第60話 帰還の祝杯と、古き民の遺言
カチンッ!
軽快な音が、ポルト・ロッサの酒場『潮騒の亭』に響き渡った。
並々と注がれた琥珀色のエールが入ったジョッキが勢いよくぶつかり合う。
「「かんぱーい!!」」
「くぅ~っ! しみるぅ! 生き返るぅ!」
ミオがジョッキを傾け、喉を鳴らしてエールを飲み干す。
ぷはぁ、と息を吐き出すその顔は迷宮での死闘が嘘のような満面の笑みだ。
「最高! やっぱり、ダンジョンの後はこれがないと始まらないわね!」
「お前の場合、ダンジョンの前でも後でも飲んでる気がするがな。まあいい、今回は特別だ。俺たちの完全攻略を祝してな」
ナオトもゆっくりとエールを味わう。
冷えた炭酸と苦味が疲労した体に心地よい刺激を与えてくれる。
生きて帰ってきた。そして、最高の成果を手に入れた。
その実感が胃の腑に落ちていく。
「さあさあ、お待ちどうさま! 当店自慢の特製・海鮮山盛り丼だよ!」
女将さんがドン、ドン、とテーブルに置いたのは宝石箱をひっくり返したような丼だった。
酢飯が見えないほど敷き詰められた刺身の数々、プリプリのエビ。
中央にはまだ動いている新鮮な貝の剥き身が鎮座している。
「うわぁぁぁ! 輝いてる! 海鮮の宝石箱やぁ!」
「どこかのグルメリポーターみたいなことを言うな。ほら、食おうぜ」
「いただきまーす! ん~っ! トロトロ! 脂が舌の上で溶けるぅ!」
ミオが頬をリスのように膨らませて悶絶する。
「うん、美味い。この世界に来て一番のご馳走かもな」
「ナオト、エビも食べてみて! 甘い! 砂糖より甘い!」
「それは言い過ぎだ。しかし、濃厚だな。貝の歯ごたえもいい」
「幸せ。私、このために生きてる。もう、あの塔のことは忘れたわ」
「忘れるなよ。あそこで手に入れた資産のおかげで、この飯が食えてるんだからな。それに、まだ確認しなきゃならないこともある」
ナオトが苦笑しながら、追加の唐揚げを注文する。
周囲の客たちは泥だらけのローブと傷ついた鎧を纏った二人を奇異な目ではなく、敬意のこもった目で見ている。
彼らが黄昏の尖塔から生還したという噂はすでに街中に広まり始めていた。
◇ ◇ ◇
腹を満たし、宿の部屋に戻った二人はようやく一息ついた。
窓の外にはポルト・ロッサの夜景が広がり、穏やかな波音が聞こえてくる。
「ふぅ。落ち着くな、やっぱり」
「ねえねえ、早く! 竜ちゃん出して!」
ミオがベッドの上で跳ねながら催促する。
彼女の手には塔で手に入れた黒い宝石、黄昏の守護竜石が握られている。
「分かったよ。だが、部屋の中で10メートルサイズになられたら宿が崩壊するぞ。サイズ調整はできるのか?」
「分かんないけど、やってみる! えっと、出ておいで、クロ!」
「クロ?」
「今決めた名前! 安直だけど、呼びやすいでしょ?」
ミオの呼びかけに応えるように、宝石がポゥと紫色の光を放った。
光が床に落ち、小さな影の渦を作る。
そこからポンッと飛び出してきたのは、巨大な守護竜――ではなく、子犬ほどのサイズの黒いトカゲのような生き物だった。つぶらな瞳と、パタパタと動く小さな翼。
「きゅぅ!」
「かわいいぃぃぃ!!」
ミオが即座に抱き上げる。
竜――クロはミオの頬にスリスリと顔を擦り付け、嬉しそうに尻尾を振った。
「なんだ、愛想がいいな。あの時の威圧感はどこに行ったんだ」
「ナオトにも挨拶しなさい。ほら、クロ。ご主人様その2よ」
「その2かよ。まあいい」
ナオトが手を差し出すと、クロはクンクンと匂いを嗅ぎ、ペロリと指を舐めた。
「きゅ!」
「よしよし。そういえば、クロはご飯食べないのかしら?」
