第106話 影の逃避行と、極上の獲物
「よし、朝だ。隠蔽結界のおかげで、思いのほか快適だったな」
「ふあぁ……よく寝たわ。泥の上だったけど、結界の中は暖かかったし、昨日のお肉のバフのおかげで体がすごく軽い! HPもスタミナゲージも、マックスまで回復してるわ!」
「俺のMPも全回復だ。精神力 (SAN値)のペナルティも解除されてる。万全の態勢だな」
「ええ! さっさとこんな湿地帯は抜けて、街へ向かいましょう! 街に着いたら、ふかふかのベッドで寝るんだから!」
「ああ。ここから先は一切の戦闘を回避して、最短ルートでエリア外への離脱を目指す。強敵とのエンカウントを避けるため、隠密行動に全振りするぞ。準備はいいか、ミオ」
「もちろんよ。私の身軽さなら、足音一つ立てずに泥沼を駆け抜けられるわ」
「よし、隠蔽結界を解除する」
ナオトが指を鳴らすと、二人を外敵から守っていた見えないドーム状の魔力障壁が、パリンとガラスが割れるような音を立てて消失した。
途端に湿地帯特有の生ぬるい風が二人を包み込む。
しかし、その風の匂いを嗅いだ瞬間、ナオトとミオの表情が凍りついた。
「……嘘、でしょ」
「おい、冗談だろ。どうして、また……」
隠蔽結界が晴れた視界の先。
そこにあるのは白く薄暗い朝霧の景色ではなかった。
周囲一面を覆い尽くす、濃密で、むせ返るような鉄の匂いを放つ赤黒い霧。
「鮮血の領域! どうして展開されたままなんだ!? 俺たちはあいつの索敵範囲から完全に逃げ切って、戦闘状態を解除したはずだぞ!」
「ナオト、前! 前の木の上に!」
「おはよう、愛らしき私のメインディッシュたち。泥の上での寝心地はいかがだったかな?」
マングローブの太い枝の上。
漆黒の軍服に身を包み、優雅に足を組んで座るヴァルドレッドが、赤い瞳を三日月の形に歪めて二人を見下ろしていた。
「ヴァルドレッド! どうしてここが分かった? 俺の結界は匂いも魔力も遮断する絶対隠蔽のはずだぞ!」
「ああ、その通りだな。君たちの姿も気配も、あの眩い光から視力を回復させた後には完全にこの湿地帯から消失していた。見事な魔法だったよ」
「だったら、なんでピンポイントで待ち伏せできてるのよ!」
「簡単なことだ。君たちの気配が消えた泥沼の周囲を、残らず私の血の雨で満たしたのだよ。この湿地帯の中で、不自然に私の血を弾き返す空間が一つだけポツンと浮かび上がれば……誰だってそこに隠れていると気づくだろう?」
「結界の外側の環境変化で、俺たちの座標を特定したっていうのか。隠蔽結界そのものを逆手にとられた……」
「そういうことだ。だが、私はあえてその見えない殻を割るような無粋はしなかった。君たちが殻から出てくるまで、この枝の上で一晩中、静かに待ってあげていたのだからね」
「待っていた? どうしてよ! 私たちを殺す気なら、結界を破ればよかったじゃない!」
「言っただろう? 恐怖に歪む顔も、絶望に染まる瞳も、すべてが最高の調味料なのだと。私にあの忌々しい光を浴びせ、私の顔に泥を塗った見事な機転に対する褒美だよ。君たちに偽りの希望と安堵の夜を一日だけ与えてやったのだ」
「ふざけるな! 俺たちを絶望させるためだけに、わざわざ回復するまで待っていたっていうのか!」
「そうだとも。安堵から絶望へと突き落とされる瞬間の魂ほど、美しく芳醇な香りを放つものはない。さあ、十分に休んで、体力も気力も満ち溢れているのだろう? 今度こそ、最高の宴を始めようではないか」
ヴァルドレッドが枝からふわりと飛び降り、音もなく泥の上に着地する。
一切の重力を感じさせない、圧倒的な強者の挙動。
ミオとナオトは反射的に背中合わせになり、武器を構えた。
「ミオ、走れるか? 昨日と同じ手で煙幕を張る。もう一度、全力疾走だ!」
「無理よナオト。あいつの空間把握能力の前じゃ、煙幕なんて意味がないって昨日分かったじゃない。それに……囲まれてるわ!」
「ゲロォォォォッ!!」
「シャァァァァァッ!!」
周囲の赤い霧の中から、無数の猛毒蛙や毒トカゲ、そして泥人形たちが、ぬるりと姿を現した。
「眷属の群れか! ただの鬼ごっこじゃ飽き足らず、お仲間まで駆り出すとは」
「昨日は君たちに逃げる隙を与えてしまったからね。同じ轍は踏まないよ。さあ、私の可愛いペットたちよ。彼らの逃げ場を塞ぎなさい。ただし、殺すのは私だ」
二人を取り囲んでいた魔物の群れが、ジリジリと距離を詰めてくる。
