第104話 疑似太陽光と、長距離走
「全速逃走だ! ミオ、今すぐ武器を引け!」
「えっ!? でも、あいつに背中を向けたら……!」
「構うな! これはもう、戦闘じゃない、ただの処刑だ!」
「でも、どうやって逃げるのよ! この赤い霧の結界に閉じ込められてるのよ!?」
「強行突破する! 走れ! 絶対に立ち止まるな!」
「ふふっ。逃がすと思うかね? 自ら私の食卓へと歩み寄ってきた、極上のメインディッシュたち」
ヴァルドレッドが優雅に指先を鳴らす。
その瞬間、二人の頭上を覆っていた赤黒い霧がうねりを上げ、無数の鋭い針のような形状へと変化した。
「血の驟雨。降り注げ」
「上から来るわよ! 雨みたいに全方位から!」
「直感回避のスキルを限界まで引き上げろ! かすっただけでも致命傷になる!」
「言われなくても! はぁっ、ふっ、そこっ!」
ミオが泥の上を跳ね回るようにステップを踏み、頭上から降り注ぐ無数の血の針を躱していく。しかし、圧倒的な数の暴力が彼女の回避スペースを徐々に奪っていく。
「くっ! きゃあっ!?」
「被弾したのか!?」
「右腕を少しかすっただけ……痛っ! なにこれ、火傷みたいに肌が焼けてる! ただの血じゃないわ、まるで強酸よ!」
「呪いを伴うスリップダメージか。やっぱりこの赤い霧の領域が凶悪なハザードゾーンなんだ。ミオ、急いで回復ポーションを!」
「飲む暇なんてないわよ! 次から次へと飛んでくるんだから! それに……はぁっ、はぁっ……!」
「どうした? 動きが鈍ってるぞ」
「この布のワンピース、泥と水分を吸ってすっごく重くなってきたの。それに、こんな範囲攻撃を連続で避け続けてたら、私のスタミナゲージがマッハで削られていく。息が続かないわ」
「回避盾の最大の弱点……スタミナの枯渇か。どんなに無敵時間が長くても、回避行動そのものが取れなくなればただの的だ」
「どうやら果実が熟しきって、地面に落ちる寸前のようだな。さあ、大人しくその血を私に差し出しなさい」
ヴァルドレッドが泥の上を滑るように接近し、漆黒の爪をミオの細い首筋へと伸ばす。
「ミオから離れろ、吸血鬼! 錬金爆弾、三連射!」
「無駄だと言ったはずだが? そのような物理的な爆発など、私にはそよ風と同じだ」
ヴァルドレッドは爆風を意に介さず、霧に姿を変えることすらなく、ただ歩みを進める。爆炎は漆黒の軍服を通り抜け、彼に一切のダメージを与えない。
「ダメージを与えるためじゃない! ただの目くらましだ! ミオ、こっちへ跳べ!」
「くぅぅっ! ナオト、お願い、何か手はないの!? このままじゃ本当に捕まる!」
「神聖魔法も銀の武器もない現状でアンデッドを倒す裏技なんて存在しない! 完全耐性を持つボスとのエンカウントは絶対的な死を意味するんだ!」
「そんなの嫌よ! せっかくレベルアップして、これから美味しいお肉をいっぱい食べるはずだったのに!」
「だから、俺の錬金術で強引に逃げ道を作る。ヴァルドレッド、お前さっき、俺の炎の熱を浴びて太陽の光を思い出したって言ったな?」
「それがどうした? 太陽の光など、もはや遠い昔の記憶に過ぎないがね」
「だったら、その記憶を網膜の奥底まで叩き込んでやるよ。神聖属性が乗らなくても、圧倒的な光量による視覚デバフなら通るはずだ。吸血鬼のその過敏な夜の瞳にな」
「なに?」
「影の倉庫からマグネシウム粉末、アルミニウム粉末、そして強力な酸化剤を同時展開! 空中で混合し、俺の魔力で一気に着火する!」
「ナオト、それってまさか!」
「ミオ、絶対に目を開けるな! 鼓膜も塞げ! ……疑似太陽光!!」
カッ!!
湿地帯の薄暗い赤い霧の中で、文字通り小さな太陽が爆誕した。
マグネシウムの激しい燃焼反応が生み出す、直視すれば確実に網膜を焼き切るほどの純白の閃光。
「グアァァァァァッ!?」
圧倒的な光の暴力が吸血鬼を襲った。
魔将ヴァルドレッドが初めて、その優雅な顔を苦痛に歪める。両手で顔を覆って大きく後ずさった。
「目が! 私の瞳が! 貴様、ただの人間風情がこの私に光を!」
「よし、入った! 強烈な暗闇のステータス異常だ! HPは削れなくても、視覚センサーを焼き切ってやったぞ!」
「すごいわ、ナオト! あいつ、完全に目を回してる!」
「喜んでる場合じゃない、ただの時間稼ぎだ! 再生能力ですぐに視力も回復する! 今のうちに走るぞ!」
「でも、どっちに!? 周りはまだ赤い霧だらけよ!」
「こんな霧、錬金術でぶち抜いてやる! 足元の泥沼に極限まで魔力を注ぎ込み、水分を一瞬で限界沸点まで引き上げる! ……水蒸気爆発!!」
ドゴォォォォォォォォォンッ!!
