その7
空は珍しく登下校はバスに乗った。
この路線バスは大周りするので余計時間が掛かるから普段は利用しないのだが、一人で気持ちを整理する時間が欲しかった空は敢えて乗る。
トレスを狙っている人物はオバジーンの追手だと言う。それが事実ならこの世界とオバジーンが繋がっている可能性が空を怯えさせる。
窓に頭を預けてぼんやりと流れる景色を眺めていると、初めてトレスが街へ行ったことを思い出した。
グレーのVネックに青のチェック柄のシャツを羽織ってストレートジーンズに格好は未だに彼のお気に入りだ。黒いキャップを被せるととても喜んでいた。
-ジーンズの裾上げしないなんて、トレスって足長いよね。
サイズが分からずウエストだけ計っての買い物だったので、裾丈が心配だったが空の取り越し苦労に終わった。
一緒に食事して、一緒に語って……、といつの間にかトレス中心に生活していることに改めて気付く。
空の片想いだが、それでもいいと思った。変に告白して今の関係が崩れる方がよっぽど怖い。
溢れる想いは到底二十五分で整理しきれず結局乗り過ごしてしまった。
トレスはあの事故を機に飯尾の会社を辞めた。
建設現場という場所が場所だけに自分の巻き添えで死傷者が出るのは避けたい。だが、飯尾は自分のせいだと言い張るので何度も違うと強く主張してようやく納得してもらった。
職場の人達とも打ち解け合った矢先だったのでトレスも後ろ髪を引かれる思いだ。
空にも危害が及ぶかも知れないので本当は一人でいた方がいいのだが、その考えを先に彼女に読まれてつい先日釘を刺されたばかりだ。
「また黙っていなくならないよね?」
「しかし、お前の身が危なくってからでは遅い」
「はっきりしてからでも遅くないよ。それにいざとなったら最高位の剣士さんが護ってくれるでしょう?」
そう。彼はいつでも傍にいてくれる。暴行犯に襲われたあの夜も駆け付けてくれた。
全てを自分に委ねるその大きな瞳に魅入られてつい頷いてしまい苦笑する。
-お前は何処までお人好しなんだ……。
溜息をついたがもう呆れない。それに惹かれた自分がいるから。
「分かった。俺はバイトを辞めるから常に一緒だ」
頬を赤く染めた空が小指を立ててトレスに差し出した。意味が分からず首を傾けると、彼女が手を取り同じようにして互いの小指を絡ませる。
「指切りげんまん、嘘付いたら針千本飲~ます、指切った」
上下に振りながら何やら歌い出したのでされるがままにしておく。
「これね、約束の唄で子どもの頃よくお母さんとしたんだ」
「針を千本も飲むのか」
と、生真面目に呟くトレスに空は笑った。そうしないと涙が零れそうだったから……。
この日を境に些細な変化も見逃すまいとトレスは神経は研ぎ澄ますが、空の前では重々しくならないようになるべく普段通りに振舞った。
自分の思い違いならそれでも構わない。だが、剣士としての本能が警鐘を鳴らしている。
そして、事態が動いた。
空のバイトが終わる時間を逆算してアパートを出るとクロスバイクで『ふくちゃん』へ向かった。
大通りはまだ人も多く灯りが点いて明るいが、一本道を隔てると人工的に植えた木々が鬱蒼とした公園を抜けなければならない。
公園を抜けようとした時だった。
また刺すような視線にトレスの緊張は高まる。
クロスバイクを降りて静まり返った公園で叫ぶ。
「相手してやるから出てこい!!」
やがて、暗闇から複数の人影が動き街灯の近くにやって来たその人物をトレスは見据えた。
紛れもなく自分を追っていた男と確認する。
「久し振りだな、ティエラ・トレス」
顎を軽く引き連中の一挙一動に神経を張り巡らすトレスを男が嘲笑う。
「平和に飼い馴らされたお前に剣士としての習性が残っているのか」
「試すか?」
男の返事を待たず先に動いたのはトレスだった。間合いを詰められる前に地面を蹴り相手の懐に入ると心臓目掛けて拳を繰り出す。
体を反らして紙一重で交わした男が素早く退き、遠くに距離を取ったところを間髪入れず次の攻撃を仕掛けた。
だが、すかさず複数の男達が二人の間に割って入って来た。その手には剣が握られているのでトレスも不用意に近付けずひとまず遠間から冷静に敵の戦闘能力を分析し始めた。
空は『ふくちゃん』の奥の部屋でトレスの迎えを待っていた。掛け時計に目をやると既に九時を過ぎている。
-どうしたんだろう?
「何処かのお姉さんに声掛けられているのかしら」
時間に正確な彼の遅さに空の顔が曇ってきたのを久恵が冗談で宥めた。だが、彼女の頭から先日トレスが語った事実が離れず携帯電話を取り出した。呼び出しはしているが一向に出ない彼に不安が募る。
一人の男が剣を振り下ろしたタイミングを見計らってその腕を自分の脇に抱え込み力任せに捻じり剣をもぎ取った。その間に背後から襲ってくる人物に回し蹴りで撃退する。
武装しているこの人数を素手で応戦するのはさすがに無謀で、敵の武器を奪うことに成功すると中段に構えた。
その際もカーゴパンツのポケットから携帯電話の着信音が鳴り響いている。空からだと分かっているだけに出れない状況に余計苛立った。
暗闇に金属音が木霊して、飛び散る火花で一瞬だけトレスの険しくも精悍な顔が浮かび上がる。
ここ数カ月、実戦こそしていないが幼い頃から鍛えられた剣術は揺るぎなかった。久々に握る剣の重ささえ懐かしく感じる。
一人、また一人と呻き声を上げて地に倒れていくさまをトレスは冷ややかな視線で流し、ついに数えられるほどの人数まで絞った。
「お前達の目的はなんだ」
「それはお前自身がよく知っているだろう?」
「やはり『奇跡の石』か」
剣を交えながら問答していると突然主格らしき男が手を上げると一斉に引き揚げ始めた。
後を追おうとしたが人の声にトレスも急いでクロスバイクを拾いその場を立ち去った。
何回かのコールでやっとトレスが出た。
「よかった。やっと繋がった……」
「すまない。今向かっているから待っててくれ」
それまで言うと一方的に切れた。切羽詰まっていて息が荒いその声に空は携帯電話を胸に力強く抱いてトレスの迎えを待つ。
空を迎えに行く途中で、ショーウインドーに映った自分のなりにトレスは愕然とした。
ズボンは汚れ、シャツははだけて所々切り裂かれている。
そして、返り血を浴びた顔……。
そう、自分は容赦なく人を斬ったのだ。戦いの中で敵の剣を奪い取ったところから剣士としての本能が目覚めて身を任せて理性を失った。
-ティエラ・トレス、お前はそういう人間だったじゃないか。
もう一人の自分がその理由を正当化する。
-お前の本性を知ったら空は哀しむに違いない。
もう一人の自分が責める。
-仕方なかったんだ……。斬らなければ俺が斬られていたんだ……。
公園を見つけると急いで服を脱ぎ捨てて水道の水で顔を激しく洗う。
オバジーンでは疑いも迷いもなかった剣士の自分とこの世界でただの人間として生きている自分が混沌して気が狂いそうだった。
そして、こんな時こそあの空の笑顔が恋しい、傍にいてほしいと強く思ったこともなかった。




