その2
そよぐ風で目を覚ました空の眼下に、泉が広がっていた。
「お目覚めかね?」
声のする方向に顔を向けると、薄笑いを浮かべているメイルと目が合う。
「闘技場といい今回といい、つくづく勇敢な娘だ」
「フローラさんは無事なの!?」
「あの女剣士か? 人のことより自分の身の上を心配したらどうだ」
空のお人好しに、メイルも呆れた口調だ。
「ペンダントがあるんだから、もうトレスに用はないでしょ!!」
メイルが近付いていたので空は尻込みをした。行き場がなくなった空を、腰を屈めて覗きこむ。
「あの一族には借りがあるんだよ。やつはその代償というわけだ」
「……『番人』として?」
意外そうな表情で彼女の小さな顎を掴んだ。
「ほお、詳しいな。あの仏頂面も女には弱いらしい」
手を振り払って睨みつける空に、メイルの高笑いが辺りに木霊する。
「これは『時の泉』だ。全てはここから始まり、今宵ここで終わりにする」
トレスが身を投げて空の世界へと誘った泉を目の前にして、空は息を飲んだ。
光の反射で巡るましく変色する水面は、時空を超える泉に相応しく不安定である。
-トレス、怖かっただろうな……。
空は、当時のトレスの覚悟をこのとき初めて知った。
トレスを逃がしたノーサとフローラはその後、数に敵わず近衛隊に身柄を拘束された。
マリーナとケルカスの前に跪く二人は、項垂れることなく堂々と前を見据えている。
「ラヌギ・ノーサ、お前は賢明な男だと思っていたが」
ケルカスの失望する声がノーサに向けられたが、彼は全く意に介さない。
「私は賢明な選択をしたと思っております」
溜息一つついて、今度は傷だらけのフローラに尋ねた。
「フローラ・エバー、お前はどうだ」
「私はトレスを信じています」
答えになっていないと嘆くケルカスに、マリーナは優しく問いかける。
「あなた方は、トレスが何をしようとしているのか知っているのですか?」
二人は顔を見合った。
「知らずに彼に加勢しようとしたのですか?」
「トレスは間違ったことはしません。仏頂面で口は悪いけど実直な剣士です」
こういう状況下で自分の想いを述べるフローラに、ノーサも感服して後に続く。
「時がきたら打ち明けてくれると約束してくれました。約束は必ず守る者だと、陛下が一番ご存知の筈です」
その一言にマリーナは、心臓を貫かれる衝撃を受けた。
トレスは近衛隊で仕えている頃から、マリーナとの約束は必ず果たしてきた。多忙にも関わらず、ささやかな公私混同にも応えてくれた。自分の為に命を捧げるとも言ってくれた。
そして、今もメイルの脅威からオバジーンを救わんと単身で立ち向かっていったのだ。
-彼を信じていなかったのは、私だけだというの……?
信じていると言っておいて、実際にはそうでなかった自分に嫌悪する。
「……二人を釈放しなさい」
「陛下!!」
慌てるケルカスを制して、マリーナが毅然と命令した。
「直ちにティエラ・トレスの援護に行きなさい。死なせてはなりません。生きて罪を償ってもらうまでは……」
不意に言葉が途絶えたので三人はマリーナを見ると、透き通る白い肌に一筋の涙が流れていた。
「お願い……、トレスを……、ソラを助けて……」
決して公人が口にしてはならない台詞をマリーナは囁く。静まり返った場で皆の耳にしっかりと届いたが、誰も咎めなかった。
「この命に代えましても、二人を陛下の前に連れてきます」
ケルカスが敬礼するとノーサ、フローラも倣って足早に城下へ向かった。
日が暮れて天が闇に包まれ始めた頃、妖しく光る『時の泉』に空とメイルは立っていた。
「来たな」
と、メイルが呟いて間もなく馬に乗ったトレスが現れた。
紫紺のロングコートを靡かせてこちらを睨む光景は、相変わらず格好いいと空の胸はときめく。
「娘、石を渡せ」
見下ろすメイルに、空は首を横に振った。
-これを渡したらトレスが死んじゃう!!
