決断は切なく
「ねえ、来週の休みなんだけど予定ある?」
玲奈と智美が雑談しているが空は机に頬杖をついてぼんやりとしている。
「空はどこがいい?」
「……うん」
「私としてはやっぱりカラオケは外せないな」
「……うん」
「そういえばあれから居候と進展あった?」
「……うん」
「えっ、マジ? ひょっとしてあんなことやこんなことも?」
「……うん」
生返事を連発する空に二人は溜息をついた。
-あんなトレス初めて見た……。
『ふくちゃん』で待っていた空にトレスから電話が掛かって来て、店の前にいるから出てきて欲しいと言うのだ。
どうして、と疑問に思いながら言う通りに店を出て彼の格好に目を見張る。
「遅くなってすまない」
「ううん。帰ろう」
乱れた藍色の髪に服装の汚れ、そして首についている血の痕……。
前髪が濡れていたので何処かで洗ってきたのだろう。
空は一緒に自転車で帰る途中、何も語らないトレスが遠くに感じた。
テレビのリモコン片手にトレスは昨夜の騒動がニュースになっていないかチェックしたが、今のところ報道されなかったので胸を撫で下ろす。
建設現場といい公園といい、一人きりになったのを見計らって襲撃された点を考えれば彼等とて異世界で事を荒立てたくはないようだ。
血と埃にまみれた体を洗い流そうと洗面所の鏡を通り過ぎようとした瞬間目の端に映った自身に目を見開いた。暗闇で気付かなかった首筋の血の痕に舌打ちする。
-空は気付いただろうか。
それだけが心配だったが彼女は何も触れずに普段と変わらない様子に安堵した。
空は空でトレスが言うのを待っていた。自分から聞けなかった。
トレスからわずかに漂う血の匂い、灯りの下で露わになる男達との乱闘の爪痕。
「何があったの?」
その一言が言えない自分が歯痒い。
シャワーを浴びてきたトレスと空の目が一瞬合ったが先に逸らしたのはトレスの方だった。
眠りに着いた二人だが、眠れないのか寝返りばかり打つ空の様子を軋むベッドの音でトレスは背中で感じ取る。
追手から命を狙われていることなど空も承知しているのだがら今回の件も伝えればいい。
公園で襲われて剣士の本能に委ねて相手を斬って助かったと……。
敵を殺めるというトレスには当然の行為も空には衝撃が大き過ぎるに違いない。
そうしたら、彼女はどんな顔をするだろうか。驚愕、軽蔑、嫌悪、敬遠、離別……。あらゆる単語がトレスの心に渦巻き、とうとう口に出せなかった。
-俺は何を恐れているのだろうか。空を危険な目に遭わせることか……。いや違う、俺の本性を知られるのが怖いんだ。
自分にもこんな感情があったのかと自嘲すると、布団を抜け出して携帯電話片手に静かに部屋を出た。
数日後、学校から帰って来た空は玄関に置かれた緑のパンプスを発見して顔が輝いた。
「美紗子叔母さん!!」
「はーい、空。元気にしてた? と言ってもそんなに日が経っていなかったわね」
現在アメリカに滞在中と聞いていたが突然の帰国に滅入っている空には嬉しいサプライズだ。
制服を着替る手間も惜しんで美紗子の前に座ると近況を一気に話し始める。そんな姪を彼女は優しい眼差しで見つめていた。
やがて、話し終えた空に美紗子は真剣な表情で口を開いた。
「ねえ、空。私とアメリカに住まない?」
「えっ?」
いきなりの提案に空はすぐには理解出来ず瞬きを繰り返す。
「別にアメリカでなくてもいいわ。とにかく海外で一緒に暮らしましょう」
「どうして急に……」
前々から美紗子に言われていたことだったが、何故今頃しかもこのタイミングで持ち出すのか分からず答えあぐねていた。
「待って。トレスはどうする……」
空ははっとした。先程から感じていた違和感は彼がいないことにあった。
「……トレスが言ったのね?」
美紗子は黙ってこちらを見つめるのみだ。
「自分と一緒にいると危険だから連れて行ってほしいって頼まれたの!?」
肯定も否定もしない美紗子の態度で疑問から確信に変わった。
ただ傍にいたいそのささやかな願いを聞き入れてくれたと信じていただけに彼の裏切りともとれる行動は空を失望させる。
「返事は後でいいわ。色々考える時間が必要でしょう?」
「……うん」
消えそうな震える声で空が言った。
近くのコンビニで立っていたトレスに着信があった。携帯電話をズボンのポケットから取り出して相手が美紗子からと確認すると耳に当てる。
「はい……、話してくれたんですね? 空は何て……分かりました。今から帰ります」
通話が終わると大きく息を吐いて部屋へ戻って行った。
トレスが部屋へ入ると既に美紗子の姿はなく、その代わりに今までに見たことのない怒りに満ちた顔の空がこちらへと近付いてくる。
パンッ!!
