37.地獄の特訓
地獄の特訓・初日:理性的な反発
冷たい石造りの訓練場に、可奈の荒い息遣いと、黒騎士シグリッドの剣が空気を切る音だけが響いていた。
転移してから三日。王城の一室で手厚い保護を受けていた可奈だが、暗殺者の影が迫っているという理由で、シグリッドによる「特訓」が始まっていた。その内容は、大学生の可奈にとって、常識を遥かに逸脱したものだった。
「貴様、その体勢ではすでに死んでいるぞ」
シグリッドの声は低く、感情がない。可奈が身につけた薄い皮製の防具には、シグリッドの木剣が寸止めで叩き込まれていた。彼の動きは驚くほど速く、可奈が現代で見てきたどのスポーツ選手よりも洗練されていた。しかし、可奈の不満は、技術的なことではなかった。
「もうやめてください、シグリッドさん! 私はただの大学生です! なんで人を殺すための剣術なんて覚えなきゃいけないんですか!」
可奈は木剣を放り投げ、床に座り込んだ。汗で張り付いた髪が額に貼りつく。
「日本じゃ、人を傷つけるのは犯罪なんです。私はただの平和な国から来たんです。あなた方が私を守ってくれるんでしょう?」
シグリッドは微動だにしない。全身を覆う黒い軽量鎧と、一切の感情を読ませない端正な顔立ちが、可奈の訴えを完全に拒絶しているように見えた。
「貴様を守っている。だからこそ、これをやらせている」シグリッドは簡潔に言い放った。「貴様が今立っているのは、貴様の常識が通用する『日本』ではない。そして、貴様の能力は、敵を無力化すると同時に、貴様自身を守る全ての魔術をも無力化する。つまり貴様は、この世界で最も護りにくい存在だ」
可奈は唇を噛んだ。「それは……わかっています」
「わかっていない。貴様はまだ、明日も誰にも襲われず、平和に朝食が食べられると思っている」シグリッドは可奈が放り投げた木剣を拾い上げ、可奈の足元に投げ捨てた。
「敵は情けをかけない。貴様が『犯罪だから』と躊躇する一瞬で、その心臓を抉り出す。私が教えているのは、自己防衛ではない。いかに躊躇なく、相手の命を奪うことによって、貴様の命を救うか、だ。貴様の常識は、ここではただの毒にしかならない」
「そんなの…理不尽よ!」可奈は叫んだ。20年間、平和な世界で培ってきた価値観を、彼はたった数日で否定し、地獄のような訓練を強いている。これは、転移という運命よりも、シグリッドの非情な態度が可奈にとって最大の苦痛だった。
シグリッドは何も言わず、黒い手袋を嵌めた手をゆっくりと可奈に向けた。
「反発は無駄だ。訓練に戻れ。貴様がこの理不尽を受け入れるまで、私は貴様を追い詰める。それが王命だ」
可奈は床に転がる木剣を見た。その重さは、物理的な重さ以上に、命を奪うという重い現実を突きつけているようだった。
(私は、こんなことをするために異世界に来たわけじゃない……!)
可奈の胸の中で、恐怖、怒り、そして現代人としての倫理観が激しく衝突し、シグリッドへの強烈な反発となって膨れ上がっていた。
地獄の特訓・初日:涙と視線
可奈は訓練場を飛び出し、城の裏手の、ほとんど人が通らない古い庭園の隅に身を隠した。
冷たい石の壁にもたれかかり、呼吸を整えようとするが、胸の奥から込み上げてくる感情は抑えきれない。シグリッドから突きつけられた言葉が脳裏にこだました。
「貴様の常識は、ここではただの毒にしかならない」
「毒……っ」
可奈は震える手で顔を覆った。怒りではない。それは、日本での平和な20年間と、この世界で強要される殺意とが激しく衝突する、どうしようもない理不尽さへの絶望だった。
「なんで私が……なんでこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
可奈は声を殺し、膝を抱えて泣いた。それは、訓練の厳しさや体力の限界から来る涙ではない。現代日本の大学で、サークル活動や将来の夢に胸を膨らませていた自分が、突然この地獄のような現実に引きずり込まれたことへの、純粋な叫びだった。
(私は殺人者になりたくない。誰にも傷つけられたくない。普通の生活に戻りたいだけなのに……!)
しゃくり上げる声が、高い庭園の壁に吸い込まれていく。誰も見ていない。そう信じて、可奈は堰を切ったように泣き続けた。
その庭園を見下ろす古い物見櫓の影。
黒い鎧のシグリッドは、そこに静かに立っていた。
彼は、可奈の能力のせいで、護衛対象である可奈から数メートル以上離れることができない。彼女が訓練場を飛び出したときから、決して魔術無効化の範囲外に出ることなく、彼は彼女を追尾していた。
可奈が石壁にもたれ、肩を震わせ、声を殺して泣く姿。その細い背中と、現代の衣服の残滓を纏った彼女の姿は、この騎士の世において、あまりにも無力で異質だった。
シグリッドは、その表情を一切崩さず、空のような明るい青い瞳で、その光景をただじっと見つめていた。彼の瞳は、暗い物陰の中でも冷たい光を放ち、感情の読めない硬質な美しさがあった。騎士としての理性は、可奈の涙は単なる精神的な弱さであり、克服すべき対象だと命じていた。ここで情けをかけることは、彼女の命を危険に晒すことに繋がる。
しかし、彼の胸の奥、氷のように鍛え上げられた心の奥底で、見知らぬ感情が、静かに、そして鋭く突き刺さるような痛みを発していた。
(この者には、泣く権利がある。だが……それを許すことは、私がこの者の剣を折ることと同義だ)
シグリッドは拳を固く握りしめた。彼は可奈に声をかけず、慰めの言葉も与えなかった。ただ、彼女の絶望的な感情が枯れるまで、物陰から明るい青い瞳で、その姿を見守り続けることしかできなかった。
やがて可奈が立ち上がり、涙を拭って訓練場へ戻るために歩き出したとき、シグリッドは音もなくその場を離れた。彼女に気づかれることはなかった。




