21.次の目的地へ
可奈は、シグリッドから託された銀貨の束をしっかりと腰の革袋にしまい、裏路地から宿屋の裏口へと戻った。
シグリッドが情報収集で確保したという部屋は、宿屋の最も奥まった場所にある、窓のない粗末な物置だった。中には、簡素な旅装の女性用衣服と、清潔な包帯、そして一振りの剣が布に包まれて置かれていた。
可奈は、その女性用衣服に着替える。それは、くすんだ茶色の木綿のワンピースに、厚手のストール、そして泥で汚れたように加工された革靴だった。動きやすさよりも、目立たないことを優先した衣服だ。
(シグリッドの言う通り、私の容姿はこの世界では浮く。異邦人だとバレても、『貧しい地方の出』として処理される方が、暗殺者だと疑われるより遥かにマシだわ)
包帯で疲労した手足を軽く保護し、剣を背中に隠すようにストールで覆い、可奈は物置部屋でじっと待った。
待つこと数時間。空が藍色から薄い鉛色に変わり始めた、夜明け直前の最も静かな時間。
ドンドンドン、と控えめながらも明確なノックが響いた。可奈は布に包まれたピンを握りしめ、そっと扉を開ける。
そこに立っていたのは、見違えるような姿のシグリッドだった。
彼は、昼間の騎士甲冑や夜の黒コートではなく、埃っぽい濃緑色の厚手の上着に、使い古された革のズボンを穿いていた。腰には剣ではなく、木製の荷物箱を下げ、金色の髪は油で固められ、目深に被った帽子の下に隠されている。
彼の冷徹な表情は変わらないが、その目つきだけは警戒心に満ちていた。
「準備はいいか、妹よ」
シグリッドが、ぎこちない、しかし力強い声で言った。可奈は、その口調に思わず肩を竦めた。
「ええ、冷血漢の兄貴。いつでも行けるわ」
シグリッドは物置部屋を一瞥し、可奈の手荷物がないことを確認すると、すぐに裏口へ促した。
「馬車は貧民街の外れの路地に待たせてある。最も安く、最も目立たない方法だ」
宿屋の裏口を抜ける彼らの足音は、夜明けの静寂に吸い込まれていく。
「オルバインへは、通常の旅人の倍の時間がかかる。獣人の街へ行く商人なんて滅多にいないからな。その分、追手は気にしないだろう」
「追手はアルスタームへ向かうと読んでるのよね?」可奈は小声で確認した。
「そうだ。王国の内通者が仕組んだ情報は、君が西の港湾都市へ逃げたことになっているはず。我々は正反対の東へ向かう。オルバインの**『獣人の特産品』**を仕入れに行く貧しい商人の兄妹、この設定を肌で感じておけ。特に、君は異邦人だ。無駄な言動はすべて排除しろ」
シグリッドの言葉には一切の感情がなく、ただの任務の指示だった。しかし、可奈はその冷徹な言葉の裏に、確かな**『守る』**という意志を感じていた。
裏路地を抜けた先、粗末な木材で作られた二輪の小さな荷馬車が待っていた。御者は、眠そうな老人の獣人だった。
シグリッドは老人に銀貨を渡し、可奈を荷台に乗せた。
「乗れ、カナ。道中は揺れる。寝ていろ」
可奈は、薄汚れた荷台の隅に身を寄せ、シグリッドが隣に座るのを見守った。シグリッドは、帽子を深く被り直し、腕を組み、微動だにしない。まるで、眠るのではなく、周囲の気配をすべて読み取るセンサーのようだった。
馬車が動き出し、貧民街の石畳を離れていく。ガタゴトという単調な揺れと、獣人の老人の鼻歌だけが、二人の間の張り詰めた沈黙を破る。
可奈は、初めてシグリッドの隣に座っているにもかかわらず、全く安心感を感じなかった。この男は、味方ではあるが、騎士団の副団長という立場、そしてあまりにも冷徹な性格が、可奈との間に厚い壁を作っている。
(この冷たい壁を崩さない限り、彼の真の目的はわからない。でも、今は…彼の指示に従って、オルバインへ。それが、冤罪を晴らす唯一の道)
可奈は、疲労から来る重いまぶたを閉じ、オルバインでの再起を心に誓った。夜明けの微かな光が、二人の旅路を照らし始めていた。




