17.リセフィア帝国への潜入と変装
「しっかり捕まっていろ。振動で怪我が開くぞ」
麓まで下りてからシグリッドの愛馬「ノクターン」に乗せてもらった可奈は、彼に言われるまま、黒い甲冑にしがみついた。背後から伝わる体温は、甲冑越しでほとんど感じられないが、その存在は可奈に得も言われぬ安堵感を与えた。数日間の緊張と疲労が、一気に押し寄せてくる。
「行き先はリセフィア帝国、国境沿いの都市**『ダグノス』**だ。そこで新たな手がかりを追う」
シグリッドの低い声を聞きながら、可奈は目を閉じた。彼の抱擁は、鉄のように硬く、しかし温かく、可奈は追われる日々の中で初めて安全を感じた。
(もう少しだけ……)
可奈は、馬の規則的な蹄の音と、シグリッドの微かな呼吸音に身を委ね、深い眠りに落ちていった。闇色の甲冑の騎士に抱えられ、彼女は真実が待つリセフィア帝国へと旅立つのだった。
◇
――翌朝。リセフィア帝国国境、ダグノス郊外。
夜通し駆け抜けたノクターンは、国境の主要な検問所から数キロ離れた、人気のない林の中で静かに足を止めた。可奈は馬の揺れが止まったことで目を覚ます。
彼女は、自分がまだシグリッドの腕の中にいることに気づき、わずかに頬を染めたが、それ以上に、眼前に広がる光景に息を呑んだ。
可奈がいたヴァルハイト王国とは異なる、鮮やかで力強い建築様式。石造りの家々は、より装飾的で、塔や尖塔が多く、空の色もどこか濃い。ここが、王太子暗殺事件の真犯人が逃げ込んだ国、リセフィア帝国だった。
シグリッドは、可奈の目覚めを静かに確認すると、低い声で言った。
「ダグノスは目前だ。だが、この甲冑姿では目立ちすぎる。潜入させた部下と合流する」
彼は可奈をそっと地面に降ろした。捻挫した足はまだ痛むが、長時間抱えられていたおかげで、疲労はかなり回復していた。
待つこと数分。林の奥から、一人の小柄な男が姿を現した。男は平民が着るような地味な上着をまとい、顔には髭を生やした変装をしているが、シグリッドを見ると即座に恭しく一礼した。
「副騎士団長殿、お待ちしておりました」
「ご苦労。予定通り、甲冑を回収し、変装用の衣服を用意しろ」
シグリッドのその**「予定通り」**という一言に、可奈は内心で戦慄を覚えた。
(予定通り? つまり、シグリッドは私が彼の提案を受け入れ、この抜け道を通って帝国側に逃亡するところまで全て見越していたということ……?)
可奈を追うふりをしながらも、実は王国側の追跡隊や公爵家の動き、さらには裏社会の情報までも掌握し、同時に帝国内に部下を潜入させて待機させていた。この男は、ただの剣の達人ではない。恐ろしく頭の切れる、計算し尽くされた知略家なのだ。可奈の冷や汗が背筋を伝った。シグリッドの行動は感情ではなく、常に勝つための論理と戦略に基づいていた。
シグリッドは、無駄な動き一つなく、重い黒甲冑を一つ一つ脱ぎ始めた。分厚い装甲の下から現れたのは、淡い金髪と、透き通るような白い肌、そして、甲冑に劣らぬ厚みと引き締まりを持った強靭な体躯だった。可奈は、改めて彼の容姿の美しさと、冷徹な騎士のイメージとのギャップに驚かされた。
「私は商人を装う。君は私の病弱な妹だ」
シグリッドがそう告げると、男は用意していたシンプルな旅商人風の衣服と、可奈には地味な麻のワンピースを差し出した。シグリッドが着替えている間、可奈は木の陰で急いで着替え、同時にシグリッドが施した包帯を締め直した。
黒騎士のシグリッドから、一転して**『金髪の冷静な旅商人』**へと変貌した彼の姿は、まるで別人のようだった。甲冑の威圧感が消え、代わりに知的で落ち着いた雰囲気が漂っている。
「君の身元は、追跡者の注意を逸らすために、私の妹として扱う。足の怪我は、旅の途中で馬車から落ちたことにしておけ」
「わ、分かりました……シグリッドさん」
可奈がそう呼ぶと、シグリッドは一瞬眉をひそめた。
「潜入中は、その呼び方は避けろ。外では**『旦那様』か『兄上』**だ」
可奈は慌てて口を噤んだ。シグリッドはそのままノクターンと甲冑を密偵に預け、彼に秘密の指令を与えた後、可奈の肩にそっと手を添えた。
「では、行くぞ。この国で真犯人を見つけ、王国の汚名をそそぐ。それが、我々の共通の目的だ」
二人は、周囲の景色に溶け込むような旅人となり、警戒の目を光らせながら、リセフィア帝国の国境都市ダグノスへと潜入を開始した。彼らの背後には、荒涼とした鉄の山脈と、王国騎士団の過去の追跡劇が置き去りにされていた。




