19.潜入その2
その日の午後、シグリッドは「商売」に出る、とだけ告げて部屋を出た。彼の目的は、内通者に関する更なる情報を探ることだった。
シグリッドが向かったのは、帝都の地下深くに張り巡らされた、情報網の一端だった。彼は王国の副騎士団長という立場を利用し、帝国にも秘密裏にネットワークを構築していた。これは、王国騎士団の**『本物の悪役令嬢』**に繋がる内通者からの情報を得るための、シグリッド独自の非公式な調査ルートだった。
彼は、酒場や裏通りの賭博場を転々としながら、潜入させている部下たちと密かに接触した。
「内通者の手がかりは掴めたか?」
彼は、顔を寄せた部下に低い声で尋ねた。
部下は、帽子のつばを深く下げて答える。
「はい、副団長。内通者は王城内の最高警備区域の情報を流しました。そして、その情報は、王国の外務大臣を通さず、**『王国の財務を司る、ある高位貴族』**に直接送られた形跡があります。これは、王太子暗殺事件の背後にある、リセフィア公爵家とローゼンガルテ王国の内通者が、ただの共犯関係ではなく、より深い『金銭的繋がり』を持っている可能性を示しています」
シグリッドの冷徹な目に、一瞬の鋭い光が宿った。財務を司る高位貴族。その情報と、可奈がローゼンガルテ王国の王城で目撃した**『本物の悪役令嬢』**の姿。全てのピースが、ゆっくりと繋がろうとしていた。
シグリッドは指示を出した。
「よし。その財務貴族の周辺を徹底的に洗え。だが、手を出すな。その貴族こそが、この暗殺事件の**『本物の悪役令嬢』**が王城内に構築した、血の通ったネットワークの一部だ。奴らを泳がせ、本命を炙り出す」
王国の内通者。その存在は、リセフィア帝国の公爵家と結託し、ローゼンガルテ王国を内側から崩壊させようとしている。そして、その核心にいる人物こそが、可奈が背負う冤罪の元凶であり、この世界の運命を変える鍵となる存在だった。
◇
シグリッドと別れた後、可奈は帝都ダグノスの薄暗い安宿の一室で待機していた。
シグリッドが確保した部屋は、北門から最も離れた貧民街に位置し、窓からは煤に汚れた屋根と、立ち上る煙突の煙しか見えない。
(夫のシグリッドって……)
可奈は、テーブルの上に置かれた小さな革製の箱、**『賢者の遺産』**を見つめながら、内心でため息をついた。
シグリッドとは、王太子暗殺事件の容疑者と追跡者という、最悪の出会いだった。彼は冷徹で、感情の読めない男だが、可奈を捕らえるどころか、自身の危険を冒してまで真実を追おうとしている。
(あの人、不器用よね。本当は冤罪を晴らしたいって思っているくせに、変な理屈ばかり並べて……)
彼に託された「妻」という役割。可奈は、シグリッドの低く囁くような声と、不意に腰に回された手の温度を思い出し、わずかに頬を染めた。それは役柄のための演技だと分かっていても、可奈の心臓は妙に速く鼓動した。
その時、可奈のプロの勘が、部屋の外で張り詰める異様な**「気」**を捉えた。
王国の騎士団とは違う。リセフィア公爵家の追っ手とも違う、より静かで、闇に溶け込もうとする、暗殺者の気配だ。
(来た……!)
可奈は、即座に『賢者の遺産』の箱を、着替えの入った麻袋の底に隠した。捻挫した足首はまだ完治していないが、アドレナリンが痛みを麻痺させる。
彼女は音を立てずにドアから離れ、壁に背中を預けた。
バリンッ!!
次の瞬間、窓ガラスが砕け散る轟音と共に、一人の影が部屋に飛び込んできた。
男は、全身を黒い革で覆い、顔には何も感情を浮かべていない。その手には、魔法の光を帯びた、漆黒の短刀が握られていた。
「ハァッ!」
可奈は、その短刀の光が壁に反射する一瞬の遅れを突いて、部屋の隅にある木製の椅子を男めがけて蹴り飛ばした。
椅子は男の胴体を打ち、時間稼ぎをする。男は椅子を両断したが、可奈はその間に体勢を立て直し、総合格闘技の低い構えを取った。
「誰の差し金よ!?」
可奈の問いに、暗殺者は無言で応えた。
ヒュンッ!
男は、初速から最高速に達する驚異的なスピードで、可奈の心臓目掛けて短剣を突き出した。暗殺者が繰り出すのは、一切の無駄を排した、純粋な**「殺しの技術」**。
可奈は、紙一重でそれを避けた。短剣の切っ先が、可奈の頬を掠め、熱い痛みが走る。
(速い! 動きが直線的で、読みにくい!)
男は可奈の回避を予期していたかのように、短剣を突き出したまま、右足を大きく踏み込み、可奈の喉元目掛けて魔力強化された蹴りを放ってきた。
可奈は、それをガードするのではなく、逆に相手の攻撃に合わせた。
「甘いわ!」
彼女は、蹴りの軌道の下に潜り込み、相手の踏み込んだ足を両手でガッチリと掴むと、瞬時に身体を捻り、柔道の刈り込みの要領で相手の体勢を崩した。
ドゴォン!
黒衣の暗殺者は、壁の薄い木造の床に叩きつけられた。宿屋全体が揺れるほどの衝撃音。
しかし、暗殺者はプロだった。
彼は地面に叩きつけられる寸前、片手で短剣を離し、床を叩くのと同時に**「影の短縮」**という初級魔法を発動させた。彼の体が、まるで黒いインクのように床に滲み、次の瞬間、可奈の真後ろの壁から影となって現れた。
「死角を……作り出す!?」
可奈が振り返る暇もなく、短剣が再び可奈の首筋目掛けて振り下ろされる。
ガキンッ!
可奈は、咄嗟に近くに転がっていた、重い陶器の洗面台を掴み、盾にした。短剣は洗面台を叩き割り、その破片が部屋中に飛び散る。
(魔法と体術の合わせ技!? 普通の騎士じゃないわね!)
可奈は、洗面台の破片を手に持ったまま、暗殺者との距離を詰める。
「あなたの戦い方は、私が過去に戦ったどの相手よりも陰湿よ。そこが気に入らないわ!」
可奈は、暗殺者が次に影に潜る隙を与えないよう、渾身の力を込めたダブルフックを、男の胸板目掛けて叩き込んだ。総合格闘技で培った、プロ級の一撃だ。
ベキッ!
硬い胸骨が砕けるような鈍い音が響き、暗殺者は大きく吹き飛ばされ、部屋の隅の壁を背中に受けた。だが、彼はすぐに息を吹き返し、壁を伝いながら立ち上がる。
「……流石に、エルミラ様が懸賞金をかけただけのことはあるな。だが、お前の抵抗も、ここまでだ」
男は、息切れ一つせず、左手に持っていた短剣を床に落とす。そして、両手を広げた。その両掌から、黒い霧のような魔力が噴き出し始めた。
「私は暗殺者である前に、魔術師だ。この部屋ごと、お前を消し去る!」
可奈は、男の魔力の増大を感じ、背筋が凍り付く。この部屋全体が、暗殺者の魔法によって破壊される。
逃げ場はない。
(やるしかない……! 部屋が壊される前に、私があいつを壊す!)
可奈は、決死の覚悟で、暗殺者に向かってまっすぐ突進した。彼女の狙いは、魔術の発動を妨害すること、そして――




