30.妙な魔術師
場所:リセフィア帝国・オルバイン街、『公証人組合』、最上階
時間:潜入三日目、午前九時半
市場から響く大衆の怒号と、警備隊のサイレンが、公証人組合の壁を揺らしていた。可奈の陽動は完璧に機能し、組合を警護していた私兵のほとんどが、暴動鎮圧のため市場へと向かった。
シグリッドは、この一瞬の隙を見逃さなかった。彼は、朝の偵察で見つけた、建物の側面に設置された古い避雷針を足場とし、獣人警備員が巡回する頻度が最も低い、建物の死角から垂直に最上階を目指した。
(可奈…必ず戻る。君の覚悟を無駄にはしない)
1.無音の侵入
シグリッドが辿り着いたのは、昨夜、魔術の光が漏れていた窓だった。窓は厳重に施錠されていたが、彼は騎士団が使用する特殊な極薄の鉄線を取り出し、無音で錠を解除した。
窓枠を乗り越え、彼は最上階の部屋に侵入した。部屋は昨夜見た通り、書類と魔術道具で埋め尽くされていた。
部屋の中央には、黒いローブを纏った**『妙な魔術師』**が、まだ作業を続けている。周囲の喧騒など、まるで彼の世界には存在しないかのように、黙々と書類に魔力を注ぎ込んでいた。
シグリッドは、剣の柄に手をかけたまま、無音で魔術師の背後へと忍び寄る。騎士団副団長の彼にとって、暗殺術もまた必須技能の一つだった。
2.『妙な魔術師』との対峙
シグリッドが剣を抜き、一瞬で魔術師の首筋に刃を突きつけようとした、その刹那。
魔術師は、まるで背中に目があるかのように、シグリッドの動きに合わせて、右手を机の下の魔道具へと滑らせた。
魔術師:「…遅いぞ、騎士」
低く、抑揚のない声。シグリッドは、この魔術師がただの作業員ではないことを理解した。彼の殺気は、完全に読まれていた。
魔術師が起動させたのは、**「警告と自己防衛」**の魔法陣だった。部屋全体に赤い魔力の光が瞬き、警報の役割を果たす特殊な音波が、外部に漏れた。
シグリッド:「貴様、何者だ!」
「私は公爵家の命により、**『古い証拠』を『新しい真実』**に書き換えている者だ。そして、貴殿がローゼンガルテの騎士であることも、知っている」
魔術師はゆっくりと振り返った。彼の顔は影に隠れて見えないが、その目は冷静な判断力に満ちていた。
「残念ながら、貴殿たちの動きは、我々の予想の範囲内だ。陽動には感服したが、すでに作業は終盤。証拠はすべてデジタル化され、あとは**『最終報告』**を行うだけだ」
3.決定的な証拠の発見
シグリッドは剣を突きつけたままだが、魔術師が逃げる素振りを見せないことに焦りを感じた。彼は魔術師を拘束しても、すべての証拠を押収できなければ意味がない。
シグリッドは、魔術師の背後の壁に視線を走らせた。そこには、魔術師が作業を終えた書類が、一纏めにされ、公爵家の紋章が刻印された金属製の封筒に収められていた。
「それが、王太子殺害の証拠を消し去った、改竄された最終報告か」
魔術師は冷笑した。
「ああ。それを押収しても無意味だ。この書類は、この街の法の下で、完全に合法的なものとして認められている。貴殿の王国の法では、この書類を覆すことはできない」
シグリッドは一瞬の迷いも捨て、魔術師から一歩下がると、テーブルの上のインク壺を魔術師の顔めがけて蹴り飛ばした。
「問答無用!」
インク壺が割れると同時に、シグリッドは部屋の最も奥、金属製の封筒が置かれている場所へ突進した。魔術師はすぐに防御魔法を展開しようとするが、インクが彼の視界と魔力の流れを乱した。
シグリッドは、金属製の封筒を掴み取り、それを自分の懐にねじ込んだ。
4.実行部隊の合流と危機
しかし、魔術師が発動させた警報は、すでに効力を発揮していた。
シグリッドが封筒を押収した直後、建物の廊下から、怒号と重い足音が響いた。
追手(黒鎧のリーダー):「魔術師殿、無事か!ローゼンガルテの騎士が侵入したとの警報が!」
扉が蹴破られ、黒鎧のリーダーが突入してきた。彼の後ろには、市場から呼び戻された私兵が数人控えている。
黒鎧のリーダーは、シグリッドの顔を認めると、冷徹な殺意を込めて叫んだ。
「貴様か!昼間の行商人!貴様は、我々公爵家の秘密に触れた。生きて帰ることは許されない!」
シグリッドは、金属製の封筒を握りしめ、窓の外を見た。この部屋の高さでは、飛び降りれば確実に重傷を負う。だが、もはや、逃走ルートはそこしかなかった。
「お兄様を助けに来たわ!」
その時、建物の外から、可奈の甲高い声が響いた。可奈は、拘束されたはずの状況からどうにか逃れてきたのか、石畳の上で、昨夜シグリッドが設置した防犯用の魔道具を振り回していた。その魔道具が、公証人組合の壁に当たって、不協和音の警報を鳴らし続けた。
可奈の陽動は、まだ終わっていなかった。
シグリッドは、可奈の機転を理解した。魔術師と黒鎧のリーダーは、可奈という予期せぬ要素、そして**「陽動の場所」**が再び公証人組合に戻ってきたことに一瞬の混乱を見せた。
「可奈…よくやった!」
シグリッドは、その一瞬の隙に、窓ガラスを剣の柄で打ち破った。
彼は、懐の封筒をきつく抱きしめ、炎上する市場の騒音と、怒号を上げる黒鎧のリーダーの声を背に、最上階の窓から、闇の中へと飛び降りた。




