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38.覚悟

古い庭園の隅。可奈は、もうこれ以上涙が出ないほどに泣ききった後、冷たい石壁に額を押し当てて静かに息を整えていた。


怒り、悲しみ、絶望。それらは全て、現代日本で培った「平和な日常」に依存した感情だった。


(シグリッドさんの言う通りだ……)


彼女の脳裏に、シグリッド・ロンバルノ・ブローマンが放った突き刺すような言葉が蘇る。『貴様の常識は、ここではただの毒にしかならない』。


シグリッドの訓練は、人を殺すためのものだ。それは可奈の倫理観に反する。だが、その訓練を拒否することは、彼女自身だけでなく、彼女を守ろうとしているシグリッドの命をも危険に晒すことを意味していた。黒幕カシュラーゼの暗殺者は、可奈が抱く**「躊躇」**こそが、彼らにとって最も利用しやすい武器だと理解しているだろう。


可奈は、自身の能力がこの世界にもたらした厄介さ、そして自分が巻き込まれた理不尽さを、今、初めて深く、骨の髄まで理解した。


「……毒でも、今は生きなきゃ」


彼女はゆっくりと立ち上がった。服についた土を払い、顔についた涙の跡を手の甲で強く拭った。泣き腫らした瞳には、まだ不安と恐怖が残っていたが、その奥に、20歳の大学生が持つべきでない、冷たい決意の光が灯っていた。


(私は、生き残る。元の世界に戻るためじゃなくても、自分の命を誰かの都合で終わらせるなんて、絶対に嫌だ)


可奈は転がっていた木剣を拾い上げ、柄の感触を確かめた。重い。しかし、もう放り投げない。これを握ることが、この理不尽な世界で生きるための唯一の「鍵」だと受け入れたのだ。


訓練場に戻ると、シグリッドは中央で槍を磨いていた。彼の全身を覆う黒い装甲は磨き上げられ、冷たい光を放っている。可奈が戻ったことに対し、彼は一切顔を上げなかった。


可奈は一歩踏み出し、シグリッドの目の前で、木剣を構えた。武道の基本姿勢。足は震えていたが、声は震えさせなかった。


「シグリッド・ロンバルノ・ブローマン副騎士団長」


可奈が正式な呼び名を使ったことに、シグリッドの手が一瞬、槍の柄の上で止まった。


「地獄の特訓、続行をお願いします」


シグリッドはゆっくりと槍から顔を上げた。彼の空のような明るい青い瞳が、可奈のまっすぐな瞳を射抜く。その瞳には、可奈が予想していたような「満足」や「勝利」の色はなかった。あったのは、ただ、彼女の決意を冷静に測る、プロフェッショナルな視線だけだった。


「結構だ」


彼はそう短く答えると、磨いていた槍を地面に置き、腰から鞘に入った実剣を引き抜いた。


「次は対武器戦闘だ。貴様の得意な間合いに、暗殺者は決して入らない。武器を持て」


彼は可奈が構える木剣を一瞥し、即座に次の段階の訓練へと移行した。その訓練は、先ほどの模擬戦闘よりも遥かに非情なものになるだろう。シグリッドは、可奈が理不尽を受け入れたことを言葉で褒めるのではなく、さらに危険な現実に直面させることで、彼女の覚悟に応えたのだ。


そして彼は、先ほどの訓練で可奈に浴びせた言葉を、さらに冷たく言い放った。


「臆するな!! 私を暗殺者だと思って、殺す気で戦え!!」


シグリッドが剣を低く構えた瞬間、可奈の周りの空気が一変した。恐怖は消えない。だが可奈は、その恐怖すらも体幹に固定し、強く木剣を握りしめ、初めて**「騎士の戦闘術」の世界**へと足を踏み入れたのだった。



◇



可奈が覚悟を決めてから一週間。旅は続いていた。


その日の訓練は、森の奥深くにある開けた野営地で行われた。地面は木の根が這い、不安定な足場が天然の障害物となっている。


「まだ終わらないぞ。戦場では一瞬の油断が死に繋がる」


シグリッドの鋭い声が響く。可奈は、もう立っているのがやっとの状態だった。両足は擦り傷だらけ、木剣を握る手は皮が破れて血が滲んでいる。


シグリッドは相変わらず、一切容赦がなかった。彼の動作は、騎士団の訓練場で見たそれとは比べ物にならないほど、殺気に満ちていた。まるで本物の暗殺者のように、地形を利用し、一瞬で可奈の間合いに入り込む。


