第105話 野営フェイズと、敗戦の分析
「ナオト、本当にここまで逃げれば大丈夫なの?」
「ああ。俺の探知スキルを最大範囲まで広げているが、あの異常な魔力波形は完全に途絶えている。視線判定を切った上で、距離も十分に稼いだ。強制離脱は間違いなく成功してるはずだ」
「はぁぁぁっ……。よかったぁ。もう、本当に心臓が止まるかと思ったわ」
「だが、安全圏に出たわけじゃない。今日はもう日が暮れる。この暗闇と疲労度で、さらに湿地帯を歩くのは遭難のリスクが高すぎる。ここでキャンプを張るぞ」
「キャンプって、こんな泥だらけの場所で!? 私、服もボロボロだし、さっきの血の雨のせいで腕がヒリヒリして痛いのよ」
「今は背に腹は代えられないだろ。幸い、ここは巨大なマングローブの根が入り組んでいて、天然の防壁になっている。俺の残り少ないMPを全部使って、周囲に錬金術の隠蔽結界を張る。匂いも音も外には漏れない、完璧なキャンプ地にしてやるから安心しろ」
「分かったわ。ナオトがそう言うなら信じる。でも、まずはこのヒリヒリする腕をなんとかして! かすり傷だと思ったのに呪いのスリップダメージみたいにずっと痛みが引かないの」
「見せてみろ。……ひどいな、ただの火傷じゃない。吸血鬼の血液そのものが、強烈な酸と腐敗のバッドステータスを持っているんだ。すぐに上級の回復薬を使って、患部を洗浄する」
ナオトは影の倉庫から薬瓶を取り出し、ミオの白く滑らかな右腕に刻まれた赤黒い火傷の跡に惜しげもなく振りかけた。
「痛っ! しみる、しみるわよナオト!」
「我慢しろ。アンデッドの呪い系ダメージは自然回復じゃ治らないんだ。……よし、傷口の赤黒い変色が消えたな。これで呪いのデバフは解除されたはずだ。あとは包帯を巻いておく」
「ふぅ、痛みが嘘みたいに引いたわ。ありがとう、ナオト。でも、ポーションってHPは回復するけど、スタミナゲージまでは全回復してくれないのよね。お腹が空きすぎて、もう剣を振る力も残ってないわ」
「激しい回避行動の連続でスタミナが枯渇してるからな。それに、あの圧倒的な死の恐怖を受けたせいで、俺たちの精神力 (SAN値)もかなり削られている。しっかりと食事と睡眠をとらないと、明日の探索に強烈なペナルティがかかるぞ」
「食事! そうよ、私たち、トカゲとカエルのお肉をいっぱい手に入れたんじゃない! せっかくの食材、ここで使わなきゃ損よ!」
「お前は本当にブレないな。あんな化け物に殺されかけた直後だってのに、食欲は健在か」
「当たり前でしょ! 美味しいものを食べないと、恐怖なんて吹き飛ばせないわよ! それに、美味しい食事はスタミナの最大値にバフをかけてくれるんでしょ?」
「違いない。よし、俺も極上の肉を食って、この最悪の気分を上書きしてやりたいところだ。隠蔽結界の中で無煙の錬金コンロを展開する。今日のディナーは毒トカゲ尻尾肉の特大ステーキと、蛙肉の香草スープだ」
ナオトの手際の良い調理により、結界の中だけで香ばしい肉の焼ける匂いが充満していく。過酷な逃走劇の疲労と恐怖が、その温かな匂いによって少しずつ溶かされていくようだった。
「はい、お待ち。表面をカリッと焼き上げて、旨味の肉汁を閉じ込めてある。味付けは岩塩とスパイスだけだ。素材が極上だからな、余計なソースは要らない」
「いただきまーす! んんっ!? 美味しいぃぃぃっ! 弾力があるのに、噛むと口の中でホロホロに崩れていく! お肉の旨味がものすごく濃くて、さっきまでの泥の味が完全に吹き飛んだわ!」
「ああ、絶品だな。蛙のスープも、冷え切った体に染み渡る。高位のモンスターの肉だ、HPの回復はもちろん、明日の基礎ステータスに強力な食事バフが乗るはずだぞ」
