第55話 迷宮のルールと、松明の灯り
カツーン、カツーン。
硬質な足音が、どこまでも続く螺旋階段に虚しく反響する。
『黄昏の尖塔』の中層エリア。
先ほどまでの薄暗いオレンジ色の光は姿を消し、周囲は粘りつくような漆黒の闇に支配されていた。
「ねえ、ナオト。暗くない?」
「暗いな。視界ゼロだ」
「ランタンつけてよ。ナオトの錬金術で作った永続光のランプがあるでしょ?」
「試したさ。見てみろ」
ナオトが腰に吊るしたランタンを掲げる。
本来なら周囲を昼間のように照らすはずの魔法の灯りは、蛍の尻ほどの輝きすら失い、燻った炭のように赤黒く明滅しているだけだった。
「……消えそう」
「このエリアは深淵の闇だ。大気中のマナ濃度が極端に低い、あるいは光属性の魔力だけを吸収する結界が張られている」
ナオトがゴーグルのダイヤルを回す。
ジジジ、と小さな歯車の音がして、暗視レンズがスライドする。だが、ナオトは舌打ちをした。
「チッ。暗視モードも機能不全か。魔力駆動の増幅回路が動かない」
「えぇ!? じゃあ、手探りで進むの!? 無理よ! 私、鳥目なんだから!」
ミオがパニック気味にナオトのローブの裾を掴んだ。
20キロの剛剣を背負った最強の女戦士も、お化けと暗闇には勝てないらしい。
震える指先が彼女の不安を物語っていた。
「落ち着け。魔法がダメなら、科学を使えばいい」
ナオトは背負い袋から、一本の木の棒を取り出した。先端に油を染み込ませた布が巻かれている。
「松明?」
「ああ。市場で買っておいた。原始的だが物理的な燃焼現象なら、魔力吸収の影響は受けないはずだ」
ナオトは火打ち石を取り出し、カチカチと打ち合わせた。火花が散り、オイルの匂いが鼻をくすぐる。
ボッ!
オレンジ色の炎が勢いよく燃え上がった。
魔法の冷たい光とは違う、熱を持った暖かな灯り。
それが半径3メートルほどの空間を照らし出した。
「ついた!」
「成功だな。だが、油断するなよ。この光が届く範囲しかし視認できない。その外側は完全な未知だ」
揺らめく炎が二人の影を長く、そして不気味に壁に映し出す。
闇の奥からは時折ヒュオオという風の音が聞こえるだけで、生体反応はない。
いや、ナオトの直感が告げている。いないのではなく、気配を消しているのだと。
「……行くぞ。俺から離れるな」
「言われなくても離れないわよ! ……あ、ちょっと! 歩くのが速い!」
ミオがナオトの左腕にギュッとしがみつく。柔らかい感触と、温かい体温。
しかし、今のナオトにそれを楽しむ余裕はなかった。
彼は松明を高く掲げ、右手のナイフをいつでも投げられるように構えながら、慎重に歩を進めた。
◇ ◇ ◇
しばらく進むと、回廊の壁画が変わったことに気づいた。
ただの装飾ではない。煤けた壁一面に何か物語のような絵が刻まれている。
「なにこれ。物語?」
ミオが松明の光に照らされた壁を見上げる。
「歴史画だな。かなり古い」
ナオトはゴーグル越しに壁画を解析した。そこに描かれていたのは驚くべき光景だった。
空に浮かぶ巨大な船。天を突く高い塔。そして、人々が手に持つ四角い板――まるでスマートフォンのような端末。
「これ、古代文明?」
「ああ。見てみろ。人々は魔法ではなく、機械を使っている。豊かな生活、高度な技術」
ナオトが指差す先には繁栄を極める都市の絵があった。
しかし、別の絵になると、その様子は一変する。
機械仕掛けの兵士が人間を襲い、空飛ぶ船が火を噴いている。
そして、地面からは異形の怪物――魔族たちが湧き出している。
「文明が発達しすぎて、自滅した?」
「それだけじゃない。この絵を見ろ」
ナオトが照らしたのは空から降り立つ一人の女性の姿だった。
背中に光の翼を持ち、手には天秤を持っている。女神だ。
女神は悲しげな顔で地上を見下ろし、次の瞬間の絵では都市が巨大な光に包まれて消滅していた。
「女神様が滅ぼしたの?」
「リセットだ。高度な文明は魔族を生み出す温床となる。人々が楽をして、欲望を肥大化させ、魂が濁った時、魔界の門が開く」
ナオトが古代文字を読み解く。
『知恵は罪なり。便利は毒なり。汝ら、汗を流し、血を流して生きよ。さすれば魂は清浄に保たれん』
「うわぁ。スパルタ教育」
「つまり、この世界の大半が中世レベルの文明で止まっているのは、技術がないからじゃない。女神が意図的に止めているんだ」
ナオトは確信した。自分たちがスマホを捨てた判断は正しかったのだと。
魔族はかつての文明の亡霊、あるいはそのシステムが生み出したバグなのかもしれない。
「ん? ナオト、ストップ」
ミオが突然足を止め、ナオトの口を手で塞いだ。彼女の獣のような耳がピクリと動く。
「聞こえない?」
「……何がだ?」
「衣擦れの音。それも、すごく小さい」
ナオトが息を殺す。
松明の炎がパチパチとはぜる音以外、静寂が支配している。
だが、ミオの野生の勘はゴーグルのセンサーよりも鋭い時がある。
シュッ。
風切音。いや、何かが闇を裂いて飛来した音だ。
「危ないッ!」
ガキンッ!