ナオトとミオの背後で泥沼そのものが大噴火を起こした。
急激に膨張した水蒸気が凄まじい爆風を生み出し、二人を包囲していた分厚い血の霧を物理的な衝撃波で吹き飛ばした。
「キャアァァァッ!? すごい風圧だわ!」
「吹き飛ばされる勢いを利用して、一気にエリア外へ離脱するんだ! 走れミオ! 振り返るな!」
「わ、分かってるわよぉぉっ!」
二人は爆風に背中を押されるようにして、泥だらけになりながら湿地帯を無我夢中で駆け抜けた。
赤い霧が晴れ、元の薄暗い白い霧の景色が視界に飛び込んでくる。
「ハァッ……ハァッ……! ナオト、あいつ、追ってきてない!?」
「索敵スキルの反応はない。完全に視線判定を切った。でも、あいつの索敵範囲から逃げ切れるまでは止まるなよ」
「でも、もう足が……このワンピースの裾が泥に絡まって、全然前に進まないわ」
「だったら裾を引きちぎれ。どうせ防御力ゼロの紙装甲なんだ、身だしなみなんて気にしてる場合じゃない」
「ええい、もう! ビリッ! ……これでどうよ! 太もも丸出しになっちゃったけど、すごく走りやすくなったわ!」
「いいから走れ! 息が切れても肺が破けても、絶対に足を止めるな!」
二人は泥沼に足をとられながら、無様な姿で逃げ続けた。
先ほどまでの、自分たちは無敵だという万能感など、もう欠片も残っていなかった。
あるのはただ、捕まれば確実に死ぬという絶対的な恐怖だけだ。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
「……ミオ、ストップ。……止まろう」
どれくらい走り続けたのか。
周囲の景色が巨大なマングローブのような樹木の群生地に変わったところで、ナオトが崩れ落ちるように膝をついた。
「ナオト? 大丈夫? ……って、私も、もう一歩も動けない……」
ミオもまた、大剣を杖代わりにして泥の上にへたり込んだ。
二人とも全身泥まみれで、息は上がり、心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。
「……索敵スキルに魔将の波形はない。なんとか逃げ切ったぞ」
「……はぁ、はぁ。助かったのね、私たち」
「ああ。だが、完敗だ。手も足も出なかった。俺たちの最強の回避ビルドも、環境錬金術も、全く通じなかった」
「うん。剣がすり抜けた時のあの感触、思い出すだけで鳥肌が立つわ。ねえ、ナオト。私たち、強くなりすぎたんじゃなかったの?」
「錯覚だったんだよ。この湿地帯の異常な経験値効率と、たまたま俺たちのビルドが雑魚狩りに適していたから、勘違いしていただけだ。俺たちはレベルキャップになんて到達していなかった。ただ、ゲームマスターが用意した負けイベントに、無謀にも突っ込んでいった哀れなプレイヤーだったんだ」
「負けイベント……。じゃあ、最初から勝てるわけなかったってこと?」
「そうだ。神聖魔法の使い手も、銀の武器も用意せずに吸血鬼に挑むなんて、自殺行為以外の何物でもない。俺たちの慢心が、あわやパーティー全滅の危機を招いたんだ」
「ごめん、ナオト。私、自分が全部避けられるから無敵だって、調子に乗ってた。防具なんていらないって、バカなこと言って……」
「謝るな。俺も同じだ。自分の錬金術で何でもこなせると錯覚して、危険信号を無視した。あのワイバーンの死骸を見た時点で、引き返すべきだったんだ」
ナオトは泥だらけの両手を見つめ、ギリッと強く握りしめた。
「TRPGに絶対の安全なんてない。ダイスの目が一つ狂えば、たった一つのギミックを見落とせば、どれだけレベルが高くてもあっさりと死ぬ。俺たちは今日、身をもってその理不尽さを教えられたんだ」
「悔しいわね。ボロボロにされて、逃げるしかできなかったなんて」
「そうだな。最悪の気分だ。でも、生きてさえいればリベンジの機会はある。プレイヤーたるもの、一度やられたギミックには必ず対策を張って再挑戦するのが礼儀だ」
「対策って、どうするの? 魔法使いも僧侶もいないのに」
「銀だ。この世界のどこかにあるはずの銀の鉱石を探し出し、俺の錬金術で高純度の銀の武器を精製する。あいつの不死の再生能力を無効化できる、特効武器をな」
「特効武器! それがあれば、私の物理攻撃でもダメージが通るのね!」
「ああ。それに、ただの布の服じゃ心許ない。お前のために機動力を殺さずに物理防御力を担保できる新素材の防具も開発しないとな。あいつの血の雨を完全に弾けるようなやつだ」
「ナオト! うん、お願い! 私、次こそは絶対にあいつを真っ二つにしてやるんだから!」
ミオの瞳に再び闘志の火が宿る。絶望を味わい、己の弱さを知ったプレイヤーは強い。
「そのためにも、まずはこの湿地帯を抜けて人間の街を見つけるぞ。銀の情報を集め、態勢を立て直すんだ。歩けるか、ミオ」
「ええ、もちろんよ! こんな泥沼でへこたれてる場合じゃないわね!」
二人は互いに手を貸し合い、泥の中から立ち上がった。
傲慢な錯覚は消え去り、そこには過酷な世界を生き抜こうとする、純粋な冒険者の顔があった。
この湿地帯を抜け、新たな街を目指す。彼らの足取りは重かったが、その瞳は確かに前を向いていた。