「はぁぁ、生き返ったわ。お腹がいっぱいになったら、なんだか急に眠気が……」
「寝る前に今日の敗戦の分析だ。俺たちの何が駄目で、どうしてあんな一方的な処刑ゲームになったのか、頭の中を整理しておく必要がある」
「うん。剣がすり抜けた時のあのフワフワした感触、思い出すだけで鳥肌が立つわ。私たち、レベルアップして最強になったって勘違いしてたのよね」
「俺たちの物理攻撃と環境錬金術のビルドは確かに雑魚や通常ボスのギミックなら完封できるだけのポテンシャルがあった。だが、物理無効の絶対耐性を持つアンデッドの最高位とは相性が最悪だったんだ」
「でも、ナオトのあの特大の炎の魔法……あれって属性攻撃だったじゃない? ダメージになるはずなのに!」
「あいつの不死の再生能力の回復量が、俺の炎のDPSを完全に上回っていたんだよ。燃やした端から細胞が再生していたんだ。神聖魔法か、浄化の銀の武器……つまり、あいつの再生システムそのものを阻害する対策がなければ、どれだけレベルが高くても絶対に倒せない仕様なんだ」
「初見殺しの負けイベントだったってわけね。……ねえナオト、最後に放ったあのピカーッて光るやつ、あれは効いてたの?」
「疑似太陽光か。あれはHPを削るダメージ判定じゃなく、ただの強烈な視覚デバフだ。吸血鬼特有の夜目に、マグネシウムの光を直接叩き込んだ。結果的に盲目のステータス異常を与えることができたから、何とか逃げ切れたんだ」
「すごい機転だったわ! あの目くらましがなかったら、私、絶対にあの血の雨で串刺しにされてたもの」
「だが、あんな手品が通用するのは一度きりだ。次にエンカウントした時は確実に対策される。いいかミオ。明日の朝、結界を解いたら、この湿地帯の探索は打ち切る」
「打ち切るって……ボスを倒さずに逃げるの?」
「そうだ。今の俺たちじゃ、何度挑んでも結果は同じだ。まずはこの湿地帯を抜けて、人間の街へ移行する。あいつを倒すには特効武器と新しい防具が必要不可欠だ」
「特効武器……! それがあれば、私の物理攻撃でもあの吸血鬼にダメージが通るのよね!」
「ああ。それに、できれば神聖魔法を使える僧侶のパーティーメンバーか、大量の聖水も補充したい。俺たちのパーティー構成はアンデッドに対してあまりにも無力すぎる」
「分かったわ! 最高の対策を完成させて、絶対にあいつを真っ二つにしてやるんだから!」
「その意気だ。次は必ず対策を張ってクリアする」
ナオトは空になったスープの皿をしまい、ランタンの灯りを少し絞った。
「よし、ミーティングは終了だ。睡眠をとるぞ。万が一のエンカウントに備えて、三時間ごとの交代で周囲の警戒を行う。ミオ、お前は先に寝てスタミナを回復させろ。最初の見張りは俺がやる」
「ありがとう、ナオト。じゃあ、お言葉に甘えて先に休ませてもらうわね。ふぁぁ、おやすみ……」
ミオは泥だらけの毛布にくるまり、あっという間に静かな寝息を立て始めた。
極限の緊張状態から解放された肉体は深い眠りによって急速に回復処理を行っていく。
「よくあんな状況から生きて帰れたもんだ。ダイスの神様が最後の最後でクリティカルを出してくれたとしか思えないな」
ナオトは一人、ランタンの薄暗い灯りの中でつぶやいた。
隠蔽結界の外には依然として深い霧が漂い、死の気配が湿地帯を覆い尽くしている。
だが、今の彼らの心に絶望はない。
敗北を受け入れ、次の勝利に向けた完璧な対策を練る。それこそが、理不尽な世界を生き抜くための最も強力な武器であることを二人は深く理解していた。
明日の朝、湿地帯を抜けて街を目指す。
その希望と決意を胸に抱きながら、ナオトは静かに夜の警戒を続けるのだった。




