第107話 終焉の牙と、ゲームオーバー
「……くっ、寒いし、泥は冷たいし、最悪よ! ちょっとナオト、どこ見てんのよ!」
「見ちゃいない! 俺だって素っ裸なんだぞ! ただ、アイテムの展開を必死に試みてるんだ!」
「出せるの!? 服! 武器! なんでもいいから早く出してよ! このままじゃ戦うどころか、羞恥心と寒さで死んじゃうわよ!」
「ダメだ! さっきの強引な格納処理でMPを使い果たした。魔力が一滴も残っていないこの状態じゃ、影の倉庫にアクセスすることすらできない!」
「そんな! じゃあ、本当に丸腰ってこと!?」
「ああ! 武器無しの全裸で、回復ポーションの一つすら引き出せない!」
「嘘でしょ。装備もアイテムも一切使えないなんて! こんな理不尽なペナルティ、聞いたことないわよ!」
「素晴らしい。実に素晴らしい光景だ」
二人の絶望的な叫びをヴァルドレッドが恍惚とした表情で眺めていた。
吸血鬼が、全裸で震える二人へ、足音もなくゆっくりと距離を詰めてくる。
「虚飾に満ちた服や、無骨な鉄の塊を捨て去り、真の肉体のみで私と向き合う。これこそが生命の本来の姿だ。泥にまみれ、恐怖に震えるその柔らかな肌。ああ……私の食欲をこれほどまでにそそる人間は数百年ぶりだ」
「変態吸血鬼! こっち来ないでよ! それ以上近づいたら、セクハラで訴えるわよ!」
「恥じらうことはない。君たちのその美しく鍛え上げられた肉体、そして絶望に震える魂……すべてが私の食欲を満たす極上のメインディッシュなのだから。さあ、まずはその瑞々しい少女の血から、味見をさせてもらおう」
「ナオト! 私がヘイトを稼ぐわ! その間に何か、石でも木の枝でも何でもいいから武器になりそうな物を探して!」
「おいミオ、やめろ! 素手で何ができるっていうんだ!」
「武器がないなら、この拳で殴るまでよ! オラァッ! 格闘戦よっ!!」
ミオが裸のまま泥を蹴り上げ、強靭な脚力でヴァルドレッドの懐へと飛び込んだ。
勢いを乗せた、渾身のストレートパンチを繰り出す。
「くっ! やっぱり、すり抜ける!」
「やめろミオ! ダイスロールでどれだけ高い数値を出しても無駄だ! 格闘ダメージはただの物理属性だぞ! 吸血鬼の耐性を貫通できるわけないだろ!」
「分かってるわよ! でも、何もしないで大人しく食べられるなんて御免だわ! おりゃおりゃおりゃぁぁっ!」
ミオの拳が、蹴りが、ヴァルドレッドの体を何度も貫く。
しかし、そのたびに魔将の肉体は赤い霧と蝙蝠に変換され、彼女の物理攻撃のダメージ判定を完全にゼロへと無効化していく。
「ふふっ。マッサージにもならないな。しかし、その必死な足掻きも、実に愛らしい」
「舐めるなァァッ!」
「そろそろ頂くとしよう。血の狂宴」
ヴァルドレッドの背中から無数の蝙蝠が飛び出し、一斉にミオへと襲い掛かった。
「服がないから、動きは最速よ! やられてたまるもんですか!」
ミオが泥の上を跳ね回るようにステップを踏み、致死の牙を次々と躱していく。
裸の状態が、皮肉にも彼女の敏捷ステータスを極限まで引き上げていた。
直感回避のスキルをフル稼働し、彼女は奇跡的な動きで、強襲する蝙蝠をすり抜ける。
「はぁっ、ふっ、そこっ! どうよ! かすり傷一つ、もらわないわよ!」
「本当に見事な身のこなしだ。私の攻撃をすべて見切るとは。だが……君の後ろの彼はどうかな?」
「えっ? 私じゃなくて、ナオトを狙ってる!?」
ヴァルドレッドの視線がミオを通り越し、その後方で無防備に立ち尽くすナオトへと向けられた。
「あの忌々しい光を放った錬金術師の首から、極上のワインを注がせてもらおう」
「しまっ……!」
ヴァルドレッドの姿が掻き消えた。
吸血鬼特有の空間を跳躍するような高速の踏み込み。
漆黒の爪が、一切の防御手段を持たないナオトの心臓へと一直線に突き出される。
(速い! 回避アクションをとる隙すらない! 今の俺じゃ、防御魔法一つ展開できない!)
ナオトが死を覚悟し、見開いた目でヴァルドレッドを睨みつけた、その瞬間。
「ナオトォォォッ!!」
彼の視界に泥だらけの白い背中が飛び込んできた。
ズドッ!
「がはっ、あ、ぐ……」
「ミ……オ?」
鈍い肉を裂く音。
ナオトの目の前で、ミオの華奢な体がビクンと大きく跳ねた。
ヴァルドレッドの漆黒の腕がミオの腹部から背中へと貫通していた。
「ミオォォォッ!!」
「へへっ。……前衛の、壁役なんだから……後衛を守るのは……当たり前、でしょ……」
「ミオ! 血が! お前、俺を庇って!」
「ごめんね、ナオト。パリィ、できなかった。……剣が、ないから……」
大量の鮮血が、ミオの腹部から泥の海へと滝のように流れ落ちる。
ミオの体から力が抜け、そのまま泥沼の中へと力なく崩れ落ちた。
「ミオ! おい、嘘だろ! ポーション! ポーションは……くそっ、影の倉庫が開かない! 何もない! 誰か、ヒールを使える奴はいないのか!」
「おお。なんという芳醇な血だ。恐怖、絶望、そして自己犠牲のスパイス。まさに極上。三ツ星の味わいだ」
ヴァルドレッドが、ミオを貫いた己の腕についた鮮血を、長い舌で恍惚と舐め取った。
「てめえ! よくも、よくもミオを!!」
「吠えるな、人間よ。彼女の命は極上のディナーとなって私の血肉に溶け込んだ。これほどの栄誉はない。さあ、次は君の番だ。彼女の温もりが冷めないうちに、君の血も混ぜ合わせるとしよう」
ナオトは泥だらけの拳を握りしめ、魔将を睨みつけた。
武器はない。魔法は使えない。唯一の味方は死んだ。
抗う術は何一つとして残されていない。
これが、絶対的なゲームオーバー。
「来いよ、吸血鬼。俺の血はお前の胃袋を裏返すくらい不味いぞ」
「素晴らしい。その怒りに満ちた瞳。絶望に屈しない精神力。ああ、食べるのがもったいないくらいだ」
ヴァルドレッドが優雅に腕を振り上げる。
「安らかに眠りたまえ」
ズシュゥゥゥッ!!
ナオトの胸の中央を冷たい漆黒の刃が貫いた。
心臓を破壊される、絶対的な死の感触。
焼けるような強烈な痛みと、それを上回る圧倒的な冷たさが全身を駆け巡る。
「がはっ!」
「素晴らしい。君の血は、実に深みのある味わいだ」
ナオトの視界が急速に黒く染まり、やがて完全な暗闇へと落ちていく。
泥の上に倒れ伏し、薄れゆく意識の中でも、ナオトの魂は決して折れてなどいなかった。
(……これで終わりじゃない。次は……次は絶対にお前を倒してみせる!)
感覚が遮断され、死の底へと沈み込んでいく中、ナオトは血を吐くような強い決意を魂に刻み込んだ。
(首を洗って待ってろ、ヴァルドレッド)
その誓いを最後に、ナオトの意識は途絶えた。




