その1
あの日以来、空とトレスの会話はなくなった。それでも、ちゃんとご飯の用意と弁当は作ってくれる辺りは人がいい。
急に部屋を飛び出した原因を訊こうにも、あのトレスが躊躇うほど彼女の雰囲気はどんよりとしている。
「今日はバイトか?」
空のバイトの日は把握しているがきっかけが欲しくて敢えて訊いてみたがただ頷くのみだ。
「行ってきます……」
いつもなら「途中まで一緒に行こう!!」と、元気よく誘ってくるのだが今日もその声はない。
玄関のドアが静かに閉まると、どうしていいのか分からないトレスは藍色の髪をぐしゃぐしゃにかき上げた。
学校でも負のオーラが漂っていたのか、校内のベンチに座って溜息を連発している空を玲奈と智美が遠巻きに見ている。
「また問題発生か?」
「居候と何かあったんじゃない?」
「なに!? あいつ、あれほど警告したのに!!」
腕まくりをする真似をして詰めかけた玲奈を空は焦点の合わない瞳で迎えたが、その顔は数日前と比較してやつれた感じがする。
「うわっ!! なんか悪霊背負ってそう」
「玲奈~!!」
突然泣きついてきた空に玲奈が戸惑う。
「どうした!? さてはあいつに何かされた!?」
いきり立つ玲奈にぶんぶんと空が大きく首を左右に振ると、智美が腕組みをして唸った。
「ひょっとして恋しちゃった?」
二人の動きが同時に止まり無表情の智美を見つめる。
「ど、どうして分かったの!?」
今度は玲奈が大きく慄いた。
「ええっ!? それ、ほんと!?」
火が出そうなくらい真っ赤な顔の空が涙目でゆっくり頷くと智美が深い溜息をついた。
「やめといた方がいいよ」
智美の表情が険しくなり目が鋭くなったので二人は息を飲んだ。智美がこの顔つきをするとかなりの確率で爆弾発言が待っている。
「それは同情で本当の恋愛じゃない。つまり、疑似恋愛ってやつ」
「ちょ、ちょっと、智美……」
手厳しい発言に空の大きな瞳が不安になってきたので、玲奈がおろおろしながら空と智美を交互に見やった。
「記憶喪失の彼が可哀想だから一緒に暮らしてたんでしょう? この人は私がいないと何も出来ないからってね」
心を見透かされたと思った。反論しようにも言葉が上手く見つからない。
「空は恋愛に免疫ないから特殊な状況を恋と勘違いしているだけよ」
「もうその辺にしときなよ」
いつも強気な玲奈が容赦ない友人の袖を引っ張ったが意に介せず尚も淡々と続ける。
「確かに顔はいいけど、もし彼以外の人が同じ境遇だったら助けた?」
似たような台詞を美紗子にも言われて空の心はぽっきり折れた。
「あそこまで言う?」
肩をがっくりと落として教室へ戻る空の後ろ姿を見送りながら玲奈は友人を恨めしく見た。
「私は正論を言ったまでよ」
と、平然としている智美の言い分は尤もだが、もう少しオブラードに包んだ言い方もあったのではと玲奈は空の気持ちを考えると気の毒でならない。
「でもまあ、それでも空があのトレスって居候が好きという気持ちが変わらないなら、私の全知識を駆使して応援してあげるけどね」
「へっ?」
玲奈は耳を疑ったが、それを察した智美がにやりと笑った。
「記憶が戻ったらどんな過去が待っているか分からないのに、生半可な気持ちでいたら耐えられないっつうの」
「あんたって子は~!!」
やはり二人は空のかけがえのない親友なのだ。
玲奈が智美の首に腕を回すと髪をぐしゃぐしゃにかき乱したので彼女の悲鳴が響き渡った。
「女って分かんね~!!」
職場の一人が大声で叫んだので、まるで自分の心の声を代弁したかのような台詞にトレスは思わず振り向いた。
「どうした? フラれたか?」
他人の不幸は蜜の味、と彼女がいない独身者がにやけた顔で集まってくる。
「いつも一緒にいた~いって言うから休みの日にべったりしていたら今度は『ウザい』っすよ!!」
「こいつ、結局ノロけか!?」
男達の関節技の餌食となった若者がボロボロになってやっと解放された。
「近過ぎてもダメなんだよ。女ってのはプライバシーを尊重するからな。時にはぷいといなくなるのもテだぜ」
成程、そういうものかとトレスもさりげなく聞き耳を立てる。
考えてみれば、空とトレスも四六時中一緒にいるので互いのプライバシーはなかった気がしてきた。自分は異世界から来たのだからあってないようなものだ。そもそもあの部屋は彼女が持ち主で、居候の分際で少々態度が大きかったのでは今更だが反省している。
-空も俺との生活が息苦しく感じたのか……?