「解析データによると魔力を食べるらしい。普段は影の中で休ませておけば俺の魔力を少しずつ供給できる」
「燃費もいいのね! 最高のペットじゃない!」
ミオがクロを膝に乗せて撫で回す。クロは気持ちよさそうに目を細めている。
「さて、と。俺の方も確認するか」
ナオトは椅子に座り、自分の足元の影を見つめた。
意識を集中させると脳内にウィンドウが開くような感覚がある。
これが影の倉庫のインターフェースだ。
「容量は……測定不能か。マジで底なしかよ」
現在収納されているのはミオの剛剣・ギガント、着替え、道中で拾ったガラクタ、そして塔の攻略中に手に入れたドロップアイテムの数々。
「カテゴリ分けも自動か。武器・防具・素材・貴重品。検索機能もある。便利すぎて涙が出そうだ」
SE時代、乱雑なデータベースの整理に追われていたナオトにとって、この洗練されたUIは芸術的にすら見えた。古代文明のプログラマーに敬意を表したい。
「ん? なんだこれ」
ナオトの手が止まる。
貴重品フォルダの最下層。ナオトが入れた覚えのないデータが一つ、鎮座していた。
「どうしたの? エッチな本でも入ってた?」
「違う。初期データだ。俺たちが使う前から、この倉庫に入っていたものがある」
「え? 前の持ち主の忘れ物?」
「いや、違うな。『Administrator_Log001』。管理者ログだ」
ナオトは慎重にそのデータにアクセスし、展開を念じた。
シュンッ。
ナオトの影から一枚の青白い石板――ホログラムのような光の板が浮き上がってきた。
「なにこれ。光ってる」
ミオがクロを抱いたまま覗き込む。
「映像記録だ。再生するぞ」
ナオトが石板に触れると、部屋の空中にノイズが走り、一人の人物の姿が投影された。白衣のような服を着た、痩せた男。
背景には見たこともない機械類が並ぶ研究室のような場所が映っている。
『……記録を開始する。私は第7魔導研究所の主任、アルスだ』
男の声は翻訳スキルを通じてナオトたちの脳に直接響いてきた。
「第7魔導研究所? 聞いたことないわね」
「静かに。千年前の人間だ」
『今日、女神による強制執行が決定された。我々の文明は明日、滅びるだろう』
男の表情は絶望と、それ以上の決意に満ちていた。
『我々は知恵という禁断の果実をかじりすぎた。その結果生まれた澱みが、世界を蝕んでいることは否定しない。だが、我々が生きた証、我々が築いた技術の全てを無に帰すことだけはどうしても納得できない』
男が画面の向こうで拳を握りしめる。
『だから、我々はこの影の倉庫を作った。物理世界が焼き尽くされても、亜空間にあるこの場所は女神の干渉を受けない。ここに、我々の希望を隠す』
「希望?」
『未来の誰かよ。もし君がこのログを見ているなら、君は女神の試練を越え、この鍵を手にした資格者なのだろう』
男の目が、まるで時を超えてナオトを見据えているように見えた。
『この倉庫には我々の時代の設計図や理論が眠っている。だが、最も重要なものは、ここにはない』
「ないの? どこにあるの?」
『天空のゆりかご……かつて我々が住んでいた浮遊都市の残骸。そこに女神を止めるための対神兵器の秘密を隠した』
「対神兵器!?」
ナオトが息を呑む。話のスケールが一気に跳ね上がった。
『ベルゼビュート……あの裏切り者のAIも、それを探しているはずだ。奴に渡してはならない。奴がそれを手にすれば、世界は再び汚染され、今度こそ完全に終わる』
映像にノイズが走り始め、男の声が途切れ途切れになる。
『頼む。我々の過ちを繰り返さず……しかし、我々の技術を正しい形で……未来へ……』
プツン。
映像が消え、光の板がナオトの影に戻っていった。
部屋に重苦しい沈黙が落ちる。
