第57話 女神の壁画と、世界の真実
長く、暗く、そして骨の髄まで凍えるような螺旋階段をようやく登りきった、その時だった。
ナオトの腰に吊るされていたランタンが、カッという音を立てて、力強い黄金色の輝きを取り戻した。
「……あ! ついた! 明かりがついた!」
ミオが歓声を上げ、松明を放り出してランタンの光に手をかざす。
先ほどまでの頼りない炎とは違う、魔力に満ちた温かな光が冷え切った空間を一気に満たしていく。
「どうやら、忌々しい魔法禁止エリアを抜けたようだな。ああ、温かい。生き返る心地だ」
「ホント生き返るぅ! やっぱり魔法って偉大ね! 科学もいいけど、この即効性は魔法の勝ちよ! 見てナオト、ビキニアーマーの保温機能も完全復活したみたい!」
ミオが嬉しそうに飛び跳ね、自分の体をペタペタと触っている。
冷たい鉄屑のようだった金属の表面に再び淡いミスリルの輝きと、熱を帯びた魔力皮膜が戻っていた。
「なら、そろそろ俺のローブを返してもらえないか? シャツ一枚だと、さすがにまだ肌寒いんだが」
「えー? もうちょっと着てていい? これ、大きくて毛布みたいだし、なんかナオトの匂いがして落ち着くのよね」
「お前、さっき汗臭いって言ったよな。訂正はなしか?」
「前言撤回! 男の勲章の香りってことにしておくわ。それに、このローブを着てると、守られてる感があって、バフがかかってる気がするのよ」
「調子のいい奴だ。まあいい、風邪をひかれるよりマシだ。そのまま着ておけ。どうせ俺は錬金術でカイロ代わりの発熱パックを作れるからな」
「やった! ナオト大好き! あ、見て。あそこ」
ミオが指差した先には通路の突き当たりに鎮座する、巨大な両開きの扉があった。
黒曜石を削り出して作られたその扉は見上げるほどの高さがあり、表面には精緻なレリーフがびっしりと刻まれている。
下の階層で見た、煤けた壁画とは比べ物にならないほど鮮明で、禍々しいほどの魔力を放っていた。
絵の中の人物や風景が、まるで生きているかのように微かに明滅し、蠢いている。
「すごい。これ、動いてない? アニメーションしてるわよ?」
「動いているな。魔法的なホログラムに近い技術だ。ナオト・レンズ、起動」
ナオトは真鍮製のゴーグルを装着し、右側のダイヤルを指先で回した。
小さな駆動音が静寂に響き、複数のレンズがスライドして焦点を合わせる。
魔力視が完全に復活した今、そこにある情報の奔流が、色とりどりの光の波長となってナオトの網膜に飛び込んできた。
「なるほど。下の階にあった壁画は一般市民に向けた表の歴史。こっちは管理者だけが見ることを許された裏のシステムの説明書か」
「システム? どういうこと? ただの昔話じゃないの?」
「下の階で見た通り、かつて女神はこの星にあった高度な文明を滅ぼした。大崩壊と呼ばれるリセットだ。だが、当時の人類――あるいは魔導科学者たちは、ただ座して滅ぼされたわけじゃなかったんだ」
ナオトが扉の中心、黒い渦のような絵を指差す。
そこには崩れゆく都市の中で、人々が自分の財産や技術、書物などを、その黒い影の中に必死に投げ込んでいる様子が描かれていた。
「見てみろ。人々が自分の大切なものを、この黒い影の中に投げ込んでいるのが分かるか?」
「捨ててるの? ゴミ捨て場?」
「いいや。バックアップを取っているんだ」
「バックアップ?」
「女神による初期化から逃れるために、物質やデータを現実世界とは異なる亜空間、つまり、影に退避させたんだよ。それがこの塔の正体であり、俺たちが探している秘宝『影の倉庫』の起源だ」
ミオが目を丸くして、扉の絵を凝視する。
「えっ? じゃあ、影の倉庫って魔法じゃなくて……」
「古代のクラウドストレージへのアクセス権限だ。魔法という皮を被っているが、その本質は超高度なテクノロジーだよ。魂をIDにして、影というサーバーにログインし、アイテムをアップロード・ダウンロードする。俺たちが求めているのは、その管理者権限だ」
「うわぁ。なんか急にSFっぽくなってきた。ナオトが好きそうな話ね」
「俺にとってはこの上ない好物だ。そして、こいつだ」
ナオトの指がレリーフの端、影の隙間に描かれた不気味な人物像を指し示す。
黒いローブを纏い、特徴的なハエの仮面をつけた男が、その黒い影をこじ開けようとしている図だ。