空の平手がトレスの左頬に飛んだ。
「卑怯だよ!! 私の気持ち無視して美紗子叔母さんまで利用して!!」
あんな細い体にこんな力があったのかと思うほど叩かれた頬がじんじんと痛む。
だが、自分の本性を知れば空の心はこれ以上の痛みとなる。
「一緒にいるって約束したのに!!」
-お前もそんな風に泣くんだな……。
これまで見せなかった涙を拭おうとせず責め続ける空に心が揺らぐ。
「これは俺の問題だ」
この台詞に空の瞳が一瞬揺らいでまたトレスを睨む。
「俺の問題? 私達の問題でしょう!?」
「ふざけるな」
トレスの低く鋭い声に空の肩がびくっと跳ねた。
「お前に何が分かる!?」
-頼むからこれ以上言わせるな……。
「分かるよ!!」
-そんな目で俺を見るな……。
「迷惑だ」
「えっ!?」
「お前には感謝している。それだけだ」
「それだけって……」
不意に脱力してその場に座り込む空に、無意識に体を支えようと反応する自分を必死に抑えて見据えた。
「もしもし、叔母さん?」
ホテルに泊まっている美紗子へ空は電話を掛けた。
「私、叔母さんと一緒に行く」
『そう……』
短く答えた美紗子は続ける。
『急だけど明日出発するわね。必要な物は現地で揃えるから大事な荷物だけ持ってきて』
空はただ受話器の向こう側で「うん、うん」と、弱々しい声で相槌を打つだけである。
電話を切ると空はトレスを見た。狭い部屋だ、話は筒抜けである。
それを承知でわざと掛けてみた。彼が心変わりをする望みを託して……。
だが、トレスは黙ったまま窓から外を見ているだけだった。
襲撃された夜、部屋を出たトレスはある人物に電話した。
「あの、トレスです」
『あら、珍しいわね。どうしたの?』
相手は美紗子だった。空を海外にいる彼女と暮らしてもらえないかと頼んでみる。
『事情は聞いてもいい?』
「今は言えません。しかし、空が危険な目に遭う可能性はあります」
美紗子なりに思案しているか短い間が空いた。
『空も知っているの?』
「いえ、俺の独断です」
『それ、言ったらあの子怒るわよ。勿論分かっているんでしょうけど』
「覚悟してます」
暫くして「分かったわ」と、美紗子が了解した。
あとは自分に任せてくれと美紗子が言って電話を切ったので少し気が楽になる。
案の定、空は激怒して平手のおまけ付きだ。左頬が時間が経つにつれて痛みを増すが敢えてそれを甘んじる。
自分に向けられた視線がやがて途絶え、スポーツバックに荷物を詰め始めた空の様子に胸が痛んだ。
-それでいい。もう俺に振り回されることもない。
二人に残された時間は少ないがその沈黙はずっと続いた。