空の首から、強引にペンダントを奪おうとするメイルと、もみ合いになる寸前でトレスが叫んだ。
「空、石を渡すんだ!!」
空の動きが止まり、今一度トレスを見ると彼が頷く。
仕方なく外したペンダントを、手荒く受け取ったメイルがトレスに投げつけた。
「お前が持っていなくては、意味がないからな」
馬から降りたトレスがそれを拾って首に掛けるのを確認すると、メイルは忍ばせていた短剣を空に振り下ろす。
「きゃあぁ!!」
悲鳴を上げた空は思わず目を瞑った。耳を劈く金属音にゆっくり目を開けると、そこには紫紺の背中が立ちはだかってくれた。
「トレス!!」
二人の間に素早く身を割り込ませたトレスの剣が、メイルの短剣を受け止めたのだ。
トレスは力任せに短剣を跳ねのけると横蹴りでメイルを泉の際まで吹っ飛ばした。
地面にうつ伏せたメイルがゆっくり立ち上がると、悪魔が乗り移った形相へと変わっている。
ぶつぶつと呟いているがその内容は聞こえず対峙していると、次第にその声が大きくなってきた。
「紫紺のコート、藍色の髪……。こうも似てくるものだな」
「なんのことだ」
「私の両親は、お前の父親に殺されたんだよ」
「な……んだって」
父ライラックも剣士だった。任務なら人を殺める場合もあり得るが、メイルの両親を手に掛けたとあっては動揺が押し寄せる。
その感情の乱れを狙いすまして、メイルの反撃が始まった。右手を振り下ろすと、いつの間にか剣が握られていた。黒い炎を纏い、風を切りトレスの胸元を抉る。
体を反転させて間一髪で交わしたトレスが、身を屈めてメイルの足をなぎ払った。地面に激突するかと思われたが、器用に体をくねらせて回避する。
「自分の親が死んでどう思った!? 苦しかったか? 悲しかったか?」
「まさか、俺の両親を殺したのはお前か!?」
血まみれの両親の死体、隣で泣き叫ぶ幼い自分。
トレスに当時の忌まわしい記憶が甦り、怒りで剣先が小刻みに震える。
「貴様ー!!」
大地を蹴り、加速した勢いでメイルに斬りかかった。しかし、トレスの太刀筋は到達する瞬間に跳ね返されて、木に背中を強打した。
息がつまり意識が飛んだが、気を失っている場合ではない。ズキズキと痛む頭を振り、正気を取り戻した刹那、また衝撃が彼の後頭部を襲う。
人間離れした移動速度で間合いを詰めたメイルの掌が、トレスの額を鷲掴みして木に打ち付けたのだ。
「復讐はこれからだ」
不気味に笑うメイルが左腕を伸ばした。掌に光が徐々に集まり、やがて一つの球体となる。
頭が動かせないトレスが目でその方向を追うと、そこには空がいた。
「逃げろ!!」
トレスの叫びとメイルが放った光の球体が、同時に空へと向かう。剣士ではない空は成す術もなく、ただ身を硬くして立ち尽くしているのが精一杯である。
「空ー!!」
ぶつかった衝撃で、辺りは砂埃が立ち視覚を塞いだ。
メイルが額から手を離すと、茫然とするトレスが崩れ落ちた。次第に視界が晴れると、見慣れた銀髪にトレスは目を疑う。
「ノーサ……?」
「危機一髪といったところだな」
左手で剣を支えて攻撃を堪えたノーサが、空の前に立っていたのだ。彼の足元には数十センチ退いた跡が残っている。
「まだ酒も奢ってもらっていないんでね」
軽口を叩いているノーサだが、額には脂汗が噴き出して、球体を受けた剣は黒ずんで煙が漂っていた。
「ソラは私に任せろ!! トレスはあいつに専念するんだ!!」
赤毛の女剣士が、まだ金縛り状態の空の肩を抱く。
「フローラさん」
腕にしがみつく空の手に、フローラは自身のそれを重ねて微笑んだ。
「心配掛けたな。言っただろう? 私は結構強いと」