可奈が疲労で防御が遅れた瞬間、シグリッドの木剣が彼女の腹部に鈍い音を立てて叩き込まれた。


「ぐっ……!」


可奈は息を詰まらせ、地面に膝をついた。痛みで意識が遠のきそうになる。


「何をしている。まだ終わっていない」シグリッドは木剣の切っ先を可奈の喉元に突きつけた。彼の空のような明るい青い瞳は、冷たい氷そのものだった。「貴様は、その一瞬の隙で、すでに内臓を破られている。立て」


「も、もう無理です……」可奈は絞り出すような声を出した。「動けません……」


シグリッドはわずかに俯き、可奈から剣を引いた。その仕草は諦めではなく、可奈の身体の状態を正確に分析しているようだった。


「臆するな!! 私を暗殺者だと思って、殺す気で戦え!!」


シグリッドのセリフが、可奈の耳奥で雷鳴のように轟く。可奈は歯を食いしばり、必死に立ち上がろうとした。しかし、全身の筋肉が悲鳴を上げ、動かない。


「……本日の訓練はここまでだ」


シグリッドは木剣を鞘に戻し、くるりと背を向けて野営地の中心に戻ってしまった。その態度は、可奈の努力や限界を一切評価しない、冷たい機械のようだった。可奈は、悔しさと情けなさで、その場に崩れ落ちた。


夜。


可奈は焚き火のそばで、自分の傷の処置をしていた。シグリッドが用意した粗末な薬草を擦り込む。皮が剥けた手のひらに薬が染み込み、熱を持つ。


(今日のシグリッドさん、本当に殺す気だった……。少しでも手元が狂ったら、本当に怪我してた)


可奈は、シグリッドの厳しさが、彼の**「高速突き」**の精度によって支えられていることを理解していた。彼は寸止めどころか、殺意を込めた一撃を「絶対に殺さない」精度で止められる、途方もない技術を持っていた。


その時、シグリッドが焚き火の光を背にして、音もなくやってきた。彼は何も言わず、黒い手袋を脱ぎ、可奈の前に座った。


可奈は緊張で息を止めた。説教だろうか、それとも明日の訓練の指示だろうか。


シグリッドは、可奈が処置を諦めていた左手に、静かに触れた。彼の指先は、戦い続けている騎士のものとは思えないほど、優しく、器用だった。


彼は可奈から薬草の入った皮袋を奪い取ると、それを可奈の手のひらに丁寧に塗り始めた。薬草を優しく押し込み、破れた皮の箇所をきつく締め付けすぎないように布で巻いていく。


「手の皮は、暗殺者が最初に潰しにかかる部分だ。明日までには回復させておけ」


シグリッドは、それだけ言うと、可奈の視線を避けるように、すぐに布を巻く作業に戻った。


「あの……シグリッドさん」


「静かにしろ」


可奈は反論できず、ただ見つめることしかできなかった。焚き火の赤い光が、シグリッドの顔の半分を照らし、彼の空のような明るい青い瞳の中に、揺らめく光を宿らせていた。


その瞬間、可奈は初めて、彼の冷徹な鎧の下に、人間としての温かさと、自分を守るための深い責任感が息づいているのを感じた。


(彼は、自分が鬼になることで、私を生かそうとしてくれているんだ……)


可奈の胸に、これまで感じたことのない、微かな熱が灯った。それはまだ、恋愛感情と呼ぶにはあまりにも頼りない、師への尊敬、命を救われた感謝、そして異性としての戸惑いが混ざり合った、複雑な感情だった。


処置が終わると、シグリッドはすぐに立ち去った。

「休め。夜襲に備え、私が立つ」


野営地の奥深くで、氷の黒騎士が、可奈を囲む魔術無効の圏内を静かに歩き回り、夜の闇を警戒している。可奈は、その黒い背中を見つめながら、破れた手の痛みよりも、胸の奥の微かな熱に、戸惑いを覚えていた。

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