05
静かな部屋の中、レオくんの腕の中にすっぽりと抱えられながら移動してきた私は、そのまま彼に優しく頭を撫でられていた。
トントン、ポンポンと、まるで子供をあやすような温かい手つき。
その心地よさに、私はすっかり彼の胸元で骨抜きになっていた。
けれど、先ほどの騒動の興奮とアドレナリンが冷めていくにつれ、胸の中に溜まっていたどっと重い疲労感と、未来への底知れない不安が押し寄せてくる。
「うぅ……レオ様……。」
私は彼の地味な上着の裾をぎゅっと掴んでいたが、だんだんとこの状況が恥ずかしいのではと気づいてきた。
「……あの。」
「うん?」
「そろそろ降ろしていただいても……。」
「嫌だ。」
「即答ですの!?」
食い気味に返され、私は思わず目を丸くした。
だが彼は私を抱かかえたまま離そうとせず、大きな手で私の頭をゆっくりと撫で続ける。
まるで泣き疲れた子供をあやすような、ひどく優しい手つきだった。
「……なんで撫でるんですの。」
「嫌?」
「……嫌では、ありませんけれど。」
「じゃあ、このままでいよう。」
断固として譲らない彼のぬくもりに甘えるように、私は小さく息を吐き出した。
そして、ぽつり、ぽつりと、心の奥に溜め込んでいた本音が口から溢れ出してきてしまう。
「私、難しい立場とか高貴な地位とか、本当に無理なんです。重い責任とか一切取りたくない……。もっと普通に……ちょっと忙しなく自由に生きていきたいだけなんです。王妃になりたくないから、王子との婚約を全力で回避したいだけなのに……っ!」
溢れ出す弱音を止められず、私は彼の胸に額を押し当てた。
「でもね、本当に……本当にレオ様のことが好きになったんです! 格好つける必要もなくて、一緒にいて落ち着く……心の底から貴方と結婚がしたいんです! 例えば……そう、貴方となら平民に落とされても、どこだって平穏に暮らしたい……!」
胸の奥で、前世の記憶が鮮明に蘇っていた。
終電間際のガタゴトと揺れる電車の中、吊り革に掴まりながら『私、何のために生きてるんやろ……』と何度思ったことか。
休日になってもスマートフォンの仕事通知が頭から離れない。
泥のように寝ても疲れなんてちっとも取れない。
何か楽しいことをしようとしても、頭の片隅で『明日の仕事、大丈夫かな』が常にチラつく。
そんな、ただ削られていくだけの毎日だった。
だからこそ。
今度こそ。
自分の人生は、自分の好きなように生きたい。
誰かの期待に応えるためだけに生きるなんて、もう絶対に嫌だったのだ。
前世の社畜時代にすり減った精神と、今世のポンコツ本能が混ざり合った切実な告白。
これまでの交流を重ねる中で、セレスティアはレオに対して少しずつ心を開いていく。
最初は、「王子じゃないなら誰でもいい」という逃避から始まった関係だった。
しかし、実際に付き合ってみると、レオは自分が失敗しても笑わず、変な言動をしても受け止めてくれる。
完璧な侯爵令嬢を演じなくてもいい。
セレスティアは、「この人と一緒なら、もしかして平民になっても楽しく暮らせるかも」と思い始めていた。
弱音を吐き散らかす私を抱かえたまま、レオ様はふっと動きを止めた。
そして――眼鏡の奥の瞳をすっと細め、これまでに見たこともないような、あまりにも甘く満面の笑みを浮かべた。
「セレスティア様は、本当に平民になってもいいんですか?」
「ええ。まあ……最初は色々と大変でしょうけれど。」
「王妃になるより?」
「もちろんですわ。」
「そこは即答なんですね。」
レオは苦笑する。
「もし僕が平民だったとしても?」
「はい。」
「田舎で暮らすことになっても?」
「……情報がないのはちょっと困りますけれど。」
「情報?」
「いえ、なんでもありませんわ。」
レオは笑いながらさらに聞く。
「どこででも、ですか?」
「はい! あなたとならどこででも頑張れます!」
レオが一瞬だけ真顔になる。
「……僕となら、どんな立場でも頑張れるんですね?」
「もちろんです!」
セレスティアは何の疑いもなく断言。ここでレオが満足そうに微笑む。
「……僕となら、どこでも、どんな立場でも頑張れるんですね?」
「レオ様と一緒なら何だって乗り越えられますわ!」
力強く断言した私に、レオくんは満足そうに目を細め、耳元で甘く囁いた。
「では――。」
耳元で、
「王妃になってくれますね。」
「…………は?」
完全に意味が分からない。
「王妃?」
「はい。」
「誰が?」
「君が。」
「誰の?」
「僕の。」
「…………。」
思考が完全にフリーズした。
今、この地味男くんはなんて言った……?