聞こえるのは、何も分かっていないクロの「きゅぅ?」という鳴き声だけだ。
「なんか、とんでもないことになっちゃったわね」
ミオが呆然とつぶやく。
ただのお宝探しだったはずが、世界の命運に関わる話になっていた。
「天空のゆりかごか。ミオ、何か知ってるか?」
「ううん。酒場の噂話でも、そんなのは聞いたことないわ」
「そうか。まあ、無理もない。千年も前の浮遊都市なんて、今は雲の上の伝説だろう」
ナオトは腕を組み、天井を見上げた。
「で、どうするのナオト? 明日からその天空のゆりかごを探す旅に出る?」
ミオの問いに、ナオトは少し考え込み、そして首を横に振った。
「いや。今は動かない」
「えっ? でも、ベルゼビュートって奴が狙ってるんでしょ? 急がなくていいの?」
「急ぐ必要はない。むしろ、急いじゃいけない」
ナオトは指を一本立てて説明を始めた。
「第一に、俺たちはまだ弱すぎる。今回の塔ですらギリギリの勝利だった。空の上にどんな怪物がいるか分からない以上、今の戦力で行くのは自殺行為だ」
「むぅ。悔しいけど、否定できないわね」
「第二に、このメッセージは千年前のものだ。もしベルゼビュートが本気でその対神兵器を欲しがっているなら、千年もあればとっくに見つけているはずだ」
「あ! 確かに」
「なのに俺たちが手に入れた影の倉庫の魔導書は手つかずのまま残っていた。つまり、今のベルゼビュートにとって、女神を倒すことは最優先事項じゃないのかもしれない」
「どういうこと?」
「今の世界を見てみろ。魔族が人間を支配し、搾取する構造が出来上がっている。奴らにとって、今の状況は十分に美味しいんじゃないか? わざわざリスクを冒して神と戦わなくても、甘い汁は吸える」
「なるほどね。悪い奴らが考えそうなことだわ」
ナオトは影の中で眠る膨大なアイテムリストを思い浮かべた。
「俺たちがやるべきことは焦って世界を救うことじゃない。まずはこの影の倉庫を使いこなして、確実に強くなることだ」
ナオトがミオの方を向き、真剣な眼差しを向ける。
「もっと良い装備を揃えよう。もっと美味いものを食おう。もっと金を稼いで、どんなトラブルにも対応できる力をつけよう。天空のゆりかごを目指すのは俺たちが十分に強くなって、準備万端になってからだ」
「つまり?」
「つまり、当面の方針は変わらない。この世界を泥臭く、賢く、豊かに生き抜くことだ」
その言葉を聞いて、ミオの顔がパァッと明るくなった。
「賛成! 私、いきなり世界を救えとか言われてもピンとこないし! それより、美味しいもの食べて、強いモンスター倒して、レベルアップする方が楽しい!」
「そういうことだ。俺たちの冒険は俺たちのペースで進める」
「うん! じゃあ、明日は何する?」
「まずはこの街で、不要なアイテムを換金だな。影の倉庫を使えば行商だって楽勝だぞ。相場を調べて、高く売れる街へ運ぶだけで大儲けだ」
「さすがナオト! 金の亡者!」
「褒め言葉として受け取っておく」
ナオトは手帳を開き、新しいページに書き込んだ。
【目標:天空のゆりかご (長期目標)】
【当面の予定:資金稼ぎ、装備強化、レベル上げ。あと、温泉旅行】
「温泉?」
ミオが覗き込んで目を輝かせる。
「ああ。西の方に有名な温泉街があるらしい。行商ついでに行ってみるか」
「行く! 絶対行く! クロも一緒ね!」
「きゅぅ!」
夜は更け、二人の笑い声が部屋に満ちる。
世界の謎や、神との因縁は頭の片隅にしまっておけばいい。
今はこの手に入れた自由と可能性を存分に楽しむ時だ。
ミオとナオト。
最強の倉庫を手に入れた二人の、真に豊かで、したたかな異世界生活はここからが本番なのだから。