「もし、それでそのまま別れたらどうするんですか!!」
「ま、それだけの仲ってことだ」
大笑いする先輩社員とわめく若者を眺めながらトレスが呟いた。
「少し距離を置くか……」
大衆食堂『ふくちゃん』のバイトが終わった空がアパートに着くと部屋の電気が消えていた。
-トレス、帰って来ていないんだ。
寂しい半面ほっとする自分に嫌気が差す。今回も自分の独り相撲でトレスは全く悪くないのに素っ気ない態度を取ってしまったと反省しきりだ。
おまけに、智美からの容赦ない正論で現実を突き付けられて未だ気持ちが切り替えられずにいたが、手を洗いに洗面所へ行くといつもと様子が違うのに気付いた。
-トレスの洗面道具がない!!
慌てて衣装ケースを開けてみると彼の下着や洋服がなくなっていた。
「トレス、何処!?」
携帯電話を手に取って彼に掛けたが電源が切れているとの音声案内に愕然とした。
「どこ、行っちゃったのよ……」
空は携帯電話を握り締めたまま力が抜けてその場に座り込んでしまった。
「あっ!」
上着の胸ポケットから携帯電話を取り出したトレスが声を上げた。
「どうしました?」
初出勤の頃から教育係としてトレスの世話をしている青山が振り向くと、トレスの携帯電話がブラックアウトして沈黙していた。
「これ、バッテリー切れですよ。充電器、持っていますか?」
トレスが首を横に振ったので青山が軽く息を吐いた。
「僕のと合いそうにありませんね。取りに帰ったらいかがです?」
青山の提案にトレスが思い切り仏頂面になったので慌てて話題を変える。
「それにしてもトレスさんが来てくれるなんて嬉しいなあ」
「済まないがしばらく頼む」
実は、トレスは空と距離を置くために会社の宿直室に泊まろうとしたところを青山がたまたま通り掛かって、それなら自分の社員寮へ……と申し出てくれたのでしばらく厄介になることにしたのだ。
「僕もトレスさんとは色々と話してみたかったんです。例えば、あの関節技とか」
青山は、一見気弱そうに見えて何を隠そう格闘技マニアで、飯尾とのタイマン勝負でトレスが決めた腕十字固めが忘れられないらしい。
「僕にもそれ、掛けて下さいね」
目を輝かせている青山にトレスは引いた。
「無抵抗のやつには出来ない」
「カッコいいなあ。なんか武士みたいですよ」
「ブシ? ああ、サムライか」
「ストイックな所とか……、着きましたよ」
すっかり興奮した青山が足を止めたのは、寮にある自分の部屋の前だ。鍵を開けて部屋に案内されたトレスは壁一面に張ってあるアイドルと格闘家のポスターに絶句した。
「……凄いな」
やっと絞り出した一言に青山のテンションは更に上がる。
「でしょう!? やっぱりトレスさんとは気が合うな」
ここに来て初めて空の部屋の居心地の良さを痛感したトレスは早くも帰りたい気分だった。




