75話 『束の間のこと』
「あ゛ー面倒臭いい」
聖堂騎士団付属宿舎のある一室で、リュミエラが山積みにされた分厚い本と向き合っている。
壁と床には耐熱シートが何重にも張られており、ただでさえ窓が小さく無骨なワンケーの住居は工事現場さながらの殺風景だ。
偽りの聖女のおかげで不要とはいえ、灯りすらも無い徹底振り。
彼女自身と装備類を除けば、飾り気があるものは本ぐらいしか残っていない。
「総合改正の変更点メモ終了と……んん……合計二百四十っがああああ!」
解説や判例を含めると合計二千ページにもなる“魔物個体数の適正化及び危険区域管理に関連する法律”が、床に叩き付けられた。
リュミエラは極めて不機嫌だった。
ちらりと文机の端に目をやると、“決闘の作法”“クリスタル資源保護法”“密猟者を素早く発見”“三年で上級水晶集めを目指す”“乗用魔物調教大型Ⅱ種”“図解でわかる! 四十八種のクリスタル摘出及び高速解体”“ハンターズ・タックス”“チョコからバターを”“五十五年度で必ず合格”等々、学習意欲を煽ったり削ったり忙しい様々なタイトルが踊っている。
いずれも緊急に要点をまとめるか、思い出すか、覚えなければならない。
二年半以上に渡って休眠していた彼女は、戦時中など関係ないとばかりに各種資格の更新手続きを必死に行い始めた。
なかでも上級水晶集めに関しては、空白期間のせいで課された各種の講習と法改正が重なり悪夢じみた労力だ。
だが保留しておくのも、ジャックミノーやバスチアン、あるいは父ロドリグといった各種のコネを使うのもプライドが許さない。
彼女は利用できるものはする方だが、水晶集め免許はその枠外にあるものの一つだった。
……というわけで、彼女は休眠の件を別としても色々あって退去した貸家にかわり、新たにルクスでの拠点となった聖堂騎士団宿舎に少し前から引き篭もっているのだ。
工作部や協会の知り合いどころか、サンカントすらも部屋に入れないあたり、この件に関する彼女の妥協のなさを端的に表す。
夜が更けてゆく。
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後日、ルクス庁舎クリスタル管理部、水晶集め協会窓口にて。
「講習と実技試験終了につきリュミエラ・ド・サン=ウラガン様の上級水晶集め復帰更新は認可されました。
詳細は後日住所に送付……あら、ルクス第三区一番七号聖堂騎士団工作部?」
「合ってます。不在可能性がある宿舎に配達されるより確実なので。かといって本籍に送られても困りますし」
「失礼しました。お疲れ様です」
「はい」
いくつかの書類を鞄に突っ込み、真新しいタグを竜牙剣の持ち手に巻き付けたリュミエラはルクス庁舎を後にした。
都会の空気とシュバルドの結界の相乗効果で濁った空から、不機嫌な陽光が漏れている。
とはいえ陽光であることには変わりなく、晴れているだけましというものだ。
(終了時間不明のため断ったにもかかわらず)必ず迎えに来るらしいサンカントを待つ間、リュミエラは右手だけを赤黒いフードローブの隙間から出してパワーソースを集めつつ、思いをめぐらせていた。
「どう、リュミエラさん」
実時間で、どのくらい経ったろうか?
気づけば日が傾き始めており、すぐ横にサンカントが居た。
よほど集中力が散漫になっていたらしい。勉強疲れと気の緩みがあるとはいえ、戦士として褒められたものではない。
まあ、今は良い。今ぐらいは。
街道だというのに臆面もなく抱きついてくる怪人少年を適当にいなしつつ、リュミエラは笑った。
「うわいつの間に、ん、来てくれてあんがと。え? 通ったに決まってるでしょ、そのために一人で篭ってたんだし」
「へへへ、良かったな! んで、どんな試験だった?」
「免許取得試験じゃなく更新の講習と、実技や法改正の確認だから聞いても無意味よ?
