12.託された荷物と山登り
翌朝、夜明け前のアルスターム。可奈はイアンに指定された、都市の北門近くにある古びた倉庫に向かった。夜明けと共に門が開けば、多くの商人たちがヴァルハイト方面、すなわち『鉄の山脈』方面へ向かうため、人混みに紛れやすい。
イアンは、倉庫の陰で可奈を待っていた。彼の手には、一見して何の変哲もない、革製の小さな箱 が握られている。大きさは、可奈が両手で抱えられる程度だ。
「荷物というのは、これですかい?」可奈は尋ねた。
「ああ。これだ。『賢者の遺産』と言われているが、中身は知らん。そして、知ろうとするな。これを開けようとすれば、この箱そのものが爆発する仕掛けになっている。私はただ、これをヴァルハイトの**『星見台』にいる、『ロザリンド』**という名の隠者に届けてくれと頼まれただけだ」
イアンは、箱を可奈に渡しながら、鋭い目で忠告した。
「報酬は、ロザリンドに渡し終えた時に、そこで手に入る。その報酬で、お前さんの金欠は解消されるだろう。何より、この箱はお前さんの身を護る盾になるかもしれない」
「盾?」
「いいか、この箱は、リセフィアの公爵家も、王国の騎士団も、どちらも**『喉から手が出るほど欲しがっている』**ものらしい。この箱を持っている限り、彼らはお前さんを生かして捕らえようとする。それは、お前さんの身の潔白を証明する時間稼ぎになるはずだ」
可奈は、その小さな箱の重さを感じた。物理的な重さではなく、その背負うことになる運命の重さを。この箱は、彼女の命綱であり、同時に最大の標的にもなるということだ。
「わかりました。必ず、ロザリンドさんに届けます。命懸けの運び屋、引き受けたわ」
可奈は荷物を受け取り、イアンに感謝の意を伝えると、すぐに北門の混雑に紛れ込んだ。
北門から出る道は、ヴァルハイトへ向かう商人や、鉄鉱石を運ぶ荷馬車で溢れていた。可奈はフードを深く被り、地味な衣服を着込み、普通の旅人を装う。
(シグリッドは、私が『ヴァルハイト』へ向かったと知ったら、すぐに追ってくるはず。あの人の能力なら、追いつかれるのは時間の問題だわ)
可奈は、ただ馬車に乗るだけでは追いつかれると判断した。彼女の強みは、総合格闘技で培った体力と、予期せぬ行動力だ。
可奈は、ヴァルハイト行きの大きな馬車には乗らず、その馬車隊の最後尾に付いている、小さな山菜売りの行商人の馬車に、銅貨数枚を渡して便乗させてもらった。
行商人の馬車は足が遅く、大通りを進むため、目立つ。しかし、可奈の真の目的は、馬車に乗ること自体ではなかった。
――出発から二時間後、人目につかない山道の分岐点。
可奈は、行商人にお礼を言い、馬車を降りた。そこは、主要な街道から外れた、ほとんど獣道に近い山道だった。
(シグリッドは、私が最短距離でヴァルハイトに向かったと見て、最速の馬やワイバーンで街道を追ってくるはず。私の体力なら、この獣道を通って遠回りしても、馬車と大差ない時間に到着できるはずよ)
可奈は、イアンから渡された地図と、ヴァルハイト周辺の地形図を照らし合わせた。主要な街道よりも危険だが、衛兵も、そして追跡者も来ないルートだ。
彼女は、革製の箱をしっかりと抱え、ストールで隠しながら、人跡未踏に近い山道へ足を踏み入れた。
道中、可奈は魔物との遭遇を警戒し続けた。薪もない山道で、彼女の武器はただ一つ――彼女自身の体だけだ。
可奈は、木の枝や石を手に持ち、時に跳び、時に駆け、体力の限界に挑むように山を登り続けた。
そして、その日の夕方。山道の開けた場所で、可奈は遠くの主要街道を見た。
街道を、一人の騎馬の騎士が、猛スピードで駆け抜けていく。
それは、全身に薄い金属鎧を纏った、体格の良い騎士。その金色の髪が、夕日にきらめいていた。シグリッドだ。彼は、可奈の予想通り、最速で街道を進んでいた。
(しめた! 私が馬車に乗っていたら、今頃追いつかれてたわね!)
可奈は、シグリッドの姿が地平線の向こうに消えるのを確認し、安堵の息を漏らした。シグリッドが街道を追っている間に、可奈は山道から主要街道に戻り、残りの距離を一気に進むことにした。
可奈の格闘家としての身体能力と、故郷で培った機転は、異世界での逃亡劇において、魔法や剣にも勝る唯一無二の武器となっていた。
ヴァルハイトは、もうすぐそこだ。その街には、王太子暗殺事件の真相、そして、イアンの荷物を狙う真犯人、リセフィア帝国の影が待ち受けている。




