↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
33/35

32.嵐の前の静けさ

場所:オルバイン街から外海へ続く運河、小型漁船の船上

時間:潜入三日目、午前中

小型漁船は、オルバイン街を流れる運河の出口を抜け、外海へと舵を切っていた。朝霧が完全に晴れ、陽光が水面を照らし始めている。しかし、可奈とシグリッドの周囲には、逃走の緊張感と、悪臭を放つ運河の水が残した不快感が、まだ色濃く漂っていた。

可奈は、波止場で着た泥と、下水道の汚水で濡れた服のまま、船尾に座り込み、寒さに震えていた。シグリッドは、その様子を見て、ボートの隅に置いてあった古い漁師用の防水布を彼女に投げ渡した。

「これを被っておけ。体温を下げすぎるな」

「ありがとう、お兄様…」可奈は、震える手で防水布を体に巻き付けた。

シグリッドは、外海へと出たことを確認すると、船の速度を落とした。後方には、リセフィア帝国の監視船の影はまだない。

「ひとまず、追手は撒いた。しかし、公爵家はすぐに次の追手を差し向けてくるだろう。我々はまず、この**『最終報告』**の中身を確認する必要がある」

1.封筒の解析と陰謀の全貌

シグリッドは、慎重に懐から金属製の封筒を取り出した。それは、公爵家の紋章が刻まれた、重厚なものだった。彼は剣の先端を使い、厳重に封印された蝋を切り開いた。

中には、数十枚の羊皮紙と、数枚の金属製の記憶媒体が収められていた。

「これが…王太子殺害の証拠を消し去った、公爵家の最終兵器か」

シグリッドは、羊皮紙の一枚を広げた。それは、王室派の大商人たちが保有していた主要な鉱山や商権の「売買契約書」だった。しかし、そのすべてに、驚くほど低価格で公爵家への**『譲渡』**が記されており、署名や公証人の印も偽造の跡もなく、完璧に整っていた。

「見ろ、可奈。これが魔術師の仕事だ。彼らは、過去の契約そのものを、幻惑と改竄の魔術で書き換えた。これは、この街の法においては、**完璧な『合法取引』**として成立している」

可奈は絶望に顔を曇らせた。「じゃあ、私たちがこれを持ち帰っても、ただの契約書じゃない…」

「いや、違う」シグリッドは首を振った。

彼は、羊皮紙の下にあった一枚の**『誓約書』を見つけた。それは、王室派の商人たちが、公爵家に対して『王太子殺害の陰謀』に協力したことを誓うという、裏の文書だった。しかし、その文書の裏には、不可視のインクで書かれた、魔術師自身の『作業記録』**が残されていた。

作業記録(不可視インク):


「王室派商人Aの記憶を操作し、『譲渡』の事実を強固に定着。対価として、彼らの*『王太子殿下への忠誠を示す手紙』を破棄。これで彼らは公爵家を裏切ることはできない」

「王室派の財務記録の原本は焼却済み。記憶媒体に保存された改竄データが最終版となる」

「これで、ローゼンガルテ王国の騎士団副団長(シグリッド・ロンバルノ・ブローマン)と、王太子殺害容疑者(可奈)が、公爵家の不正を訴えても、彼らは『裏切り者』*として断罪される」


可奈は、その文字を震える瞳で追った。

「これよ…これがお兄様の剣で切り裂くことのできない、公爵家の陰謀の核心!私を犯人として仕立て上げたのは、私を囮にして、王室派の商人たちを脅し、経済的に王室を孤立させるためだったのね…」

シグリッドは、作業記録の最後に目を留めた。そこには、魔術師の個人名らしき文字が記されていた。

「リパティン・エルゲラ。完了次第、王国潜入部隊と合流する」

「リパティン・エルゲラ…これが、あの魔術師の名前だ」シグリッドは、その名を脳裏に焼き付けた。「そして、奴はすでに、我々の王国に**『潜入部隊』**を送り込んでいる…」