「えっ、あ、え……?」
パチクリと目を瞬かせる私のアゴに、彼の長くて美しい指がすっと添えられる。
レオ様は空いた方の手で、かけていた黒ぶち眼鏡をゆっくりと外した。
そして、ボサボサだった黒髪を手ぐしでぐっとかき上げる。
次の瞬間――そこにいたのは、ぼやけた地味な青年ではなかった。
透き通るような肌、彫刻のように美しく整った鼻筋、そして見る者を気圧すような圧倒的な気品を纏った、息をのむほどの超絶絶世の美男子。
「改めて初めまして、セレスティア嬢。僕が君の避けたかった第一王子、レオナード・アシュフォードです。」
「……は? レオ様……?」
「レオナード・アシュフォードです。」
「……レ、レオナード……?」
「はい。僕が第一王子で、王太子のレオナード・アシュフォードです。」
ニコリと完璧な笑みを浮かべる彼を見て、私の脳内で前世の大阪OLと現世の侯爵令嬢が同時に大爆発を起こした。
「はぁぁぁぁぁぁ!!!!? 騙されたーーーーーーーっ!!!!! 詐欺!! 景品表示法違反やろこんなもんっ!!!!」
静かな部屋に、淑女らしからぬ怒号が全力で響き渡った。
「くそがあっ! 嘘つき! 私が好きなのは地味男くんであって王子じゃない!!」
「わぁ、口が悪いね。」
レオ――いや、王太子レオナードはくすくすと楽しそうに笑う。
反省の色などミジンコほどもない。
「でも言いましたよね?『あなたとならどんな立場でも頑張れる』と。しっかり言質は取りましたよ。僕が王子でも、君は僕と頑張ってくれるんでしょう?」
「あああああああ言いがかり!! 詭弁!! 冤罪!! ノーカン! 今の絶対ノーカンやからな!!」
「詐欺!詐欺やろこんなん!」
「詐欺じゃないよ。」
「完全に詐欺ですわ!!」
「僕は一度も自分から『王子ではない』とは言ってないよ?」
「屁理屈!」
「君が勝手に勘違いしただけじゃないかな。」
「誘導したでしょうが!!」
レオは楽しそう。
セレスティアは、「私が好きなのは地味男のレオ様!」と言い張る。
「僕だよ?」
「違います!」
「同一人物だよ。」
「地味男くんは地味男くんです!」
「じゃあ、眼鏡をかけていれば好きなの?」
「そういう問題じゃありません!」
ここでレオが少し意地悪に尋ねる。
「でも、君は僕に『あなたとなら何でも頑張れる』と言ったよね?」
「それは……!」
「僕が王子でも?」
「…………。」
「王妃でも?」
「…………。」
「僕と一緒なら?」
「…………う。」
逃げ道を塞がれていく。
「セレスティア。」
呼び方も「様」ではなくなる。
「君が本当に嫌なのは、僕じゃないんだろう?」
セレスティアが黙る。
「王子だから嫌なのではなく――王妃になることが怖いんじゃない?」
図星。
セレスティアの顔から笑みが消える。
ここで彼女の本音を吐き出させる。
「だって……失敗したらどうするんですの?」
「失敗?」
「王妃が何か間違えたら、私一人の問題では済まないでしょう?」
「……。」
「私、ポンコツなんです。」
「知ってるよ。」
「そこは否定してくださいませ!」
レオが笑う。
セレスティアは続ける。
「一つの仕事を完璧に終わらせたと思ったら、その裏で三つくらい忘れてるんですの!」
「三つ?」
「五つ!」
「増えたね。」
「とにかく! そんな私が国の未来を背負うなんて無理なんです!」
そして最も恐れているものを口にする。
「……もし私のせいで誰かが傷ついたら?」
ここでレオは優しく言う。
「その責任は僕が取る。」
頭を抱えて暴れる私を、レオナードは逃がさないと言わんばかりに力強く抱き留め、至近距離でその整いすぎた顔を覗き込んできた。
「君が本当に嫌なのは、責任を取ることだろう? 君には王妃としての頭の回転も実力もある。……責任は全て僕が請け負うよ。だから安心して、自由に王妃になればいい。」
「そんなの騙されるかっ! もし私がやらかしたら処刑とか毒杯とかされるんだぁ! 無理無理! 私はポンコツ! 絶対にやらかす! 一個出来ても、裏で十個やらかすのが私なんや!!」
「ふふ、増えてるね。一つやったら、五つくらいのやらかしかな。」
レオナードは愛おしそうに私の頬を撫でながら、意地悪く目を細める。
「うーんでも、田舎でのんびり暮らすのも君には合わないだろう? 何か色々してるのは好きだろう?」
「うっ……!」
図星を突くられ、言葉が詰まる。
「う、いろいろな情報は欲しい……。本とかが気軽に手に入れられる立場では居たい……かも……。」
「なら、一回王妃教育を受けてみたら? 案外楽しいかもしれないよ?」
「そんなん一回体験して新しい情報知ったら、抜け出せなくなるやつやんけ! ソーシャルゲームの初回限定無料ガチャみたいな罠に騙されねぇぞ!!」
「そうかなぁ? 王室の極秘ライブラリーには、一般には出回らない古代の異国文化の手記や、大陸中の珍しい物語がたくさん眠っているんだけどな。今のままでは知ることができない、新しい情報のあれやそれやがたくさんあるよ?」
「うぅぅぅぅ……っ!!」
頭の中で「ドパガキの知的好奇心」と「ポンコツの回避本能」が凄まじいデッドヒートを繰り広げる。
王室の極秘ライブラリー……絶対面白に決まってる……! ネットのないこの世界で、最高のドーパミン供給源やないか……!
葛藤の末、私はギリッと歯を食いしばり、レオナードの胸板を指で強く突いた。
「っ……! わ、分かった! 一回! 一回だけ王妃教育『体験入学』やるから!! でも、ほんのちょっとでも『無理!』って思ったら速攻でクーリングオフ申請して家……いえ、平民に逃亡します!!」
「うん、もちろん。クーリングオフの申請先は僕だから、いつでも書類を出してね。(即却下するけれど)」
「なんか今、不穏な心の声聞こえた気がすんのやけど!?」
「気のせいだよ。さあ、いこうか、僕の可愛いセレスティア。」
極上のイケメンスマイルで手を差し伸べられ、私は「騙されてる気がする……絶対騙されてる……」とブツブツ呪文のように呟きながら、その手を取ったのだった。




