その5
トレスがこの世界に来て半年近くになる。
異世界から来た妙齢なイケメンと同居するのは最初こそ戸惑うことも多かったが、今では好きな人の傍にいられる幸せの方が大きい。
そして、今朝も二人で向かい合って朝食を共にする。
「今日は和食にしました」
料理は殆ど空が作る。元々独りでいることが多いので億劫ではない。最近ではバイト先の大衆食堂『ふくちゃん』でレシピを教えてもらったりと腕は更に磨きが掛かっている。
それはやはり、トレスが美味しそうに食べてくれるからだろう。結構の量を食べるが太る気配がないのは羨ましい限りだ。
テーブルにご飯とわかめと油揚げの味噌汁、明太子と納豆が並んでいるが迷わずトレスが納豆を選んだ。
「相変わらず明太子、苦手だね」
「あの粒々感が嫌なんだ」
「普通、納豆が苦手な人が多いんだよ」
こんな会話が出来るとはトレスもすっかりここの住民だ。
食べ終わるとそれぞれ学校と会社に向かう。
「行ってきます」
「気を付けてな」
まるで夫婦みたい、と一人にやける空を通り掛かった小学生が気味悪がってわざとらしく大きく避けていくが気にならない。
現在一方通行の恋だがそれでもいいとさえ思えるのは乙女の特徴でもある。
これからもずっと一緒にいられると信じて疑わなかった。
あの事故が起きるまでは……。
学校が終わり、いつものように『ふくちゃん』でバイトしていた時のことだ。
店に一本の電話が鳴った。久恵が取ると相手は飯尾だ。
「あら、珍しいわね。店に掛けてくるなんて」
明るく話していた久恵だったが次第に表情が曇り始めたので福太郎も注文を捌きながら様子を窺っている。
「……ええ、……じゃあこれから来るのね?」
空をちらっと見てまた目線を電話に戻した。
「分かったわ。自宅でお願い」
電話を切った久恵が空を手招きする。
「なんですか?」
「空ちゃん、落ち着いて聞いて。トレス君が怪我をしたらしいわ」
「えっ?」
一瞬何を言っているのか理解できずに空は立ち尽くしていた。店の賑わいが遠くに聞こえる。
「資材が崩れてきて肩を強打したそうよ。本人は大したことないって言っているらしいけど……」
病院へ……と言い掛けた空がはっとして口を噤んだ。異世界から来た彼がここの医療を受けられるはずがない。
話を聞いていた福太郎が客が引くのを待って急遽店を閉めた。
やがて、飯尾に付き添われたトレスが現れると空は人目も憚らずその胸に飛び込んだ。
「よかった、無事で……」
「かすっただけだ。心配掛けたな」
空の背中に手を回そうとしたトレスの顔が痛みで歪む。
「すまない!!」
居間で一同が座ると開口一番飯尾が謝罪して額を畳に擦りつけた。
「俺の現場管理が行き届かない為にこんなことに……」
唇を噛んで悔しさを滲ませる飯尾に福太郎が口を開いた。
「トレス君には悪いが、私はどうも飯尾に非があるとは思えんのだよ」
高校時代からの付き合いで親友でもある福太郎が首を傾げる。確かに飯尾は豪快で雑な所があるが大事な場面では決して注意を怠らない用心深さも持ち合わせているのを知っているからだ。
だから、妻から事故の詳細を聞かされた時も腑に落ちなかったのである。
「杉本……」
「俺もそう思います」
黙っていたトレスが同調した。
「飯尾さんに非があるのではなくむしろ……」
と、言葉を切ってまた黙ってしまった。杉本達の目からは事故のショックが癒えていないと映ったが、空は何か深く考えているように見える。
「取り敢えず今日はゆっくり休んで、何かあったら連絡してくれ」
責任を感じて気落ちしている飯尾を福太郎が見送りに外へ出ると、久恵が空に帰るよう声を掛けた。
部屋へ戻った空が、今夜はベッドを使うよう勧めたので素直に従った。
隣で心配そうに見ている彼女に安心させるために小さく笑ってみせる。
その夜、トレスはなかなか寝付けなかった。
肩の痛みもあるが事故の様子が気になって仕方がなかった。
あの時はトレス一人が現場に残って片付けをしていた
自分に向けられた刺すような視線、背筋が寒くなるほどの殺気、そしてその直後に崩れ落ちてくる資材。
剣士としての素早い反応が幸いして軽傷で済んだが、一般人なら間違いなく死と繋がる事故だった。
そして、今、いた場所に砂埃を上げて落ちてくる資材の中で一瞬だけ見えた人物にトレスは驚愕した。
-何故あの男が!?
この場にいる筈もないその人物を追い掛けようと立ち上がったが左肩の激痛に膝が沈む。
異常な音に気付いて残業していた飯尾が事務所を飛び出してきたが、その前に近くに落ちていたロープを手に取ったトレスが眉をひそめた。
その切り口は劣化で千切れたものではなく故意に鋭利な刃物によるものだった。
-俺が狙われた!?
「大丈夫か!?」
青ざめた飯尾がトレスを抱き起こすと痛みと真実に異常なまでに汗をかいている。
「病院へ行くぞ!!」
「大丈夫です。骨は折れていません」
「馬鹿言え!! とにかく……」
「それよりこのことは公にしないでくれませんか」
「俺の責任を気にしているのか」
「違います」
と、きっぱりトレスが否定した。静かで鋭い藍色の瞳に見つめられてあの飯尾がたじろぐ。
頑なに飯尾の要求を断り、仕方なく医務室で応急手当てをして飯尾と杉本家に向かったのだ。
実は、トレスにはもう一つ気になることがある。それは常に首に提げている『奇跡の石』がここ何日かほのかに熱を帯びていた。
彼が追手からこの石を護る為『時の泉』に飛び込んだ時もそうだった。
そして、その追手があの現場にいた。最初は見間違いかと思ってたが確かにあの男の薄笑いが目に焼き付いている。
-あの泉に身を投げてこの世界に来れる人間がいるというのか……。
もし、それが事実なら自分はオバジーンに戻れるかも知れない。思わぬ結論に心がざわつき動揺すると同時に隣の居間で穏やかな寝顔の空を見やった。
この世界へ来た当初からずっと傍にいるこの少女との別れがいずれやってくる。明るく逞しく生きている空が眩しかった。剣士として常に生と死と向き合い神経と己の命を擦り減らした生き方に疑問を抱くようにもなった。
こんな生き方も悪くない。
そう思えた矢先の事故にトレスの困惑は増す。
もし、帰れるなら彼女も一緒に……という気持ちを頭を激しく振って追いやった。
ここが彼女の世界で築いてきた友人や杉本夫妻、美紗子達と自分のえごで引き離す訳にはいかない。
-参ったな……。連れていくのが前提じゃないか。
これまで色恋沙汰に全く興味を示さなかった自分が、一人の少女に心乱すとは……と思わず苦笑した。




