03
一方その頃――レオ……王太子レオナードの内部では、静かだが激しい変化が起きていた。
静まり返った執務室。
眼鏡を外し、疲れたように目元を押さえていたレオナードのもとへ、側近の青年が書類を抱えて歩み寄ってきた。
「……お帰りなさいませ、殿下。お召し替えと報告の準備が整っております。」
「ああ、ありがとう。」
レオナードは長椅子に深く背を預け、ふぅと息を吐き出した。
その様子をじっと観察していた側近は、どこか意地悪く眉をひそめて尋ねる。
「それで……いかがでしたか? セレスティア様との『地味男としてのお試しデート』は。」
「……どうだったと思う?」
「さあ……。『高飛車で嫌味な侯爵令嬢に散々な目に遭わされた』とお怒りで戻られるかと思っておりましたが。」
側近は書類を机に置き、じっと主君の顔を覗き込んだ。
「セレスティア様は、王妃として相応しいお方でしたか?」
「うーん……どうだろうね。それはまだ、一概には言えないかな。」
レオナードは曖昧に言葉を濁した。
だが、その口元は隠しきれない笑みでゆるやかに弧を描いている。
「ですが殿下……とても楽しんだように見えますね。」
「え? ……そうかな。」
「ええ。そこら中の令嬢を骨抜きにするいつもの完璧な営業スマイルではなく、心の底から可笑しそうなお顔をされています。」
「……そうだね。」
レオナードは指先で頬を触り、素直に認めざるを得なかった。
「デートは……うん、とても楽しかったよ。想像以上にね。」
にこにこと柔らかな笑みを浮かべながら、レオナードは記憶の奥の彼女の姿を思い出していた。
無防備にタルトを頬張り、口元にクリームをつけていた姿。
そして、カフェで起きたあの予期せぬ出来事を。
(……なんなんだ、あの生き物は。)
社交界での噂では「高飛車で完璧、隙のない冷徹な侯爵令嬢」だったはずだ。
それがどうだ。
自分の前で見せる姿は、エスコートもなしに先に進み、何もない平坦な道で豪快に転び、口いっぱいに食べものを頬張り、喉を詰まらせてむせ返り、『ネットが恋しい』だの『しょーとどうが』だの聞いたこともない謎の言語で文句を言い、コロコロと素直に表情を変える。
さらには、カフェで起きたトラブルの際だ。
他人の高級ドレスについたワインの染みを前に、腕を捲り上げてどこから仕入れたかも分からない科学的かつ効率的な技法でサッと落とし、平然と「おばあちゃんの知恵袋」だと言い切ってみせた。
あの尋常ではない手際の良さと謎の知識量には、流手の自分も内心で呆気にとられてしまった。
(……可愛すぎるだろ。)
完璧な淑女の仮面の下に隠されていたのは、あまりにも愛らしく、あまりにも素直なポンコツさと、底の知れない面白さだった。
そして何より――彼女は「第一王子レオナード」を肩書きや権力ではなく、目の前にいる「地味男のレオ」という自分自身を見て、素顔を晒し、心を許してくれている。
(ダメだ……どうやら、完全に僕の好みらしい。)
胸の奥で、重いギアがカチリと音を立てて完璧に噛み合った。
「殿下? どうかされましたか? 急に黙り込んで……。」
不思議そうに顔を覗き込んでくる側近に向け、レオナードは極上の、けれどどこか恐ろしいほどに執着の籠もった笑みを深めた。
「王妃として相応しいかどうかは、あの様子じゃまだ分からないけれど……。」
彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外――彼女のいる侯爵邸の方角を静かに見つめた。
「絶対に、誰にも渡したくないな。」
「……は?」
「地味男としてでも、何としてでも……。外堀から埋めさせてもらうことにするよ。」
静かな、けれど揺るぎない決意を口にする主君を見て、側近は「うわぁ……」と引きつった顔で後ずさった。
「……セレスティア様が少し気の毒になってきましたよ。」
「なぜだい? 僕は彼女を世界一幸せにするつもりだよ?」
悪びれもせず微笑む王太子の背後で、逃れられない運命の罠が着々と張り巡らされようとしていた。