まーめんどくさいとだけ、っと、ああ、上級受ける気になったんなら、もちろん推薦したげるけどね」
「そっか、お疲れ様だぜ。
上級はまだ俺はいいや、ベルトランの件が片付いたら考える」
「あたしが思うに、“サンキエム”にやらせりゃ知識と面接、一発で通るんじゃない。
サンカントは実技なら余裕で上級あると思うし、外見の審査員受けも悪くなさそうだもん。
ちょっと詐欺っぽい気もするけど、まあさ、明白な不正とか他人のコネとかってこともなし」
実体を持たぬサンカントの姉で、強力な魂魄寄生体の“サンキエム”は、映像記録装置さながらの異様な記憶能力と、サンカントの神経系に侵食してマルチタスクや極端な高速演算を行う能力を持つ。
記憶領域と演算装置が外付けされているようなものであり、単純に知識や計算の引き出しが求められる状況では天才的な能力を発揮する。
「それなー」
「どったの」
「リュミエラさんが寝てる間に上級やって起きた時びっくりさせようと思ったんだけど、姉ちゃん、そういうのは認めないんだってさ。
俺が説得できるわけねえし、流石に専門課程を受講する余裕はなかったから諦めた」
「変態のくせに妙なとこ真面目ねあいつ、どういう基準なんだろ。
あたし個人としては、あんたの頭とあんたの魂魄を操作して出すパフォーマンスだし、あんた自身の能力に含めていいと思うけど」
「俺に言われても、ぐ、『ダメですよ、私は弟を甘やかさない主義です』ぐわ、ゲッホ、うぬぬ、だって、いてえ!」
「うわごめんサンカント……あーあ」
起きてこっそり話を聞いていたらしい“サンキエム”が突然表出し、釘を刺す。
リュミエラは顔をしかめて“サンキエム”の額を小突こうとしたが、手が動くより早く意識がサンカントに戻る。早業!
溜め息をハーモニーさせた二人は、諦めて歩き始めた。
どろりと紫がかった夕日が首都ルクスの無機的な町並みを不吉に染めている。
人通りの多い市場や大通りも、二人がルクスに来た頃と比較するとやはり活気がない。戦時中だからだ。
今のところ食糧やインフラに大きな問題は出ておらず、嗜好品(具体的には、リュミエラの愛する樹脂葉巻)も手に入る。
だが、ルクスコリ共和国全体が少しずつ疲弊している(無論、敵国シュバルドも同様であろう)事は確かで、北部や海岸沿い、国境周辺などでは無くなったり破滅へ向かっている街も少なくはない。
ファルギ村も決して無事平穏とはいえないし、また風の噂では、港町モーリスのスラム街が倍以上に拡大しているそうだ。
泡立つ琥珀色の酒と大きな赤い虫が美味いあの店は無事だろうか。かの中年悪魔は?
旅行でもしない限り、戦場でもない遠方の情報が得られるのは、プロパガンダが多分に混ざったニュースと人づての噂がほとんどだ。
最新型の通信機で故郷と連絡を取ることのできるリュミエラ達は、だいぶ恵まれた方といえよう。
しかし……
「ふぁぁ、憂鬱んなる」
「ならねえ方、が、おかしいぜ」
樹脂葉巻の甘くスパイシーな煙がリュミエラの口から漏れ、浄化装置へと吸い込まれてゆく。
サンカントはサンカントで、無気力に干し魚を齧っていた。四本目の瓶入り安酒が空だ。
ルクス大市場で必要な買い物を終えた二人は、フードコートの喫煙コーナーでくだを巻いている。
少し前まではリュミエラの快気と上級免許更新祝いを兼ねて途中参加したバスチアンと、名前を忘れたバスチアンの友人が居たが、既に帰宅してしまった。
日が暮れて、照明が落ちたためだ。
特に美しくもない都会の夜空に小さな星が煌く。
開戦からずいぶん時が過ぎた今も、無意味な灯火管制は慣例として続けられているのだ。
二人がいまだに留まっているのは、一つは光源を必要としない瞳の持ち主であること。
そして、もう一つはリュミエラの上級水晶集め免許更新が終わったため、宿舎に戻っても自主訓練か、あるいは単に二人で過ごすかぐらいしかやることがないからだ。
いや、朝から暇であっても、水晶集め協会の首都内警備を手伝うか、マリエットに代わって非番の工作部隊員を鍛える程度だろう。
戦線の拡大とエリクやマリエットに加えて、二人のしもべであり足であるクロマクの多忙により、できることは随分と減ってしまった。
正規聖堂騎士でないものの、工作部の重要な待機戦力としてカウントされている二人は現状首都から出るにも許可が要る。
かといってベルトランに関する情報が最も集まるのが工作部である以上、“勇者”エリクの指揮下から抜ける意味はまったくない。
