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29.市場での炎上と獣人の怒り

場所:リセフィア帝国・オルバイン街、市場の中心、公爵家関連の掲示板前

時間:潜入三日目、午前九時

シグリッドが公証人組合への侵入準備を終えた頃、可奈は宿を出て、市場の中心へと向かっていた。彼女は、昨日までの旅の疲れを見せる「行商人の妹」の服ではなく、あえて少し目立つ、襤褸ながらも鮮やかな色の布を頭に巻いていた。

(やるしかない。お兄様の時間を稼ぐ。あたしの無実を晴らす、最初で最後のチャンスだ)

1.陽動の実行

可奈は、獣人労働者たちが行き交う、市場で最も人通りの多い場所に建つ、公爵家の権威を示す掲示板の前に立った。掲示板には、公爵家が主導する最新の賃金改定と労働時間の通達が貼られていた。その内容は、獣人たちの不満を煽るには十分すぎるほど、彼らに不利なものだった。

可奈は、周囲の視線が自分に集まるのを待った。獣人たちは、人間の女が何をするのかと、好奇心と侮蔑の混じった視線を送る。

可奈は、一呼吸置くと、周囲に響き渡るほどの大声で叫んだ。彼女の震える声は、市場の喧騒を一瞬で切り裂いた。

「あなたたち、これでいいの!?」

彼女は手に持っていた市場で買ったばかりの安物の短剣を抜き放ち、その掲示板に貼り付けられていた公爵家の紋章が描かれた通達を、力いっぱい切り裂いた。

ビリビリッ!

2.獣人たちの反応

一瞬の静寂の後、市場は怒号と驚愕の声で溢れかえった。獣人たちの反応は、可奈の予想とは少し異なっていた。彼らはすぐに暴動を起こすのではなく、**「外来の人間が公爵家に反抗した」**という予想外の事態に、ただ立ち尽くした。

可奈の陽動の目的は、獣人たちの怒りに火をつけ、公爵家の鎮圧部隊を誘い出すことだ。彼女は、集まった獣人労働者たちに向かって、全身の力を振り絞って訴えた。

「公爵家は、あなたたちを人間よりも劣った存在だと見ている!王太子様を暗殺してまで、この街の富を奪っているのは誰!?私たちのような弱い人間が、証拠隠滅のために濡れ衣を着せられるのと同じように、あなたたちも不当な労働で搾取されている!」

彼女の言葉は、単なる反抗ではなく、獣人たちが日頃から抱えていた、公爵家に対する根深い不満の核心を突いた。

オークの労働者A:「あの女…何を言っている?王太子暗殺の犯人だとされた人間が、なぜここに?」

コボルトの商人B:「しかし、言っていることは正しい!あの賃下げは不当だ!公爵家の犬どもに、このまま従うのか!」

獣人たちの顔つきが、徐々に警戒から怒りへと変わっていく。可奈の行為は、彼らにとって、自分たちが声を上げられない代わりに、外来者が火をつけた「炎」のように見え始めた。

3.鎮圧部隊の登場と誘導

この騒ぎは即座に、公爵家の私兵と、街の警備隊に通報された。

わずか数分後、武装した警備隊と、昼間シグリッドを追った黒鎧の実行部隊の一部が、市場へと急行してきた。彼らにとって、街の中心地での**『外来種が引き起こした集団反抗』**の芽は、証拠隠滅よりも、一時的に優先されるべき危機だった。

黒鎧の男:「騒ぎを起こしている人間を拘束しろ!獣人たちは解散させろ!これは公爵家の命令だ!」

警備隊が可奈に向かって突進してくる。

(ここからよ、お兄様)

可奈は、短剣をすぐに手放し、両手を上げて抵抗しない素振りを見せた。そして、拘束される直前、最後の、そして最も重要な誘導を行った。

彼女は、警備隊に向かって、大声で叫んだ。

「公爵家の汚い秘密は、街の反対側!運河の橋の向こうの廃工場で隠されている!」

これは、シグリッドが逃走に使った運河の橋の方向、つまり公証人組合とは全く逆の方向を指していた。

可奈は、警備隊に乱暴に拘束された。その瞬間、彼女は意識的に顔を歪ませ、絶望の表情を浮かべた。

警備隊長:「連行しろ!そして、一部隊は、あの女が言った廃工場をすぐに捜索しろ!」

公爵家の実行部隊は、可奈の言葉が嘘か真実かを判断できず、警戒を二分せざるを得なくなった。公証人組合の警備も、この大規模な混乱と、**『秘密の隠し場所』**という偽情報に気を取られ、一時的に手薄になる。

可奈は、粗暴な力で引きずられながらも、心の中でシグリッドに祈った。

(お兄様…行って。あたしはここで、時間を稼いでみせる!)

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