第59話 最上階と、黄昏の守護竜
ドッペルゲンガーとの激闘を制し、静寂を取り戻した最上階。
ナオトは震える手で祭壇に鎮座する漆黒の書物――『影使いのグリモワール』を掴み取った。
ずっしりとした重み。表紙の紫色の魔石が、まるで生きているかのようにドクリと脈打つ。
「……ナオト、それどうやって使うの? 食べるの?」
ミオが剛剣を杖にして体を支えながら、純粋な瞳で問いかける。
「ヤギじゃないんだから食わない。古代語のルールに従うなら、所有者が契約を読み上げることで起動するはずだ」
ナオトは深呼吸をして、重厚な表紙を開いた。
ページに躍るのは読めるはずのない複雑怪奇な幾何学模様と古代文字。
だが、ナオトにはそれが以前プレイしたゲームに出てきた暗号パズルと同じように見えたのだ。
「我、影を統べる者なり。虚空の胃袋を開き、万物を無へと還さん」
ナオトが冒頭の一節を口にした瞬間だった。
魔導書がカッと激しい光を放ち、文字がページから飛び出してナオトの体に絡みついた。
「うわっ!? ナオト!?」
「騒ぐな、正常な反応だ! インストールが始まった!」
光の鎖がナオトの全身を駆け巡り、やがて彼の足元――長く伸びた影へと吸い込まれていく。
そして驚くべきことに、ナオトの手の中にあった魔導書自体も、泥のようにドロドロに溶け出した。
「えっ? 本が溶けてる! 失敗!?」
「……違う。融合しているんだ」
溶けた黒い液体は滴り落ちてナオトの足元の影と一体化した。
波紋が広がり、影がドクリと脈打つ。
ナオトの意識の中に新しいフォルダが作成されたような感覚が走った。
無限の容量を持つ、異次元のストレージ領域。
「インストール完了。影の倉庫、習得したぞ」
ナオトが自分の影を見つめ、拳を握りしめる。
物理的な本は消滅した。だが、機能は確かに彼の中に――いや、彼の影の中に宿っている。
「すごーい! でも、本が無くなっちゃったけどいいの? 売れないじゃん」
「ああ。この魔導書はスキルを授けるとともに授けた者の影へ沈む仕様だ。つまり、今の俺自身が生きた倉庫になったってことだ」
「へぇ。じゃあ、もしナオトが死んだら中身はどうなるの?」
ミオの純粋な疑問に、ナオトはニヤリと笑った。
「そこが一番のポイントだ。この契約は魂に結びついている。俺が死んでも、このスキルは俺の魂と共にあり続ける。つまり、たとえ死んで蘇生したとしても、アイテムをロストすることはない」
「やった! 全ロス回避ね! 最強じゃない!」
「ああ。このスキルが解除されるのは俺が自らの意思で『放棄』を宣言した時だけだ。その時初めて、魔導書はこの塔に再出現し、次の持ち主を待つことになる」
「なるほどね! ナオト、大事にしなさいよ」
「当然だ。俺の全財産がかかってるからな」
ナオトが満足げにうなずいた、その時だった。
ズズズズズ……!
ナオトの足元の影――ではなく、部屋の奥、鏡の破片が散らばる床から、どす黒い霧が噴き出した。
「なによ、今の音?」
「地鳴りか? いや、魔力反応が急上昇している! 何かが来る!」
床が沼のように波打ち、そこから這い出してきたのは、この世の闇をすべて煮詰めたような漆黒の巨体だった。
鎌首をもたげたその高さは優に10メートルを超えている。
翼はなく、長い胴体が空中でトグロを巻く姿は東洋の龍に近い。
圧倒的な質量の影が意思を持ってそこに顕現していた。
「デカい。さっきの偽物たちが可愛く見えるサイズね」
ミオが剛剣を構え直し、冷や汗を流しながら巨体を見上げる。
その瞳孔が開き、野生の警鐘がガンガンと鳴り響いているようだ。
「黄昏の守護竜! クソッ、やっぱり魔導書を手に入れた後に裏ボスがいるパターンか! 女神様も性格が悪い!」
ナオトが毒づきながら、フラスコを構える。
だが、ドッペルゲンガー戦で消耗した体力と魔力は限界に近い。
新しいスキルを手に入れた高揚感が、死の恐怖へとすり替わってゆく。
「ミオ、散開だ! ブレスが来るぞ!」
竜が顎を大きく開いた。
口腔の奥でドス黒い魔力が圧縮されていく――ように見えた。
「来るわよッ!」
ミオが横っ飛びに回避行動をとる。ナオトも柱の陰に滑り込む。
しかし。
……シーン。
何も起きない。
爆音も、衝撃も、熱波も来ない。竜は口を開けたまま、ただじっと二人を見下ろしている。
「……あれ? ブレスは?」
ミオが柱の陰から恐る恐る顔を出す。
「不発か? いや、溜めが長いだけかもしれん!」
ナオトが叫ぶ。
竜がゆっくりと首を動かし、ミオの方を向いた。
その瞳は先ほどのドッペルゲンガーのような禍々しい赤色ではなく、静かな紫色に輝いている。
「こっち見た! 睨んでるわよ!」
「ロックオンされたか! ミオ、動け! 止まったら的だぞ!」
「分かってる! やられる前にやるしかないわね! 剛剣・ギガント、全力攻撃!」
ミオが床を蹴る。
相手が動かないなら好都合。一気に懐に飛び込み、20キロの鉄塊をフルスイングで叩き込む。
「首をもらうわぁぁぁッ!!」
ブォンッ!!