というわけで、ドラマチックに休眠から覚めたリュミエラも、着実に戦士としての能力を高めているサンカントも、復讐が達成される見通しも立たない不穏だが平坦な日常を淡々と過ごしているのだった。
今回行った各種免許更新手続きの迅速さにも、その表現しがたい焦燥の影響が多分に含まれる。
リュミエラはサンカントに許可を取り、三本目の樹脂葉巻に着火した。
辺りはいつの間にか、静かだ。
「うは……ぁ……そろそろ帰って寝るー?」
「おー、寮長さんも心配、心配はして、るわけねーな……」
「肩貸して、かたー」
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向けられたポンプ式のシャワーからサアサアと噴き出す熱い迸りが、幾筋かの古傷に彩られた白い肌と真紅の鱗を伝い落ちる。
一般的な基準より僅かに狭い浴槽は、流された泡立つお湯と二人分の質量により六割ほど埋まっていた。
町外れの古い貸家から聖堂騎士団宿舎に移ってもっとも進化したのは、間違いなく利便性だろう。
単に工作部や水晶集め協会斡旋所に近いだけではない。
キッチンはリュミエラでなくとも炎を出さず調理が可能で、浴室も沸かす必要なしに使える。
体質上、常人の何倍も破損に気をつける必要はあるが、差し引いても快適であった。
「はー……もういいかな、うっし、あんたの番」
「おう、お、おお!? 目に、目……」
身体を軽く拭って浴槽の縁に腰掛けたリュミエラは、サンカントに壁のほうを向かせると太い質感が特徴的な逆立つ髪にシャボンをぶちまけ、左手の指を絡めた。
ぐにゃりとしなった艶のある黒い毛から、水滴と合成アルデハイドの香りが飛び散る。
顔に泡がかかった怪人少年は一瞬だけもがこうとしたが、湯よりも熱い白魚の指の誘惑と、鎖骨に食い込まんと迫る危険な鉤爪の相乗効果に負け、すぐにおとなしくなった。
身を任せるに際しての適度な抵抗は互いの興奮材料として優秀だが、単に汚れを洗い落とすのが目的の今は不要。
「相変わらず泡が立ちやすい髪」
「いっつも思うんだけど、髪なんか褒められてもよ」
「貶されるよりは良いじゃない。どう、気持ち良い?」
「我慢がいるぐらい」
髪を使って泡立てたシャボンを、小柄ながらに逞しい首から肩、そして腕へと塗り広げてゆく。
鋼のように硬く、鋼のように滑らかで、鋼のように冷たく浅黒い肌と肉が実に愛しい。
飢餓じみた想いも、漠然とした不安感も、互いの温度を感じている間だけは意識せずに済む。
実際、リュミエラが目覚めて以降、失われた時間を取り戻すための触れ合いには可能な限り時間を割いていた。
流石に“勇者”関連の仕事中や、先の免許更新のような日を跨いで集中すべき案件が発生している場合は除くが。
「正直でよろしい、っとな」
「へへ、んでも、姉ちゃんが怖い」
「サンキエムは諦めた。にしても、随分経つのにあんた変わんないわね」
「それは、俺もわかんねえ……っちょ、くすぐんな、やべ、あっ」
二年半以上、いや初対面からなら五年近くの時を経ても、サンカントの身長は全く伸びていないし、逆に肌や筋が劣化してもいない。
それは彼が竈の商人族であることとは全く関係がない。
全身を高度に改造された、強力な怪人だからだ。
彼は彼自身にとっても、リュミエラにとっても今のところは少年のままだった。
これから先老いたり成長したりするのか、あるいは変わらないのか、あるいは突然に寿命がくるのか、それは不明だ。
“サンキエム”なら秘密を知っているかもしれないが、彼女がその手のクリティカルな情報を二人に話すことはほとんどない。
可能性があるとしたら、一刻の猶予を争うほどタイムリミットに余裕がないか、なんらかの理由で再改造を行う場合ぐらいだろう。
少なくとも今は、どうしようもない……そもそも、リュミエラ自身も“大牙”の持っていたミームを引き継いだ事による多少の問題を抱えているのだ。
シンパシーを感じこそすれ、解決策など思いつきようがなかった。
「んー、やっぱりベルトランの件を終わらせてから、ゆっくり考えるしかないかな」
「げっほ、泡の味が、うん、そだな、後でいい」
一通り身体を洗い終えた二人は、もう少しだけの癒しとよりいっそうの高まりを求め、泡だらけの浴槽に漬かり直した。
ちょっとしたトラウマを受けるに至った事故により、浴室に居るあいだはどうにか自制が効く。
もっとも、至近で触れていて永久に我慢できるわけもないし、その必要もない。
どくんどくんどくん、シャボンで白くぬめり泡立つお湯を媒介に、脈動と、重みと、肉と、心と。
安らかで苦しく、待ち遠しくて心地よい時間が、限界に向かってゆっくりと流れてゆく。




