その3
「あんた、なんで黙っていなくなったの?」
空と同級生とは信じ難い気迫で玲奈はトレスを問い質す。
「空と距離を置こうと思っただけだ」
「だったら、連絡ぐらい入れなさいよ。電話、持っているんでしょう!?」
持ってはいるがバッテリー切れで長い間無用の長物と化していた。
「空、すごく心配して……」
と、ここで玲奈の携帯電話が鳴った。トレスが出るよう促したので玲奈は渋々開くと相手は渦中の空からだった。
「あっ、空?」
玲奈の口から空の名前が出たのでトレスの眉がぴくっと動いた。
「丁度良かった。今ね……、えっ、よく聞こえない」
玲奈の顔が険しくなったのでトレスも耳を寄せる。
「つけられている? 今、どこ?」
トレスの顔色が変わると彼女の携帯電話を奪うように取り上げて自分の耳に当てた。
トレスは好きだが、異世界の人間でこの先どうなるか解らない。そんな彼が不安なら、彼氏として申し分ない柳井を受け入れて全うな青春を歩めばいい。そう割り切れば本当に気が楽なのかも知れない。だが、空にはそれが出来ない。
思考が煮詰まって足を止めた空がここで初めて顔を上げた。
何処をどう自転車で来たのか気が付けば隣町の公園まで来てしまっていたのだ。運が悪いことに途中で自転車がパンクしてしまい押しながら自宅へ向かう。
そして、遊歩道へ差し掛かった時だった。
最初は何気なく歩いていたが後ろからする足音に違和感を覚えたのでわざと急ぎ足で行くとやはり足音もぴったりとついてくる。
-私、付けられている……?
しかも、最近婦女暴行犯が出没しているとのニュースが世間を賑わしていたのを思い出して、震える手で携帯電話を取り出して玲奈に電話した。
『空? 丁度良かった。今ね……』
親友の声にほっとする。
「後ろから付けられているみたいで……」
『振り向くな』
まさしく後ろを見ようとしたところにトレスの声で思い止まった。
「トレス? トレスだよね!?」
『ああ、俺だ。これから言うことを落ち着いて聞くんだ』
-よかった……。トレスがいてくれた……。
「電話は切らずにしゃべり続けろ。今、何処だ?」
不安そうに見つめている玲奈に、携帯電話を指差して借りるジェスチャーをすると彼女は力強く頷いて承諾した。
「そこなら分かる。五分だけ辛抱しろ。今行く」
急いでクロスバイクに乗ると携帯電話を片手に全速力で夜の街を駆け出した。
向かっている間もトレスの指示は続く。
「なるべく人のいる所に行くんだ。決して走るな、相手を刺激するかも知れん」
途中、赤信号に引っ掛かりトレスは苛立った。
空の声が次第に震えていくのが電話を通して伝わってくるからだ。
『トレス、私……』
ここで通話が途切れたので、くそっ!!と忌々しく吐き捨てたトレスが携帯電話をズボンのポケットに突っ込んだ。
「もしもし、トレス!?」
空の携帯電話の方がバッテリーが切れだった。仕方なく鞄に仕舞うと余計不安が増してくる。
彼の指示通りに人気のある場所を探すが、こんな日に限って誰も見当たらない。
次第に自分と後ろの人物の距離が縮まりつつあるのを足音の反響で知ってしまうと、こみ上げてくる恐怖と不安を抑えきれず『走るな』との彼の指示を無視してついに自転車を置いて走り出してしまった。
追い掛けてくる足音は痩せた若い男の姿となってとうとう空の視界に入ってきた。
必死に逃げても男の脚力に敵わず石に躓いた空は大きく転んだ。膝から血が滲んでいるがその痛みより男が迫ってくる恐怖が勝る。
座り込んだまま後ずさりをする空を若い男はにやけながら間を詰めてくる。
恐怖に怯えた表情、乱れた栗色の髪、制服のスカートが捲れて露わになった太もも、全てが男の欲情を掻き立てるものばかりだ。
男が覆い被さると空は観念して目を閉じた。
その刹那、ぶつかる鈍い音に目を開けると、目の前にいた男は横から飛びついてきた人物によって芝生に倒された。
「空、大丈夫か!?」
そこには藍色の髪の青年が荒い息で立っていた。
-来てくれた……。
思わぬ再会に視界が涙で歪む。
のろのろと立ち上がる男の鼻っ柱を鍛えられた拳で殴り飛ばすと大の字になって仰向けで倒れてそのまま意識を失った。
相手が再起不能になったのを確認したトレスは空に向き直る。
「怪我はないか」
「ひどいよ。五分で来るって約束したのに」
あんな怖い思いをしながら気丈にも空は笑顔で抗議したが声はまだ震えている。
「すまん。もっと早く来ればよかったが」
トレスが手を差し出すと空もその手に掴まって立とうとしたが足に力が入らない。
「腰……抜けちゃった」
すると、トレスは背を向けて片膝をついた。
「背負ってやるから乗れ」
「私、重いよ」
「俺を誰だと思っているんだ。お前の体重で潰れるほど柔な鍛え方はしていない」
早くしろと催促するので空は素直にその広く逞しい背中に体を預けた。
「トレス……」
「ん?」
「ごめんね」
「何故謝る?」
「変な態度取って」
「隠し事はするなと言っただろう」
トレスが歩く度に空も揺れる。その心地良さに張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて空の涙が溢れ出した。
空の嗚咽が、涙で濡れるシャツが背中を通してどれほど心細く不安だったかを思い知らされる。
久し振りに二人揃って空の部屋へ帰って来た。
トレスはそっと空をベッドに座らせて立ち上がるとその腕を彼女が掴んだ。
「……ここにいて」
涙で赤くなった瞳が懇願する。
「ああ」
小さく笑ったトレスは薬箱を持ってくると空の膝を治療し始めた。消毒液が沁みたので空が顔をしかめると「痛いか?」と訊いてきたので首を左右に振る。
部屋着に着替えた空を寝かせてトレスもベッドの傍に座ると、空が差し出した手を躊躇なく握った。
「今夜はずっといるから」
「何かお話して」
「オバジーンの話でもするか」
今、この世界の話をすれば今夜のことを思い出して傷口を深くする。だから、トレスはオバジーンにいた頃を語り始めた。
どのくらい語っただろうか
修行時代、剣士となった記念する日のこと、親友の剣士のこと……。
思いつく限りひたすらしゃべり続けて、いつしか相槌を打つ空の声が寝息に代わるとトレスは安堵した。
改めて眠りに着いた彼女を見つめる。
白い肌にふっくらした唇、まだ涙が乾きっていない頬。
ここ数日、空の笑顔だけが頭から離れなかった。
距離を取ると言い訳して、実際逃げていたのは自分だったのかも知れない。空が自分を避けている理由を訊こうとすれば訊けたはずなのに面倒と投げた罪悪感は否めない。
空は異世界から来た厄介者をこれまでどんな想いで傍に置いてくれたのか。
その苦労を考えるとただのお人好しでは片付けられない感情が湧き上がる。
熱くなる胸の内をそのままにそっと栗色の髪に触れるとその軟らかさに驚いた。あんなに一緒にいたのについ今まで知らなかった自分が情けない。
そして、堅く握っている空の手は自分のそれより柔らかく小さい。
―もうお前から逃げない。
それが、この世界で生きる条件なのだとトレスは改めて決意した。