「ハエ? これ、ベルゼビュート?」
「ああ。間違いない。奴の目的が見えた気がする」
ナオトは顎に手を当て、SEとしての知識と、この世界での経験を照らし合わせながら推論を口にする。
「奴はこの世界に隠された古代の遺産を解凍しようとしているんだ。影の倉庫はそのための鍵の一つに過ぎない」
「解凍したら、どうなるの?」
「女神が封印した魔導科学文明が復活する。世界は再び便利になるかもしれない。空飛ぶ船が飛び交い、自動人形が働き、誰もが楽をして暮らせる世界だ。だが、同時に魔力が汚染され、人間はシステムの一部に組み込まれるだろうな」
「電池にされるってことね。マトリックスみたいに」
「そうだ。奴らにとって、今のファンタジー世界は不便で非効率な旧バージョンなんだろうよ。だから、強制アップデートしようとしている。俺たちがドルグやゼルトで見た機械化都市はその実験場だったんだ」
ナオトがギリッと奥歯を噛む音が静かな空間に響いた。
「ふざけるな、って話だ」
「ナオト?」
「俺たちは、この不便な世界で汗をかいて、知恵を絞って、泥にまみれて生きてる。今日はどこで寝ようか、明日の飯はどうしようか、そんな当たり前の苦労を楽しんでるんだ。それを非効率の一言で上書きされてたまるか」
ナオトは拳を握りしめ、扉のレリーフに描かれたベルゼビュートを睨みつけた。
彼の脳裏には日本での効率と生産性だけに追われていた日々の記憶が蘇っていた。
あの息苦しさを、この自由な世界にまで持ち込ませるわけにはいかない。
「俺たちが影の倉庫を手に入れるのは私利私欲のためだけじゃない。奴らにこの鍵を渡さないためでもある。俺たちが先に管理者権限を奪取して、奴らの計画をブロックするんだ」
「うん。なんか難しい理屈はナオトに任せるけど、要するに、あいつらの邪魔をして、お宝は私たちが美味しくいただくってことでしょ?」
「言い方は相変わらず品がないが、その通りだ。俺たちの方がこのスキルを楽しく、そして正しく使える自信がある」
ミオがニカッと笑い、背中の剛剣の柄をバシッと叩いた。その笑顔には迷いも不安もない。
「OK! 動機は十分! 世界を救うついでに最強の資産運用スキルもゲット! 一石二鳥ね!」
「そういうことだ。準備はいいか、ミオ。この扉の向こうに管理者がいるはずだ。今までの影の怪物とはレベルが違うぞ」
「もちろんよ! ナオトのローブも借りてるし、体調も万全! 無敵な気分だわ!」
「それは本当に早く返してほしいんだが」
「却下! このダンジョンをクリアするまで私が着てる! ナオトは後ろで震えてなさい!」
「やれやれ。よし、開けるぞ!」
ナオトが両手を巨大な石扉に当てる。体内の魔力を練り上げ、扉のロック機構に干渉する。
「認証開始」
ズズズズ……ゴゴゴゴ……!
重厚な石の扉が千年分の眠りから覚めたかのような地響きを立てて、ゆっくりと内側へと開いていく。
隙間から溢れ出す空気は腐敗した澱みでも、神聖な光でもなかった。
奇妙な無の気配。そして、キラキラと反射する無機質な光。
「行くぞ!」
「おうッ!」
二人は足並みを揃え、最後の部屋へと踏み込んだ。そこには彼らの予想を裏切る、奇妙な空間が広がっていた。
広い円形の広間。
天井はなく、夜空の星々が直接見下ろしている。
そして、その広間の壁一面に無数の鏡が立ち並んでいた。
合わせ鏡になった空間が無限の奥行きを作り出している。
「鏡? なにこれ、万華鏡の中にいるみたい」
「気をつけろ、ミオ。鏡には魂が映ると言う。何かが、こちらの様子を伺っている」
ナオトが警告を発した瞬間だった。
鏡の中に映る自分たちが、ニヤリと笑った気がした。いや、気のせいではない。
鏡像は本体が動いていないのに勝手に動き出したのだ。
「嘘でしょ?」
ミオが息を呑む。
鏡の中のミオが背中の剛剣を引き抜き、殺意に満ちた目でこちらを見ていた。
そして、鏡の中のナオトが不敵な笑みを浮かべてフラスコを構えている。
「ようこそ、欲深き侵入者たちよ」
声が響いた。
それはナオトの声であり、ミオの声でもあった。重なり合った二つの声が鏡の迷宮に反響する。
「自分自身と戦う覚悟はできているか?」
パリンッ!
何枚もの鏡が同時に割れ、その破片の中から漆黒の影が実体を持って飛び出してきた。
その姿はナオトとミオ、そのものだった。




