を全部いただいて、最高級のディナーを食べるの!」
「その意気だ。だが、今の装備じゃ正面突破は厳しい。カジノの警備システムは強力だ。搦め手を使うぞ」
「搦め手?」
「変装だ。さっきの客の変装じゃなく、もっと内側に食い込むための変装だ」
ナオトが搬入口に出入りする作業員たちを観察する。
全身をオイルと煤にまみれさせた整備士や、清掃用のアンドロイドたちが行き交っている。
「見ろ。あのメンテナンス用のアンドロイド。お前によく似た体型だと思わないか?」
「え? あんな鉄の人形と私が似てるって? 失礼ね」
「サイズ感の話だ。いい作戦を思いついた。この作戦なら警備網をすり抜けて最深部まで行ける」
「どんな作戦?」
「名付けて、セクシー・アンドロイド作戦だ」
「……嫌な予感がするんだけど」
「安心しろ。成功率は90%以上だ。ただし、少しばかり、ヌルヌルするかもしれないがな」
「ヌルヌル?」
ナオトはニヤリと笑い、ゴミ山の中に落ちていた工業用潤滑オイルの缶を拾い上げた。
「さあ、復讐の時間だ。失った金の分だけ、派手に暴れてやるぞ」
「望むところよ! 待ってなさい、私の100億ゴールド!」
雨の路地裏で、無一文の英雄たちが再起を誓う。
もはや守るべき体裁も、失うべき金もない。
あるのは燃え上がる復讐心と、底なしの食欲だけ。
カジノ・ロワイヤルにとって、最も危険なジョーカーが今、解き放たれようとしていた。




