第100話 沼の生物と、失われた装甲
「霧がさっきより濃くなってない? 一寸先も見えないわよ。レベルアップで強化された知覚スキルでも、周りの様子が全然掴めないわよ。なんだか、白い壁の中を歩いてるみたい」
「……確かに。霧の密度が異常なレベルになってるな。俺の双眼鏡でも、数メートル先までしか見通せない。さっき取得した環境錬金適正で周囲の魔力濃度を安定させようと試みているが、どうにもこの霧は厄介だぞ。これじゃ不意打ちの回避判定に大きなマイナス補正がかかる」
「見通しが悪い上に息苦しいわね。それに、さっきから不気味なくらい静かじゃない? あんなに頻繁にエンカウントしていた泥人形と毒蛙も、全然姿を見せないわ」
「化け物のテリトリーに近づいてる証拠だな。他のモンスターたちは恐れをなして、このエリアから逃げ出してるんだろう。ランダムエンカウントの確率が極端に下がっているからな」
「なるほど。小魚がサメから逃げるようなものね。でも、静かなのはありがたいわ。泥に足を取られながら戦うのは、いくら筋力が上がったって疲れるもん。このままボス戦まで体力を温存できれば最高なんだけど」
「油断するなよ。歩き回る敵がいなくても、罠や環境ギミックがあるかもしれない」
「分かってるわよ。私の勘を甘く見ないでよね。……って、きゃあっ!?」
ミオが一歩を踏み出した瞬間、ズブッと嫌な音がして、右足が膝の上まで泥の中に深く沈み込んだ。
「どうした? 深めのぬかるみか?」
「泥の深さが急に変わったの! ただのぬかるみじゃないわ、なんだか足の下に動くものが……えっ!? な、なにこれ!?」
バシャァァァッ!
泥沼の底から、太い蔓のような緑色の触手が無数に飛び出してきた。
「うわあっ! 触手!? 気持ち悪い!」
「スワンプ・テンタクルか! 泥の中に擬態して身を隠す巨大な食虫植物のトラップだ! くそっ、動物系のモンスターに気をまわし過ぎて、植物を見落とした!」
「解説してる場合じゃないわよ! このっ! 離しなさいっ! ……くっ、すごい力! 足首に絡みついて、泥に引きずり込もうとしてるわ!」
ミオの足首からふくらはぎ、そして太ももへと、ぬめぬめした強靭な触手が螺旋を描くように絡みついていく。
「ミオ! 今助ける! 俺の錬金術で触手の水分を凍らせて切断する!」
ナオトが指先に魔力を集中させ、極低温の冷気を触手に向かって放つ。
パキィィン! という音と共に凍りついた数本の触手が砕け散った。
「ありがとう! ……って、ちょっと待って! 切った端からすぐに新しい触手が泥の中から生えてくるわよ! さっきより数が増えてるじゃない! キリがないわ!」
「クソッ、泥の中の豊富な栄養と水分を吸収して、異常な速度で自己再生してるのか? 植物系モンスター特有の厄介なギミックだ。根っこごと爆弾で焼き払いたいが、フレンドリーファイアの危険があって使えない」
「だったら、私が自力でなんとかするわ! レベルアップで上昇した筋力ステータスを見せつけてやる!」
ミオは手にした巨大な大剣を沼の淵の比較的硬い地面に深く突き立てた。それを強固なアンカーにして、泥の中に引きずり込もうとする触手との強烈な綱引きが始まる。
「……ぐぬぬぬぬッ! 絶対に引きずり込まれるもんですかぁッ!」
「すごい筋力だ。でも、触手の数が多すぎる。ミオ、腕や胴体にも巻きついてきてるぞ! このままだと完全に身動きが取れなくなる!」
ミオの凄まじい抵抗に焦ったのか、食虫植物はさらに太い触手を何本も伸ばし、ミオの革の鎧の隙間に入り込んで力強く締め付け始めた。
「きゃあっ! ちょっと、どこ触ってんのよ、この変態植物! いやらしい動きしないでよ! 気持ち悪い!」
「ミオ、無理するな! 装備ごとパージして抜け出すんだ!」
「冗談じゃないわよ! この革の鎧、特別に作ってもらったお気に入りなんだから! 高かったのよ! それに、これがないと私の防御力が……って、ああっ!?」
ビリィィィッ!
触手の強靭な引張力に耐えきれず、鎧のベルトや留め具が次々と引きちぎられていく。
「ウソ!? 私の鎧が!」
「服にも細かいトゲが食い込んでる。ミオ、強引に引きちぎれ! 惜しんでる場合じゃない、本体が引きずり込まれたらゲームオーバーだぞ!」
「ええい、もう! こうなったらヤケよ! ふんぬぅぅぅッ!!」
ミオが火事場の馬鹿力を発揮し、大剣を支点にして体を一気に引き上げた。
ブチブチブチッ!
