26.二つの噂と魔術師の影
場所:リセフィア帝国・オルバイン街、『泥の杯亭』、最上階の部屋
時間:潜入二日目、夕刻
シグリッドは、追手を撒いた後、宿屋に戻り、可奈に与えられた硬いパンと冷たいスープを静かに口にした。彼の全身からは、張り詰めた緊張感がわずかに緩んだものの、快晴の空の様な青い瞳には、昼間の出来事の残光が宿っている。
可奈は、シグリッドが帰還してからすぐに、昼間に集めた「噂の断片」を記録したメモを差し出した。
「お兄様、聞いて。宿屋でこんな話を聞いたの。『公爵家の城に、妙な魔術師が夜中に出入りしている』って。そして、『王太子事件の片付けに来た奴みたいだ』って言ってたわ」
シグリッドは、可奈の走り書きされたメモを受け取り、その内容を読み込んだ。彼の顔には、驚きというよりも、予想が的中したことによる確信の色が浮かんだ。
「そうか。君もその情報を掴んだか」
シグリッドはそう言うと、静かに自分が市場で得た情報を話し始めた。
1.二つの情報の交差
「私の接触した黒翼商会は、公爵家と深いつながりがある。彼らによると、王太子事件以降、公爵家は王室派の商人たちに対して**『魔術の使い手』**を動かし、合法的な手段で資産を差し押さえているという」
可奈は息を呑んだ。「魔術で、差し押さえ?それって、証拠や書類を改竄しているってこと?」
「おそらくそうだろう。そして、私を追ってきたのは、公爵家の実行部隊だ。全身黒鎧の男たちが三人。彼らは、私の身なりが行商人にしては不審だと判断したか、あるいは私が情報を聞き出した瞬間に、誰かが公爵家に連絡を入れた」
シグリッドは、壁の地図を指差した。
「君が得た**『妙な魔術師』と、私が見た『魔術による資産排除』、そして私を追った『実行部隊』。この三つは、公爵家が事件を収束させ、王国の経済基盤を奪うための特殊な工作チーム**を動かしていることを示唆している」
可奈は、全身に鳥肌が立つのを感じた。彼らが追っている「真犯人」は、単なる貴族間の権力闘争ではなく、国を傾けようとする組織的な陰謀の渦中にいる。
2.次の目標:魔術師の特定
シグリッドは、部屋の隅にある小さな灯りを消し、窓からオルバインの闇を見下ろした。
「我々が最初に手掛かりにすべきは、この**『妙な魔術師』**だ。彼らが動くことで、公爵家の目的と、王太子殺害事件との具体的な繋がりが明らかになる」
「でも、どうやって?公爵家の城に出入りしてるなんて、近づくのは危険すぎない?」可奈は不安を隠せない。
「城ではない」シグリッドは断言した。「資産の差し押さえは、城ではなく、街の行政機関や商人の事務所で行われる。彼らは、最も目立たず、最も効率的な場所で作業するはずだ」
彼は地図上の、市場から少し離れた場所にある一箇所に、指を突き刺した。
「オルバイン街の『公証人組合』だ。資産の記録と法的な手続きは、必ずここを通る。魔術師が文書を操作するなら、作業場はそこにある」
シグリッドは、可奈に視線を戻した。彼の青い瞳は、暗闇の中でも鋭く光っている。
「今夜、私はこの公証人組合の周辺を偵察する。君は宿で待機し、私が帰らない場合の対処を頭に入れておけ」
「また一人で!? 追手がいるのよ!」可奈は思わず声を荒げた。
「行商人として不審がられたのは私だ。今、宿を出るのも、隠れるのも、私の方が適任だ。そして、私は騎士団副団長だ。貴様のような**『学生』**を危険に晒すわけにはいかない」
シグリッドは、可奈の反論を完全に無視し、旅装を整え始めた。
「…分かったわ、お兄様。でも、必ず、夜が明ける前に戻ってきて」
可奈は、自身の無力感に唇を噛みながらも、シグリッドの冷徹な判断に従うしかなかった。オルバインでの二日目の夜が、最も危険な夜になろうとしていた。




