31.獣人の街を駆ける
場所:リセフィア帝国・オルバイン街、公証人組合周辺の路地
時間:潜入三日目、午前九時半過ぎ
シグリッドは、最上階の窓から飛び降りる瞬間、懐に押し込んだ金属製の封筒を両手で強く抱きしめた。彼は体術を駆使し、建物の巨大な突き出し窓や、外壁の装飾を蹴りながら落下速度を殺す。アスファルトに叩きつけられる寸前、彼は地面を転がり、着地の衝撃を逃した。
1.兄妹の合流と追手
「お兄様!」
すぐさま、可奈が駆け寄ってきた。彼女の拘束は演技か、あるいは簡易的なものだったのだろう。その顔には泥がつき、髪は乱れていたが、その瞳にはシグリッドの無事を確認した安堵と、緊張が混ざり合っていた。
「封筒は?」可奈は息を切らして尋ねる。
シグリッドは返答の代わりに、懐を叩いた。
「行け!奴らが来る!」
公証人組合の窓からは、黒鎧のリーダーが顔を出し、怒声と共に飛び降りてきた。リーダーはシグリッドほどの体術は持たなかったが、硬質な鎧が衝撃を吸収し、すぐに体勢を立て直す。彼の目は、獲物を逃がした怒りで燃えていた。
黒鎧のリーダー:「生かして帰すな!ローゼンガルテの騎士どもめ!あの封筒を奪い返せ!」
公証人組合の裏口から、残りの私兵と、市場から戻った警備隊が次々と現れ、二人の逃走ルートを塞ぎにかかる。
2.下水道への誘導
シグリッドは、可奈の手を掴むと、猛然と走り出した。彼が向かったのは、市場や公証人組合からは最も遠い、薄暗い貧民街の方向だった。
「宿屋には戻らない!奴らは我々が宿に戻ると予想する!」シグリッドは叫んだ。
可奈は、捻挫の痛みを堪え、シグリッドの冷たい手に引っ張られるままに走った。彼女の頭脳はフル回転していた。
「この先は行き止まりよ!逃げ場がないわ!」
「ある!この街の**『目に見えない道』**を使う!」
シグリッドは、ある民家の裏手、獣人向けの巨大なゴミ集積場へと飛び込んだ。そこは悪臭が充満し、獣人たちも近づきたがらない場所だ。シグリッドは、ゴミの山の中にある、小さな鉄製のハッチを見つけた。
「オルバインの下水道だ。ここから運河区へ抜ける」
3.水路での戦闘
可奈は躊躇することなく、シグリッドの後に続いて、汚水が流れる暗い下水道へと降りて行った。鉄のハッチを内側から閉めると、地上からの光が完全に遮断された。
「クソッ、下水道か!追え!奴らは必ず運河へ抜けるぞ!」黒鎧のリーダーの声が、地上のハッチ越しに響く。
下水道は、獣人向けに広大に作られていたが、水かさは可奈の膝下まであり、悪臭と、滑る足場が二人の逃走を困難にした。
シグリッドは、懐の封筒を濡らさないよう、可奈に背負わせていた小型のリュックに入れさせた。
「可奈、前を歩け!魔力探知は苦手だ。君の体術で、足場の微妙な変化を探れ!」
可奈は、暗闇の中でも鋭い視力を持つシグリッドが自分に頼ったことに驚きながらも、すぐに体術の勘を研ぎ澄ませ、水路の先導役を買って出た。
しかし、下水道は二人の逃走路であると同時に、追手も使うことが可能な道だった。
追手(私兵):「見つけたぞ!ローゼンガルテのネズミども!」
水路のカーブの向こうから、松明を持った公爵家の私兵が二人、猛然と迫ってきた。下水道という閉鎖空間での戦闘は、シグリッドの得意とする剣術を制限する。
シグリッドは、可奈を背後に庇い、すぐに剣を抜き放った。
「可奈!動くな!」
チャンッ!という金属音が、狭い水路に反響する。シグリッドは、一撃で私兵の剣を弾き飛ばし、次の瞬間には、彼らの首筋に刃を当てていた。
「この先を追えば、公爵家の秘密を暴くと公言する。その責任が取れるか?」
シグリッドの剣術は、まさに騎士団副団長に相応しい、圧倒的かつ精密なものだった。私兵は恐怖に目を見開いた。
「行け」シグリッドは剣を引いた。彼らを殺すことは、さらなる追跡を呼ぶだけだと知っていたからだ。
4.運河区への脱出
私兵を怯えさせ、時間稼ぎをした二人は、下水道の最終地点、運河区の排水口へと辿り着いた。鉄の格子を内側からこじ開け、夜明け前の冷たい運河の岸壁へと這い上がる。
二人が岸壁に辿り着いた瞬間、背後で、黒鎧のリーダーの怒りの声が聞こえた。
黒鎧のリーダー:「逃がすか!排水口を爆破しろ!」
シグリッドは、可奈を引っ張り、運河沿いを走った。彼らが逃げ込んだのは、夜明けとともに船の出入りが始まる、巨大な物流拠点だった。
「運河区の波止場だ。船に紛れる。可奈、私から離れるな!」
シグリッドは、懐の封筒を抱きしめながら、夜明けのオルバイン街の波止場へ、息を切らして駆け出した。彼らは、最も重要な証拠を手に入れたが、その代償として、オルバイン街の全公爵家勢力を敵に回してしまった。




