2.氷の死神皇子
──終わった。
(──死ぬ!! 相手がじゃなくて、私の社会的な死!!でもこのままだと、ぶつかっちゃう!! なんとかしなければ!)
瞬時に死を悟ったエレノアは、空中で強靭な体幹を極限までねじり上げた。
超人的な軸移動により、男の美顔面への凄まじい膝蹴りをミリ単位で回避。そのまま男の肩をひらりと跳び箱のように踏み越え――
タンッ……!
大理石の床へ、美しい着地──完璧なランディングを決めた。
「……ふぅ、危なっ!」
「……おい」
胸を撫で下ろした瞬間、低く、鼓膜を心地よく震わせるような、だが同時に背筋を凍らせるほどの重圧を孕んだ声が、頭上から降ってきた。
エレノアがハッと顔を上げる。
そこに立っていたのは、夜の闇をそのまま溶かし込んだような濡羽色の黒髪に、すべてを見通すかのような、凍てつく氷河を思わせる鋭い青い瞳を持つ、圧倒的な美貌の青年だった。
彫刻のように整った輪郭、高い鼻梁、そして冷徹極まりない薄い唇。身に纏う漆黒の軍服には、金糸の刺繍と、最高位の勲章が鈍く光っている。
『冷血無慈悲の氷の死神』──大陸全土でそう恐れられている、アルカディア帝国の第一皇子、セドリック・フォン・アルカディアだった。
(げぇっ、噂の死神王子……!? もしかして、私のウルトラハイパー空中回避3回転ジャンプ、ガッツリ見られた!?)
エレノアは内心で冷や汗を滝のように流したが、そこは10年間鍛え上げた猫かぶりスキルである。伊達に「深窓の令嬢(仮)」と呼ばれてはいない。
彼女は瞬時に「悲劇のヒロインモード」へ脳内のギアを限界までシフトチェンジし、みるみるうちに瞳に涙を潤ませ、両手を胸の前で儚げに組んだ。
「失礼いたしました。セドリック殿下。お見苦しい所をお見せしてしまい……。私、先ほど婚約を破棄され、国外追放を言い渡された身でございます……。あまりの悲しみに心が狂おしいほどに取り乱してしまい、足が悲しみのあまり、勝手に天空へと踊り狂ってしまいましたの。うっ、うっ…………」
エレノアの苦し紛れの言い訳に、セドリックはぴくりとも表情を変えない。ただ、その氷河の瞳で、エレノアの全身を品定めするように見下ろしている。
「……足が悲しみで勝手に踊りだすわけないし、さらに空中で俺の頭上を越える軸修正をするわけなかろう。あきらかに身体能力および空中の軸の安定感が、森林で獲物を仕留めにいく側の『肉食獣』のそれだったぞ」
「気のせいでございますわ! 私はか弱い、風が吹けばどこかへ飛んでいってしまう綿毛のようなガラス細工の令嬢ですわ。それでは殿下、ごきげんよう……!」
これ以上追及されてはボロが出ると思い、エレノアはドレスの裾を再びたくし上げると、サラブレッド並みの爆発的なスタートダッシュを決めた。
彼女が走り去った後に空気の残像が突風を起こし、セドリックの黒髪を激しく揺らすほどの速度だった。
◇
嵐のように去っていった少女の残像を、セドリックはただ静かに、冷徹な瞳で見つめていた。
彼の周囲には、常に「人間嫌い」「女嫌い」の絶対不可侵結界が張られている。今日も、数人の高慢な令嬢が彼に声をかけようとして、その冷徹な眼光だけで泣きながら逃げ出したばかりだった。
女という生き物は、例外なく退屈だ。己の欲望を隠し、香水をぷんぷんさせ、中身のない世間話と、嘘の涙で男を操ろうとする。
だが──
(涙の一滴すら浮かんでいなかったな。それどころか、俺の正体を知りながら恐怖に震えることもなく、平然と出鱈目を並べ立て……あのアクロバティックな身体能力。まるで、野生のしなやかな豹だ)
「……ふっ」
ほんのわずか、誰にも気づかれない程度に、セドリックの薄い唇がかすかに緩む。
そして、その瞳に宿ったのは、退屈な世界を引き裂くような、強烈な好奇心と覇気だった。
「おい、ハリス」
「はっ、セドリック殿下。ここに」
影から音もなく現れたのは、セドリックが唯一全幅の信頼を置く側近であり、帝国禁軍の隊長を務めるハリス・フォードであった。
ハリスは主君の雰囲気が、いつもとほんの少しだけ違うことに気づき、密かに眉をひそめた。
「先ほど、あの無能な第二王子に婚約破棄された令嬢について調べろ。それと……」
「それと、と言いますと?」
「我が帝国の……いや、『俺の専属侍女』として、彼女を拉致……ゲホン、丁重にスカウトしてくる手配をしろ……拒否権を与えるな」
「殿下、今、完全に『拉致』って言おうとしましたよね? しかも専属侍女にスカウトですか? 殿下が女性を自ら側に置くなど、天変地異でも起きるのですか……!?」
「うるさいぞ。逃がせば、お前の来期の予算をすべて削る」
「ひっ……! た、直ちに手配いたします!」
ハリスは顔をひきつらせ、漆黒の夜へと消えていった。
◇
セドリックは、手元に残された、彼女が跳躍した際に落としたドレスの小さな飾り真珠を指先で弄びながら低く笑い、夜空を見上げた。
(追放されたか。……ならば、行くあてもなかろう)
氷の仮面の下で、かすかに燃え上がった未知なる好奇心。
「俺の世界を、どこまで退屈させずにいられるか……見ものだな」
◇
──その頃、無事に夜の街へと抜け出し、「よーし! これで念願の自由生活スタートよーっ!」と夜空に向かってガッツポーズを決めていたエレノアは、まだ知る由もなかった。
自分が『世界一関わってはいけない男』の絶対逃げられないターゲットロックオンリスト、その筆頭に躍り出てしまったという事実を──
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