23.獣人の街オルバイン
夜明けの光が、鉄の山脈の荒々しい稜線を淡く照らし始める。ガタゴトと揺れる荷馬車の荷台で、シグリッドは帽子を深く被り、微動だにせずに座っていた。隣には、貧しい旅装に身を包んだ可奈が、深い眠りについている。疲労困憊の彼女は、揺れに身を任せ、シグリッドの腕に寄りかかるようにして眠っていた。
シグリッドは、その小さな頭が肩に触れるのを感じながらも、顔色一つ変えなかった。彼の冷徹な目は、遠くの山の端ではなく、可奈の柔らかな黒髪、そして彼女がこの世界で着るにはあまりにも異質な顔立ちに注がれていた。
(異邦人。異世界からの**『変数』**)
彼の脳裏にあるのは、王国の秩序と、リセフィア帝国の陰謀だけだ。可奈の存在は、その複雑な方程式に突如として投入された、予測不能な要素だった。
可奈は、彼が想定していた暗殺者のイメージとはかけ離れている。圧倒的な体術の使い手でありながら、この世界の魔力とは全く無縁の存在。そして、彼女が持つ**「賢者の遺産」は、王国の内通者とリセフィア帝国の双方が喉から手が出るほど欲しがる『鍵』**である。
彼女の存在は、騎士団の副団長であるシグリッドにとって、二つの側面を持っていた。
第一に、使命遂行のための『盾』。
彼女が持つ「鍵」を囮に、真の黒幕である王国貴族と、リセフィア帝国の実行部隊を炙り出す。彼女を生かしておくことが、王国の真実に辿り着く最短ルートなのだ。
シグリッドの冷たい合理主義が、この共闘を正当化する。
(感傷は無用。彼女は、王国の危機を救うための、最も有効な**『道具』**だ。私は彼女を徹底的に守り、利用する。それが騎士としての私の義務だ)
第二に、彼の『合理性』を乱す『不協和音』。
可奈の無防備な寝顔を見たとき、彼の内に、騎士団の訓練では決して教わることのない、**「人間的な保護欲」**のようなものが、微かに湧き上がった。
彼は、可奈の無実を信じていた。あの戦場で、彼女の命がけの戦いを見た。彼女は、王太子を殺すような冷酷な暗殺者ではない。ただ、運命の渦に巻き込まれた、異世界からの迷い子だ。
(この女は、私が知る世界の住人ではない。彼女の目の色、髪の色、そしてあの常軌を逸した体術……すべてがこの世界の法則から外れている)
彼は、自身の厳格な行動原則と、目の前の現実との間で、静かな葛藤を覚えた。彼女に与えた**「妹」という設定は、追跡を欺くための最も合理的な選択肢だった。しかし、彼が密かに「妻」という設定を考え、すぐに却下した理由は、可奈の目立たない容姿ではなく、彼自身の心の奥底にある『感情』**が、その設定に反応してしまうことを恐れたからだった。
シグリッドは、無意識のうちに、可奈の頭が触れている肩の筋肉を硬くした。この感情は、騎士としての使命とは無関係の、単なる**『邪魔』**でしかない。
彼は、感情を断ち切るように、ゆっくりと、しかし確かな力で、可奈の頭を肩から離し、荷台の木箱に寄りかからせた。
(事件が全て解決するまで、この無防備な女を守り抜く。それが、私がこの共闘に課した唯一の規則だ。それ以上でも、それ以下でもない)
シグリッドは、遠くで朝靄に霞む街道を見つめ、再び無感情な**『商人』**の顔に戻った。オルバインは、彼の知る世界とは異なる、獣人の街。そこには、騎士の鎧を脱ぎ捨てた彼自身の、新たな戦場が待っている。
◇
可奈とシグリッドは、夜の帳が降りたオルバインの路地裏に立っていた。
二人は人目につかぬよう、最も込み入った安宿街まで足を運んでいた。可奈の足は限界に近く、顔の土気色は偽装ではない。
「兄様…もう、動けない」可奈は荒い息を吐き、壁にもたれかかった。
シグリッドは、獣人向けに設計された巨大な木造の宿屋の看板を見上げた。獣人の文字で**『泥の杯亭』**と書かれている。
「黙れ。声を上げるな」シグリッドは冷たく言い放ったが、その視線は可奈の足ではなく、周囲の警戒に集中している。
「この辺りが最も警戒が薄い。獣人種族の労働者や、この街の闇に生きる人間が利用する場所だ。私たちのような外来種には、むしろ安全と言える」
シグリッドは可奈を無理やり立たせ、宿屋の薄汚れた扉を押し開けた。強烈な獣人の体臭と、安酒の匂いが可奈の鼻腔を突く。
宿の主人は、毛皮の濃いオークのような獣人だった。シグリッドは流暢な帝国共通語で話しかける。
「旅の行商人だ。妹と二人、一泊させてくれ。水と、簡単な食事、朝まで静かに眠れる部屋を頼む」
シグリッドは、あらかじめ用意されていた偽造の身分証明書と、金貨数枚をカウンターに置いた。その金貨は、可奈が故郷で働いていた頃の給料よりも遥かに高額だった。
部屋は宿屋の最上階の隅。窓は小さく、鍵は信用できないほど簡素だった。
「防犯の魔法陣だ」
シグリッドは木箱から小さな魔道具を設置した。それは微細な魔力の揺れを感知する装置だった。
まもなく、給仕が運んできたのは、硬いライ麦パンと、塩辛い豆のスープ、そして水だった。簡素ではあるが、道中の干し肉よりは遥かにまともな食事だ。
シグリッドは可奈にスープをすすらせ、すぐに地図を広げた。可奈は喉を通らないパンを噛みしめながら、その行動を見つめる。
「可奈」シグリッドは低い声で言った。
「我々の任務は、王太子殺害の真犯人に関する情報を収集することだ。だが、闇雲に動いてもすぐ捕まる」
シグリッドは、オルバイン街の地図にいくつか印をつけた。
「まずは、情報源の選定だ。この街は王族が直接支配する『表』と、公爵家が裏で牛耳る『裏』がある。真犯人は、公爵家と繋がっている可能性が高い。我々は『裏』から情報を掘り出す」
彼は可奈を見た。
「君の役割は**『行商人の妹』としての生活の偽装だ。私は明日、行商人として市場に出る。君は宿に残り、宿の住民や給仕との会話に耳を澄ませろ。獣人種の会話から、王室や貴族に対する不満、あるいは公爵家の動向に関する噂の断片**を拾い集めるんだ」
「噂、ですか?」可奈は眉をひそめた。
「ああ。噂こそが、この国で最も早く広がる情報だ。王太子殺害事件の『真実』を知る者は、口外できない。だが、『真犯人』の背後にある公爵家や、その関係者の**『最近の不審な動き』**といった噂は漏れる。それらをすべて記録し、私に報告しろ」
シグリッドの目は冷たいながらも、確固たる決意を秘めていた。
「我々は、王国の名誉と、君の無実を晴らすためにここにいる。真犯人の尻尾を掴むまで、一歩も引くな」
「……はい、お兄様。わかりました」
可奈は、その冷徹な言葉に自らの覚悟を再確認し、硬いパンとスープを咀嚼した。オルバイン街での長い潜伏生活が、今、始まった。




