22.偽りの夫婦から偽りの兄妹へ
夜が明け、日の光が山道の木々の隙間から細く差し込み始めた。獣人の御者は静かに手綱を握り、馬車はガタゴトと一定のリズムで揺れている。
可奈は数時間の眠りで多少回復し、冷たい木箱にもたれかかりながら、隣のシグリッドを観察していた。彼は、帽子を深く被り、濃緑色の地味な上着を着ていても、その姿勢の良さと冷たい静けさで、周囲から浮いているように見えた。
可奈は、これまでの経緯と、彼が「内通者」と呼んだ**『本物の悪役令嬢』**の存在について、整理する必要があった。
「ねえ、シグリッド。少し話せる?」
シグリッドは、一瞬だけ可奈に視線を向け、すぐに前を向いた。
「周囲の状況を確認しろ。ここはまだ王国の領内だ。声量を落とせ。そして、設定を忘れるな。兄貴だ」
「…分かったわ、兄貴」可奈は皮肉を込めて言った。「昨夜あなたが言った、『本物の悪役令嬢』についてよ。王太子を暗殺させた真の黒幕が、王国の貴族だっていう話。その人物は誰なの?」
「それは言えない。君が知るべき情報ではないし、知ったところで何の意味もない」シグリッドは冷徹に言い放ち、続けた。「君の持つ『賢者の遺産』が、彼らの関心を惹きつけている。君が動けば動くほど、彼らは焦り、足跡を残す。私はその足跡を辿るだけだ」
「命を危険に晒すのは、今更でしょう。あたしは冤罪を晴らしたい。動く必要がある」可奈は食い下がった。
シグリッドは腕を組み直した。
「動く必要はない。君はただの**『餌』**だ。私は、君という道具を利用し、王国の危機を救う。それ以上でも、それ以下でもない」
可奈は息を呑んだ。彼の冷たい合理的思考は理解できるが、あまりにも人間味がない。
「分かったわ。餌でも道具でも、好きに呼べばいい。でも、あたしには一つだけ、あなたが答えなきゃいけないことがある」可奈は真剣な眼差しで彼を見つめた。「あたしは、あなたの名前を知らない。そしてあなたは、あたしの名前を知らない。これから命懸けの潜入を共にするのよ。偽名とはいえ、お互いの名前くらいは知るべきでしょう」
シグリッドは沈黙した。彼は可奈の言うことが、この状況下では理に適っていると理解した。
彼は深く被っていた帽子のつばを、わずかに上げた。その快晴の空の様な青い瞳が、可奈を射抜く。
「私の名は、シグリッド・ロンバルノ・ブローマン。ローゼンガルテ王国、騎士団副団長だ。貴様をこの騒動から引き離す、唯一の人間でもある」
騎士団副団長。それは彼がこの国の高位の人間であることを示していた。可奈は、その名と役職を静かに頭の中で反芻する。
「シグリッド・ロンバルノ・ブローマンね。冷たい兄貴にぴったりな、長い名前だわ」
可奈は、自嘲気味に笑った後、自身の素性を偽りなく告げた。
「あたしは、原田可奈。元の世界では、ただの学生よ。この世界に来てからは、冤罪の王太子暗殺犯として追われる、ただの迷子」
シグリッドは、可奈の言葉を聞き、わずかに眉を動かした。
「ハラダカナ。聞き慣れない響きだ」シグリッドはそう呟き、そして馬車の揺れに合わせて、ゆっくりと可奈に顔を近づけた。
「いいか、ハラダ。オルバインに着くまでは、君は私の**『妹』、『カナ・ブローマン』**だ。この世界での君の名前は、今、私が決めた」
「カナ・ブローマン…」可奈は口の中でその名を繰り返した。異世界での、彼女の最初の偽名だった。
「私の判断に従う限り、君の命と、君の冤罪を晴らす機会は保証される。だが、一度でも私の指示を無視すれば、その瞬間、君は**『道具』**として利用価値を失う。その時は、容赦なく拘束する」
シグリッドの声音には、一切の揺らぎも情もなかった。
「分かったわ、兄貴。カナ・ブローマンとして、あなたの**『共犯者』になりましょう。ただし、あたしを利用するのなら、あなたの『秘密』**は、あたしにも知る権利がある。その時が来たら、全てを話してちょうだい」
可奈は、彼の冷たさを受け入れ、この共闘関係を改めて結び直した。




