25.詮索の代償
シグリッドが黒翼商会を離れて数秒後、背後から確かな足音と、革の擦れる音が響いた。黒鎧の男たち――公爵家の実行部隊が、彼の後を追っている。数は三人。
(私が動揺した様子を見せれば、彼らは確信を持って斬りかかってくる。あくまで、迷い込んだ羊を装う)
1.路地の迷宮と判断
シグリッドは、市場の喧騒から一転して、獣人労働者が住む狭く汚れた路地へと足を踏み入れた。オルバインの街は、中央の公爵城を中心に放射状に広がるが、この貧民街はまるで迷路のように複雑に入り組んでいる。
彼は走らなかった。早足で、時には道の端で立ち止まり、困惑したように地図を取り出す仕草を見せた。しかし、足の運びは無駄がなく、泥水たまりや散乱したゴミを完璧に避けている。
追手(黒鎧のリーダー):「止まれ、ローゼンガルテの犬め。公爵様の領地で余計な詮索をするな」
威嚇の声が響く。シグリッドは、振り返らず、舌打ちをしたフリをした。
(この声…戦闘慣れしている。追いつけば、問答無用で始末するつもりだ。だが、この狭い路地で、騎士ではない私が剣を抜けば、それこそ「不純な分子」だと公然と断罪される)
彼は、路地の突き当たりにある、古びた石造りの倉庫の影に身を隠した。
2.運河への誘導と障害物の利用
倉庫の屋根を越えれば、この街の物流を担う運河に出る。シグリッドは、その運河沿いの道が、逃走に有利だと判断した。運河沿いは見晴らしが効くが、物資の積み下ろしに使われる巨大な木箱やロープが、無数の障害物となっているからだ。
シグリッドは、倉庫の横にある、崩れかけた木材の山を蹴り倒した。ガシャン、という轟音と共に木材が路地を塞ぐ。
「チッ!」
追手のリーダーが舌打ちする音が聞こえた。一瞬の遅延。その間に、シグリッドは倉庫の裏手を回り、運河沿いの道に出た。
目の前に広がる運河は、汚れた水と、荷船の汽笛の音が混ざり合う、活気がありながらも混沌とした空間だ。
彼は、運河の護岸に沿って配置された、高さ二メートルほどの巨大な麻袋の山に向かって加速した。麻袋の中身は、オルバイン鉱山から運び出された鉄鉱石の粗粒だ。
3.意図的な反撃
追手が運河沿いの道に現れた瞬間、シグリッドは振り向きもせず、荷揚げ用の太いロープを掴んだ。彼はそのロープを軸に、素早く麻袋の山の頂上を駆け上がった。
追手のリーダーが、シグリッドの「行商人らしからぬ」動きに疑念を抱き、腰の短剣に手をかけようとした、その刹那。
シグリッドは、麻袋の頂上から勢いよく、二つの粗粒入り麻袋を蹴り落とした。
ドンッ!という鈍い音と共に、重い麻袋が二番目の追手の足元に直撃した。
追手2:「ぐぅあ!」
追手の一人が足首を捻り、体勢を崩した。シグリッドの狙いは、相手を傷つけることではなく、追跡の連携を崩し、一時的に戦闘不能にすることだった。彼は剣を抜かず、あくまで事故に見せかけた。
シグリッドは、麻袋の山の陰に身を潜め、最後の手段に出た。彼は、ポケットから一枚の金貨を取り出すと、近くにいた貧しい子供たちの群れに向かって、強く投げつけた。
金貨は石畳に当たり、カラカラと音を立てて転がった。
「金だ!金貨だ!」
子供たちの群れが一斉に金貨目掛けて殺到し、運河沿いの道を完全に塞いだ。
4.追跡の中断
シグリッドは、この混乱に乗じて、運河を渡る小さな跳ね橋を駆け抜けた。橋の向こう側は、街の反対側、リセフィア帝国の国境に近い荒野へと続く。
追手のリーダーは、子供たちをかき分けながら怒鳴ったが、すでにシグリッドの姿は人ごみの向こう側、橋を渡り終えた場所にあった。
黒鎧のリーダー:「追え!見失うな!あの男、ただの行商人ではない!」
しかし、リーダーは運河を渡らなかった。彼の任務は、あくまで街の内部での排除であり、国境付近まで追跡することは、公爵家の指示外の行動になるのかもしれない。リーダーは苛立ちを隠さず、橋の手前で追跡を断念した。
シグリッドは、街の外壁の影に入ったところで立ち止まり、深く呼吸をした。
(これで撒いた…公爵家は、私たちがただの行商人ではないと気づいたはずだ。次は、宿に戻り、可奈と情報を突き合わせる必要がある。この魔術師と、私を追ってきた実行部隊…全てが繋がっている)
彼は、服についた泥を払い、何事もなかったかのように、人目につかないよう宿屋へと向かった。