2.可奈の負傷と兄妹の信頼

証拠の分析を終えた後、可奈は逃走中に負った足の痛みを訴えた。下水道での急な動きと、波止場での急旋回が、彼女の足首に大きな負担をかけていた。

シグリッドは、硬い表情のまま、可奈の濡れた靴下を脱がせ、足首を丁寧に診た。足首は腫れ上がっている。

「捻挫だ。重傷ではないが、このまま歩かせれば、さらに悪化する。動かずにいられるか?」

「ごめんなさい、お兄様。無理させちゃって…」可奈は、この冷酷な兄の前で初めて、弱々しい声を出した。

シグリッドは、防水布を可奈の足元に敷き、簡易的な包帯で足首を固定した。その手つきは、荒々しい戦士のものではなく、負傷兵を扱う騎士団の衛生兵のようだった。

「謝るな。君の陽動がなければ、私は封筒を奪い返すことはできなかった。君の機転が、我々二人の命と、この証拠を救った」

その言葉は、シグリッドの口から出たにしては、信じられないほど温かい肯定だった。

可奈は、シグリッドの快晴の空の様な青い瞳を見つめた。それは、感情を表に出さない冷徹な瞳だが、そこには可奈に対する純粋な感謝と、任務の同志としての信頼が宿っているように見えた。

「お兄様…」

「私に感謝する暇があるなら、この封筒の情報をすべて頭に入れろ。もし私に何かあった場合、君がこれを王国へ持ち帰らなければならない」

「嫌よ!私は、あなたと一緒に行くわ!」可奈は、涙をこらえながら言った。彼女にとって、シグリッドは今や、唯一無二の、頼れる存在になっていた。

3.新たな脅威:リパティン・エルゲラの追跡

その時、外海から接近する、一隻の高速艇のエンジン音が聞こえた。普通の漁船の音ではない。

シグリッドは船首に立ち、双眼鏡でその船を捉えた。その高速艇の船体には、公爵家の紋章はない。しかし、船上には、黒いローブを纏った人影が一人、彼らのボートに向かって一直線に迫っている。

「魔術師…リパティン・エルゲラだ!」

魔術師は、公証人組合の警報が鳴った時点で、すでにオルバイン街から脱出しており、高速艇を準備していたのだ。彼は、シグリッドたちが運河を通って逃げ出すことを予測していた。

リパティン・エルゲラ:「見つけたぞ、ローゼンガルテの騎士よ。貴様ら二人を始末し、証拠を回収する。それが、公爵様から与えられた私の最終任務だ」

魔術師は、高速艇の船首に立ち、両手を掲げた。空気が圧縮され、魔力が集束する。

「まずい…奴は、広域を攻撃できる大魔術を使うつもりだ!」シグリッドは叫んだ。「可奈!ボートの底へ伏せろ!」

シグリッドは、急いで船の操縦桿を握り、ボートを激しく旋回させた。このままでは、大魔術の直撃を受け、証拠もろとも木端微塵になる。

彼は、ボートを海岸線ではなく、外海へ続く巨大な岩礁地帯へと向かわせた。岩礁に突っ込めばボートは破壊されるが、魔術師の広域攻撃から逃れるには、複雑な地形が唯一の頼りだった。

リパティン・エルゲラ:「逃げられると思うな!『闇の震動(シャドウ・バイブレーション)』!」

魔術師が放った漆黒の魔力が、水面を叩きつける。轟音と水柱が上がり、シグリッドたちの小型ボートは、その余波で激しく揺さぶられた。

「くそっ!」シグリッドは歯を食いしばる。このままでは、岩礁に逃げ込む前に追いつかれる。

可奈:「お兄様!後ろの魚網!あれを使って!」

可奈が指差したのは、船の隅に固く縛られていた、鉛の重りがついた巨大な漁網だった。

シグリッドは、その漁網を掴み、ロープを解くと、振り返った。

「可奈!舵は任せる!あの岩礁地帯まで、まっすぐ進め!」

シグリッドは、魔術師の高速艇に向かって、全力を込めて漁網を投げつけた。巨大な網は、鉛の重りとともに、魔術師の高速艇のエンジン部分を覆い尽くそうと、宙を舞った。

「何をする!」魔術師は、防御に転じる。

シグリッドは、この一瞬の抵抗で稼いだ時間を利用し、ボートを岩礁地帯の、最も複雑で狭い水路へと突っ込ませた。

彼らの背後で、魔術師の高速艇が、漁網に絡まり、速度を落とすのが見えた。シグリッドと可奈は、命を賭けた逃走の末、ついにリパティン・エルゲラという名の脅威を振り切った。

しかし、シグリッドの瞳は曇っていた。この逃走劇は、すべてリパティン・エルゲラの**「予想の範囲内」**だったという魔術師の言葉が、脳裏に響き渡っていたからだ。彼らの戦いは、まだ始まったばかりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。