風を切り裂く轟音と共に剛剣が竜の首筋を捉えた。しかし――。
スカッ。
手応えがない。
巨大な刃は黒い霧を払うように竜の体をすり抜け、空しく空を切った。
「はぁ!? また物理無効!?」
勢い余ってつんのめるミオ。
無防備な背中が竜の目の前にある。通常なら、ここで尻尾の一撃が飛んでくるはずだ。
「ミオ、伏せろ! 反撃が来るぞ!」
ナオトが警告する。ミオは反射的に身を縮こまらせ、防御姿勢をとった。
……シーン。
やはり、何も起きない。
竜は足元で丸まっているミオを興味深そうに見下ろしているだけだ。
「ねえナオト。こいつ、攻撃してこないんだけど?」
「なんだ? バグか? AIがフリーズしてるのか?」
ナオトがゴーグルを操作し、解析を試みる。
だが、竜の体は高密度の影で構成されており、通常の解析魔法を弾いてしまう。
レンズには『UNKNOWN』の文字が点滅するばかりだ。
「……不気味だ。だが、物理が効かない以上、こちらの攻撃手段もない」
「どうすんのよ! 睨めっこしてる間に何かチャージしてるかもしれないわよ! ほら、RPGでよくあるじゃない。力を溜めているってやつ!」
「くっ! 一か八かだ! ミオ、下がれ! 俺が試す!」
ナオトは意を決し、今しがた手に入れた影の倉庫のスキルを発動させる。
魔導書はもうない。だが、感覚はある。自分の影が手足のように動かせる感覚が。
「ミオ! お前の剛剣を貸せ!」
「え? 投げるの?」
「違う! 俺の影に入れるんだ! 部分的に!」
ナオトの指示通り、ミオは剛剣の切っ先をナオトの影に突き刺した。
ズブッ。
剣先が亜空間に飲み込まれ、黒いオーラを纏う。
ナオトの魔力が影を通じて剣に流出していく。
「影属性付与! これなら当たるはずだ! 行けミオ!」
「了解ッ! 今度こそ、ぶった斬る!」
ミオが再び跳躍する。
黒いオーラを纏った剛剣を振りかぶり、無抵抗の竜の脳天目掛けて振り下ろした。
「必殺! 暗黒・脳筋・断ち!!」
ズドォォォォォン!!
