20.宿屋の死闘
可奈は突然、狂ったように叫び始めた。
「うわああああああああああああああ!!」
そして、叫びと同時に、全身のバネを利かせ、右足で床を強く踏みつけ、壁から猛然と飛び出した。
暗殺者は、可奈の不規則な行動に一瞬戸惑ったが、すぐに反応し、短剣で可奈の進路を断とうとする。
だが、可奈の狙いは暗殺者自身ではない。
彼女は、暗殺者が短剣を突き出した瞬間、暗殺者の頭上にある、剥き出しの天井の梁に向かって、両手を広げた。
「落ちろ!」
可奈は、総合格闘技で培った跳躍力で梁に飛びつき、梁全体に全身の体重と、踏みつけの衝撃をぶつけた。古い宿屋の梁は、可奈の想像以上の勢いで軋み、そして——
バリバリッ!!
梁を固定していた釘が抜け、天井の石膏と木材、そして長年積もっていた土埃が、暗殺者目掛けて大量に降り注いだ。
「なっ……!?」
暗殺者は、予想外の「奇襲」に視界を奪われ、反射的に両腕で顔を覆った。短剣の刃が、可奈から逸れる。
可奈は、この一瞬の隙を逃さなかった。着地と同時に、埃で咳き込んでいる暗殺者の足元に滑り込み、彼の膝裏に、鋭く、全身の体重を乗せたローキックを叩き込んだ。
ゴキッ!
暗殺者の体が不自然な角度に折れ曲がり、彼は声も上げずにその場に崩れ落ちた。可奈は、すぐに彼の首筋に腕を回し、腕を絞める(スリーパーホールド)ことで、彼の意識を刈り取った。
「はぁ……はぁ……」
可奈は、全身から汗を吹き出し、その場にへたり込んだ。腕の中の暗殺者は、もはや動かない。
可奈は、彼の布製のマスクを剥ぎ取った。現れたのは、感情のない、冷たい顔。その顔の横には、小さな銀色のピンがついていた。それは、一見すると何の変哲もない貴族の装飾品だが、可奈の記憶の中の、ある高位貴族の令嬢の服についていた紋章と酷似していた。
(この紋章……まさか、エルミラか。王太子の暗殺を画策した『本物の悪役令嬢』の差し金……!)
可奈は、暗殺者の懐から、数枚の金貨と、小さな羊皮紙を見つけ出した。羊皮紙には、可奈の似顔絵と、「賢者の遺産」を回収せよ、という指示が、高位貴族しか使わない美しい文字で記されていた。
可奈はすぐに結論を出した。この宿屋は、もう安全ではない。
彼女は、暗殺者の体をベッドに放り込み、窓の板を外し、身を隠していた路地へと飛び降りた。
貧民街の宿屋の一室は、静かに、そして誰も気づかないまま、闇の中に置き去りにされた。
(エルミラ……あんたが私に罪を着せ、暗殺者まで送り込んできた黒幕なら、絶対に許さない。まずは、あんたの尻尾を掴んで、この冤罪を晴らしてやる!)
可奈は、埃まみれの宿屋の窓枠をよじ登り、公爵家の紋章が刻まれたピンをしっかりと握りしめて、湿った石畳の裏路地に着地した。
彼女は着地の衝撃を体術で完全に吸収し、すぐに全身の警戒態勢を整える。戦闘による激しい疲労は全身を襲っているが、身体的な怪我は負っていない。
その時、路地の奥から、乾いた革靴の足音が一つだけ響いてきた。
可奈が身構えると、闇の中から、動きやすい簡素な黒いコートを羽織ったシグリッドが現れた。彼の表情は夜の闇に沈み、感情を読み取ることはできない。
「シグリッド……!」
可奈は息を詰めた。彼は、昼間の騎士の甲冑姿ではなく、情報収集に適した目立たない服装をしていた。
シグリッドは、可奈の手に握られた紋章ピンを一瞥した後、冷徹な目で可奈を見下ろした。
「遅かったな。一つ片付いたようだが、これで終わりではない。そのピン、見せてみろ」
可奈は反射的にピンを隠した。
「あんたこそ、どこで何をしていたのよ!? あんたが騎士団の人間なら、なぜ暗殺者を追わずにここにいたの!?」
シグリッドは、可奈の質問を無視し、逆に問い詰める。
「私はこの宿屋を中心に、君の足取りを掴んでいる者の**『情報源』**を調べていた。暗殺者の狙い、逃走ルート、そして黒幕の繋がりだ」
彼は、可奈が手に持つピンに視線を戻した。
「それは、リセフィア帝国に関わる高位貴族が放った暗殺者が持っていたものだ。私が今、確認してきた情報とも一致する」
可奈は驚愕した。「情報収集を、もう……?」
「ああ。君を追うことで、この事件の真の糸口が見えてきた。君は、王国の高位貴族とリセフィア帝国が結託した暗殺計画の、目撃者であり、**『邪魔な変数』**だ」
シグリッドは、可奈の逃亡劇が、単なる王太子の暗殺容疑事件ではないことを明確に告げた。
「君はもう、ただの逃亡者ではない。真実を追う、私と同じ**『敵』**となった。次の追手は、君が港湾都市アルスタームや国境のヴァルハイト方面へ逃げたと読むだろう」
彼は周囲の闇を確認し、声を落とした。
「私の調べでは、黒幕は君が獣人が集う街・オルバインへ向かう可能性をほとんど考慮していない。追跡から逃れるには、最も予想外の場所へ行くべきだ」
「獣人が集う街、オルバイン……」可奈はシグリッドの言葉に驚きを隠せない。
「計画は変更だ。共にオルバインへ向かう。今からだ。オルバインは多種多様な獣人が集うため、異邦人の君の容貌も目立ちにくい」
「一緒にって、どうやって? 夫婦設定はさすがに無理があるでしょう」
シグリッドは懐から銀貨の束を取り出し、可奈の手に押し付けた。
「道中の費用だ。君は体力には問題ないようだが、その服装では目立ちすぎる。私が情報収集で確保した部屋へ戻れ。私はここで甲冑を回収し、変装用の衣装を調達する」
そして、彼は可奈の純粋な黒髪と異邦人の容貌を改めて見つめ、提案した。
「君は私の**『妹』**として振る舞え。貧しい旅の商人の兄妹。怪我をした妹を連れて、珍しい獣人の特産品を仕入れにオルバインへ向かう。これが、君の容貌と私の警戒心を最も矛盾なく説明できる設定だ」
「妹……か。冷血漢の兄貴、ね」可奈は、夫婦よりはマシだと、渋々受け入れた。
「いいだろう。君の目的は冤罪を晴らすこと。私の目的は王国の内通者を炙り出すこと。オルバインは、リセフィア帝国と友好関係にある獣人国家のすぐそばだ。情報収集の拠点としても使える。これが、君の生存確率を最も高める**『共闘』**の形だ」
シグリッドは可奈を急かすように促した。
「急げ。日の出と共に、オルバイン行きの馬車に乗り込む。私は後から追いつく。先に宿屋の裏口へ戻り、私が確保した部屋で待機しろ。決して外に出るな」
可奈は銀貨を強く握りしめ、シグリッドの指示通り、夜の闇に紛れて宿屋へと戻っていった。