無数の触手が千切れる音と同時に装備の革や布が激しく破ける音が湿地帯の濃霧の中に響き渡った。
ミオの体は泥沼の強力な引力から抜け出し、勢い余って地面に転がった。
「……はぁ、はぁ、はぁ。や、やったわ。なんとか脱出できた」
「無事か、ミオ! 怪我はないか!? って、その恰好は!?」
「え? きゃあぁぁぁぁぁっ!?」
ミオが自分の体を見下ろし、顔を真っ赤にして悲鳴を上げる。
触手から強引に逃れた代償はあまりにも大きかった。
鎧は沼に引き込まれ、その下に着ていたチュニックもボロボロになっていた。それどころか、下着すらも所々が引きちぎられ、豊満な胸の谷間や、白く滑らかな太ももの肌が惜しげもなく露わになってしまっている。
「ちょっと! こっち見ないでよナオト! エッチ! 変態!」
「み、見てない! 俺は何も見てないぞ!」
ナオトは慌てて後ろを向き、顔を赤くしながら手で両目を覆う。
「最悪よ! あのセクハラ触手! 私の装備を全部泥の中に持っいったわ! お気に入りの鎧だったのに!」
「命があっただけマシだと思うしかない。それにしても、とんだ初見殺しのトラップだったな。完全に不意を突かれた」
「そんなことより! 早く着替えを出して! このままじゃ恥ずかしいし、風邪ひいちゃう!」
「わ、分かった。今出すから、ちょっと待ってろ」
ナオトは後ろを向いたまま、影の倉庫の中を探る。
「ええと、着替え、着替え……。食料やポーションはいっぱいあるんだが……あった、これだ」
ナオトが後ろ手で渡したのは簡素な薄茶色の布の服だった。
「なにこれ。ただの村娘みたいなヒラヒラしたワンピースじゃない。私、前衛の戦士よ? もうちょっとマシな防具はないの?」
「仕方ないだろ。それは開拓村で買い出しした時に、何かの役に立つかと思って買っておいた予備の服だ。サイズの合う防具の予備までは入っていないんだよ」
「ウソでしょ!? じゃあ、わたしは布の服一枚で、この先のヤバいボスと戦うってこと!?」
「そういうことになるな。お前の物理防御力は革の鎧の補正が消えてほぼ初期値……ゲーム用語で言うところの、紙装甲だ」
ミオは渋々、泥だらけのボロボロになった服の残骸を脱ぎ捨て、渡されたワンピースに袖を通す。
「……着替えたわよ。もうこっち向いていいわ」
ナオトが恐る恐る振り返る。
「なんだ、結構似合ってるじゃないか。村で一番の看板娘って感じだぞ」
「うるさい! こんなヒラヒラした服で重たい大剣を振るなんて、すっごく動きにくいわよ! それに、防御力がほぼ初期値ってことはボスの攻撃を一発でも食らったら即死の致命傷になるかもしれないんでしょ?」
「ああ。壁役である前衛の戦士が防具をロストするなんて、本来なら即座に街へ帰還が必要なレベルの致命的なアクシデントだ」
「引き返した方がいいってこと?」
ナオトは少し考え込む。
「いや。お前は直感回避のパッシブスキルを取ったばかりだ。それに、ジーク直伝の受け流し、パリィの技術もある。強化されたお前の回避能力と俺のサポートがあれば、当たらなければどうということはない、という戦法も不可能じゃない」
「そうね! 泥人形や巨大ワニの攻撃も、ほとんど回避ステップかパリィでやり過ごせたもの。防具なんてただ重いだけよ。攻撃が当たらないなら、防御力なんてゼロでも関係ないわ!」
「防御を捨てて回避に全振りした、極端な回避特化ビルドへのシフトだな。だが、相手は飛竜の血を一滴残らず吸い尽くすような未知のバケモノだ。絶対に油断するなよ」
「分かってるわよ。でも、この服、泥が跳ねたらすぐに汚れちゃいそうね。洗濯が面倒だわ」
「そんなこと気にしてる場合か。行くぞ、ミオ。俺の勘だが、ボスの気配が確実に近づいている気がする」
ミオはヒラヒラとした薄手のワンピースの裾を少し持ち上げながら、大剣を肩に担ぎ直した。
分厚い革の鎧を失い、前衛としてはあまりにも心許ない姿となってしまったミオと、それを後方から支援するナオト。
いびつな編成となった二人だが、レベルアップで得た万能感を胸に、濃霧が立ち込める湿地帯の最深部へと再び歩き始めた。