「ナオト、どうする!? 群れの方も手強そうよ!?」
「くそっ、終わった。完全に詰みだ。レベル差と相性の悪さ、しかも退路の完全封鎖なんて、ひっくり返すための要素が全く見つからない」
「諦めないでよ! 私たち、最強のプレイヤーなんでしょ!? 最後まで足掻くわよ!」
「足掻く? そうだ、足掻いてやる! 物理的な退路がないなら、あいつの手が届かない場所へ逃げ込むしかない!」
「手が届かない場所って、どこよ!?」
「異空間だ。影の倉庫の中に、俺たち自身が飛び込んで身を隠す」
「えっ!? でも、前に性能テストした時、倉庫には生きている生物は絶対に入らないって言ってたじゃない?」
「火事場の馬鹿力ってやつで、強引にシステムの制限を突破してみようと思う。あの暗闇の異空間の中で何日も息を潜めてやり過ごせば、たぶん諦めて帰るはずだ」
「そんな無茶な! ……でも、ここで吸血鬼のディナーになるよりはマシよね! やってみて、ナオト!」
「ああ! ヴァルドレッド! お前に俺たちの血は一滴もくれてやらないぞ!」
ナオトは自らの足元に向かって、両手を激しく叩きつけた。
「影の倉庫、最大出力で展開! 対象、俺とミオの現在位置のすべて!!」
「ほう。自らを異空間に封じ込めようという魂胆かね? だが、間に合わないよ」
ヴァルドレッドの姿がブレた。
吸血鬼の高速の踏み込み。漆黒の爪が、ナオトの首を刈り取るために一瞬で間合いをゼロにする。
「散りなさい」
「間に合えぇぇっ! 頼む、俺たちを吸い込んでくれ!!」
ピィィィィィィンッ!
ナオトの悲痛な叫びと共に甲高いシステムエラーの警告音が鳴り響いた。
二人の足元に広がった漆黒の影が、巨大な口を開けて彼らの全身を飲み込もうとする。
【警告:指定座標に有機生命体を検知しました】
【警告:有機生命体の格納を許可していません】
【システム処理を実行:対象を無機物と有機生命体に分離して判定します】
「なっ!? なんだ、この光は!」
ヴァルドレッドの爪がナオトに届く直前、影の倉庫から弾け飛んだ強烈な魔力光が吸血鬼の目を眩ませ、その一撃の軌道を僅かに逸らした。
空間が激しく歪む。
ミオとナオトは漆黒の沼へと沈み込む直前、まるで透明なトランポリンに激突したかのように、凄まじい反発力で上空へと吐き出された。
「きゃあぁぁぁぁっ!?」
「うわぁぁぁぁっ!?」
二人の体は空中で放物線を描き、無様にも湿地帯の泥の上へと叩きつけられた。
「……ぐっ、がはっ!」
「い、痛たた。全身の骨が折れるかと思ったわ。やっぱり、入れないのね」
「くそっ、システムの制限は突破できなかったか! って、ミオ、お前……」
「え? 私? ……きゃあぁぁぁっ!?」
湿地帯の赤い霧の中で、ミオの悲鳴が響き渡った。
彼女は泥の上に座り込み、両腕で胸と下半身を隠しながら震えている。
「な、ななな、なんで私、素っ裸になってるのよぉっ! 服! 私のワンピースがない! 下着もない! それに剣もなくなってる!」
「俺も、だ。マスクも、服も、錬金術の道具も全部ない。素っ裸だ……」
「ちょっと、どういうことよナオト! 倉庫の中に逃げ込むんじゃなかったの!?」
「生命体以外が影の中に格納された。生身の俺たちは放り出されたってことだ」
「なんなのこれ、罰ゲーム!? ボスの目の前で二人揃って全裸になるなんて、恥ずかしさで死にそうよ! 最悪の状況じゃない!」
「なるほど。私への抵抗を諦め、武装をすべて解除し、身一つで私の食卓に並ぶ決意をしたというわけか。潔い態度だ。肉体が泥に汚れていく様も、実に美しい」
ヴァルドレッドが、一糸まとわぬ姿となった二人を見て、満足げに喉を鳴らした。
「武器も、防具も、魔法の触媒すらも失った。君たちは今、丸裸だ。これ以上の絶望的な盤面が存在するかな?」
「うるさい! 全裸だからって舐めるんじゃないわよ! 私にはまだ、この鍛え抜かれた筋肉が……」
ミオが全裸のまま立ち上がろうとするが、武器も服もないその姿はあまりにも無防備で、抗う術を持たない獲物でしかなかった。
ナオトもまた、魔法の触媒となる素材をすべて失い、一切の錬金術が使えないただの脆弱な肉塊と化していた。
(……終わった。俺の最後の希望だった異空間への逃亡は、俺たちから全ての装備を奪い去るという最悪の結果を引き起こした)
ナオトは泥にまみれた全裸の姿で静かに目を閉じた。
圧倒的な力を持つ魔将の前に、抵抗する術は尽き果てたのだ。