今度は確かな手応えがあった。
剣が竜の額に吸い込まれるように命中する。硬質な音ではなく、柔らかな光に包まれるような感触。
だが、竜は悲鳴を上げなかった。避けることもしなかった。
むしろ、自らその剣を受け入れるように頭を下げたのだ。まるで、主人の撫でる手を待つ犬のように。
「え?」
ミオが空中で静止する。
剣がめり込んでいるのに血も出ない。暴れもしない。
代わりに竜の全身が眩い紫色の光に包まれ始めた。
『――認証完了。管理者権限ヲ確認』
頭の中に直接響くような、重厚な念話。
「しゃ、喋った!?」
『汝ラヲ、新たナ主ト認ム。影ノ倉庫ハ、汝ラノ魂ト共ニ』
光の中で竜の巨大な体が急速に縮んでいく。
10メートルの巨体が渦を巻いて収束し、やがてミオの手のひらに収まるサイズになった。
カラン、コロン……。
床に落ちたのは拳大の黒い宝石だった。
「終わった?」
ミオがポカンとして、宝石を拾い上げる。
広間に満ちていた重圧感は消え失せ、代わりに爽やかな朝の風が吹き抜けていく。
「どういうことだ?」
ナオトが駆け寄り、宝石をゴーグルで解析した。今度ははっきりとデータが表示された。
【アイテム名:黄昏の守護竜石】
【分類:自律型サポートユニット】
【状態:スタンバイモード (正常)】
【説明:影の倉庫の拡張モジュール。倉庫の番人および運搬手となる。非常に忠実で人懐っこい】
「なるほど。読めたぞ」
ナオトが深いため息をつき、へなへなと座り込んだ。全身の力が抜けていく。
「こいつは敵じゃなかった。試練をクリアして、魔導書と一体化した俺たちに与えられた特典アイテムだ」
「はぁ? 特典?」
「ああ。俺たちは味方になろうとして出てきたペットを、全力で殴りかかって殺そうとしていたわけだ」
「うそぉ」
ミオが顔を引きつらせて手の中の宝石を見る。
さっきまでの自分の殺気が急激に罪悪感へと変わっていく。
「ご、ごめんね? 敵だと思って。痛くなかった?」
宝石が微かに「ブゥン」と震え、紫色の光を放った。まるで「気にしてないよ」と言っているかのように温かい波動が伝わってくる。
「女神様のセンス、分かりにくいわよ! 普通、魔導書が消えた直後にあんなデカいのがドロドロしながら出てきたら、ラスボスだと思うでしょ!」
「全くだ。セキュリティシステムが厳重すぎるんだよ。『おめでとうございます』の垂れ幕くらい用意しておけってんだ」
ナオトは苦笑しながら立ち上がり、ローブの埃を払った。結果オーライだ。
影の倉庫だけでなく、それを守る強力なガーディアンまで手に入れたのだから。
それに竜の態度を見る限り、ミオの一撃はスキンシップとして処理されたようだ。
「まあ、これで本当の意味で攻略完了だな」
「うん! なんか最後は拍子抜けだったけど、勝ちは勝ちよ!」
ミオがVサインを作る。
窓のない最上階の天井がスライドし、外の光が差し込んできた。
夜明けだ。西の大陸の荒野を朝日が黄金色に染めていく。
「帰ろう、ミオ。今度こそ、本当の打ち上げだ」
「賛成! お腹ペコペコよ! 今なら、あの海鮮丼5杯は食べられるわ!」
「5杯も食ったら、お前が竜みたいになるぞ」
「失礼ね! 食べた分は全部筋肉になるのよ! ナオトだって、ビール樽みたいなお腹になっても知らないからね」
「俺は頭を使うからカロリー消費が激しいんだよ」
二人の軽口が朝日に照らされた広間に響く。
ナオトは自分自身の影を見つめた。
もう本はない。だが、この影の中に全てがある。
死んでも失われない、魂の資産。それこそが、ナオトが最も求めていた安心感だった。
「よし、行くか」
ナオトは出口へと向かった。
帰り道はきっと来た時よりも足取りが軽いはずだ。何しろ、重たい荷物はすべて影の中にしまえるのだから。
「あ、そうだナオト。さっそく、この重たい剣しまってもいい?」
「ああ。入れてみるか?」
「うん! じゃあ、お願い!」
ミオが剛剣を差し出す。
ナオトが念じると、足元の影が水面のように広がり、剣を飲み込んだ。
ズブブ……と沈んでいき、完全に消失する。ナオトの体感重量は変わらない。
「うわっ、ホントに消えた! すっごい身軽! 羽が生えたみたい!」
ミオがその場でくるりと回り、ジャンプしてみせる。
「これで帰りの道中は楽できそうね。あ、ついでに私の着替えとか、化粧水とかも入れていい? あと、お土産の石とか」
「俺のMPが続く限りな。あんまりゴミを詰め込むなよ」
「ゴミじゃないもん! 思い出だもん!」
「はいはい。ったく、調子のいい奴だ」
「やった! ナオト、最高の荷物持ちね!」
「誰が荷物持ちだ。管理者と呼べ」
二人は笑い合いながら塔を後にした。
肩を並べて歩く二人の背後には長い影が伸びている。
その影の中には無限の可能性と頼もしい小さな竜が眠っている。
ミオとナオトの異世界生活は最強のインフラを手に入れ、ますます充実していく。