ミオが瞬時に剛剣・ギガントを盾にした。
火花が散り、闇の中から飛んできた何かが弾かれる。
地面に転がったのは黒塗りの投げナイフだった。
「暗殺者か!」
ナオトが松明を前方に突き出す。
光の縁、闇との境界線に、ゆらりと人影が浮かび上がった。
全身を黒い布で覆い、顔にはのっぺりとした白い仮面。
手には異様に長い鉤爪を装着している。
「音無き処刑人。この迷宮の徘徊者だ!」
ヒュンッ!
処刑人が姿を消した。いや、高速で移動して、松明の光が届かない死角へと回り込んだのだ。
「消えた!? どこ!?」
「3時方向! ……いや、6時! 複数いるぞ!」
ナオトが叫ぶと同時に左右の闇から二つの影が飛び出した。
音もなく、殺気もなく。ただ鋭利な鉤爪だけが松明の光を反射して冷たく輝く。
「挟み撃ち!? 上等よ!」
ミオが剛剣を横薙ぎに振るう。
ブォンッ!
20キロの鉄塊が暴風を巻き起こす。
しかし、処刑人たちは人間離れした柔軟性でその一撃をリンボーダンスのように回避し、ミオの懐へと潜り込んだ。
(速い! それに、この暗闇じゃ、間合いが見切れない!)
敵は闇を味方につけている。
こちらの視界は半径3メートル。敵の視界は無限。圧倒的な情報格差。
「キシャッ!」
処刑人の爪がミオのビキニアーマーを掠める。金属音が響き、火花が散る。
「くっ! チョコマカと! 見えないのよ!」
「ミオ、周りを照らす!」
「えっ!?」
マグネシウムは使い切っていたが、ナオトにはまだ手があった。
「原始的な方法だが、これでもくらえ! オイル・スプラッシュ!」
ナオトは口に含んだ可燃性の油を松明の炎に向かって一気に吹き付けた。
ボォォォォォッ!
大道芸人の火吹き。扇状に広がった炎が、一瞬だけ通路全体を真昼のように照らし出した。
「見えたッ!」
浮かび上がったのは天井に張り付いていた三体目の処刑人と、左右に展開していた二体。
「そこねぇぇぇッ!」
ミオが動く。
視界さえ確保できれば、彼女の身体能力は敵を凌駕する。
剛剣・ギガントが唸りを上げ、天井の敵を叩き落とす。
グシャッ!
落下した敵が床にめり込む。
間髪入れず、ミオは体を回転させ、その遠心力を乗せた裏拳を右の敵に叩き込んだ。ガントレットの硬さと彼女の怪力が合わさり、仮面が砕け散る音が響く。
「あと一匹!」
残った左の敵がナオトに狙いを定めて突っ込んでくる。魔法使いを先に潰す定石だ。
「ナオト!」
「心配無用だ。俺はただ見ていたわけじゃない」
ナオトは冷静に足元に転がしておいたフラスコを蹴り飛ばした。
中身は以前に採取した粘着スライムを合成したものだ。
パリンッ!
処刑人がそれを踏みつける。
ベチャッという音と共に足が床に縫い付けられた。
「チェックメイトだ」
動けなくなった処刑人の頭上に巨大な影が落ちる。ミオが高々と掲げた、20キロの死刑執行剣。
「ぺしゃんこになりなさいッ!」
ズドンッ!!
轟音。
床の石畳ごと処刑人は粉砕された。
◇ ◇ ◇
静寂が戻った回廊でナオトは新しい松明に火を点けた。
先ほどの戦闘で一本消費してしまったため、残りの燃料が心許ない。
「ふぅ。なんとかなったわね」
ミオが剛剣を背中に戻し、乱れた髪を直す。
「ああ。だが、松明の予備はあと2本だ。急がないと、本当に真っ暗闇の中で遭難することになる」
「真っ暗闇……。それは勘弁して」
ミオがブルリと身震いする。
「この先に上り階段があるはずだ。そこを抜ければ最上階。目的の影の倉庫がある場所だ」
「よし! ラストスパートね!」
二人は足早に歩き出した。
壁画に描かれた女神の目が揺らめく炎の向こうから二人を見つめているような気がして、ナオトは一度だけ振り返った。
(知恵は罪、か。だが、俺たちはその知恵を使って生き延びる。女神様、文句は言わせないぜ)
闇はいよいよ深くなり、松明の灯りだけが二人の命綱となって揺れていた。
迫りくるタイムリミットと、さらなる試練の予感を背負いながら、彼らは迷宮の深奥へと進んでいく。




