当夜
湯島の語りは生々しく、伝えることを生涯の生業とした男の最後の仕事のようだった。
「ギンさん、こんにちは。入りますよ」
玄関から声を掛けると、加奈は靴を揃えて居間へと向かった。
「ギンさーん。加奈です」
足の悪いギンさんは、二階へはもう何年も上がっていなかった。
(トイレだろうか)そう思った矢先、風呂場の方で何かが落ちる音が聞こえた。
「ギンさん、どうしましたか」
そう言って脱衣所に入ると、開け放した風呂場の浴槽にもたれるように座るギンを見つけた。その顔は左の頬が腫れ、青いアザがくっきりと浮かんでいた。
「ギンさん!」
駆け出した直後、加奈の後頭部に鈍い痛みと衝撃が広がった。
膝から崩れ、意識が遠退く中で見た光景は、赤ん坊のように泣き叫ぶ老女の姿だった。
「先輩、起きました」
「いつまで寝てんだよ」
頬の痛みに意識が戻ると、目の前に木全と鈴木が居た。
木全は加奈の髪を掴んで頭を持ち上げると、自らの顔を近付けて「なぁ、お使い行ってくれんか?」と、普段の声とはかけ離れたドスの効いた声で言った。
「ババァ、暗証番号教えてやれや」
木全はギンに振り向くと、同様に低く唸るように言った。
ギンは金魚のように口を動かすが、音となることはなかった。
「ふざけてんのか、ババァ」
鈴木がギンの脇腹に蹴りを入れると、メキっという音と共に呻き声が漏れた。
「喋れんじゃん」鈴木は横倒しになったギンを見て、喉を鳴らして笑った。
「番号は?」
うっすらと口元に笑みを浮かべて、木全は再び暗証番号尋ねた。
「7492」
「全部同じ番号?」
ギンは倒れたまま頷いた。
「不用心だなぁ。共通の暗証番号は危険だよ」
木全はそう言うと手袋を嵌めた手で、カードを加奈に投げつけた。
浴室のタイルの上に数枚のカードが乾いた音を立てて落ちた。
「全額下ろしてこい」心臓が握られるような冷たい声だった。
戸惑う加奈に「行けよ!ババァ、ぶっ殺すぞ!」と鈴木が喚き散らした。
木全はそれを片手を上げて制すると「今井さん、状況は理解できてる?キミが言うことを聞かないと、ギンおばあちゃんはダメになっちゃうかもしれないんだ。鈴木くんは気が荒いからね」と静かに言った。
加奈が涙を拭きながら頷くと「いいね。じゃぁ表に車が止まっているからさ、西野先輩は何度か会ってるから分かるよね?」と言って頭を撫でると玄関に向かわせた。
その背中に「おかしな事をしたら、君も婆さんも死ぬからね」と声を掛けると「行ってらっしゃい」と言って笑った。
加奈が外に出ると、そこには車高を落としたセダンが停まっていた。
「早く乗れ」助手席のドアを押し開けた西野が短く鋭く命令すると、ドアが閉まると同時に車を走らせた。
西野はショッピングモールの駐車場に車を止めると「見てっから、妙なマネすんなよ」と脅して、加奈を車から降ろした。
そして少し離れた位置から彼女を尾けると、監視を始めた。
行き交う大勢の人達は、誰一人も加奈を気にせず通り過ぎて行った。
軽快な店のBGMの中、店の奥へ進むことなく階段近くのATMコーナーへと向かった。
加奈は従順に各銀行のATMから金を下ろすと、次にクレジットカードの限度額まで引き出した。
現金は預けられた鞄にしまい、西野の車へと戻った。
西野はそのままギンの家まで戻ると加奈を降ろし、家の中に入るのを見届けるとその場を走り去った。
居間へと進むと、ソファーに座った木全が加奈を迎えた。
加奈は札束の入った鞄を渡すと「ギンさんは?もうこれで帰して」と懇願した。
木全は鞄の現金を鷲掴みにすると「いいよ」と笑顔を見せた。
そして「ギンさんは風呂場だよ」と言うと、加奈たちには興味が無くなったように札束を数え始めた。
「おばあちゃん」
加奈が浴室へと向かうと、ギンは浴槽の中に入っていた。
浴槽には湯は張ってなく、代わりに大量の血溜まりがあった。
喉が大きく裂かれ、洋服の血は滴ることなく既に乾いていた。
加奈は目を見開いた。
そして絶叫を上げる寸前——後ろから腕を絡められ、首を絞められた。
手足をばたつかせて抵抗するが、解ける気配は無かった。ただ、腕は喉元深くまでは入らなかったので、苦しいが呼吸は出来た。なんとか状況を変えようともがいていると「そんなんで死ぬかよ」と醒めた声が背後から聞こえた。
——木全だ。
木全は加奈の正面に回ると「腕だけ押さえとけ」と鈴木に言った。
そして首に手を回すと、両手の親指でゆっくりと気道を潰した。
顔が紅潮してのぼせたように熱い。
「がはっ」咳き込む度に、さらに強く全ての指がくい込んできた。
目が充血する感覚と、鼻の奥が塞がれた感覚がした。もう、視界が暗くぼやけて何も見えなくなっていった。
木全は自身の両腕に、急激な重みを感じた。それは加奈の全身から力が抜けた瞬間だった。
「死にましたかね?」鈴木が反応を確かめようと、ギンの喉を裂いた包丁を加奈向けた。
「ヤメろ、馬鹿」
木全が鈴木を怒鳴りつけた、
「コイツには血を流されると困るんだよ。逃げてもらうんだからよ」そう言って口の端を歪めると、木全は携帯電話を取り出した。
「ゆっちぃ、夜中になったら草森ギンの家まで来てくれよ。西野のとこのトラックで来いよ、話はつけてあるから」
木全は一方的にそう言うと電話を切った。
「電話代高けーんだから、ごちゃごちゃ喋んなってな」木全の悪態に鈴木は愛想笑いをすると「コイツはどうするんですか」と加奈を指差した。
『深夜、草森さんの家に着いた私に、木全は嬉々として話しました。加奈さんの遺体を積んだときも、遺棄現場へ運ぶ道中も、ずっとずっと詳細に——鉄錆のような血の匂いも、ぬめる感触も、喉笛が折れた時の指先の振動も、全部を話して聞かせました』
湯島はそう言うと、痙攣するように震え始めた。
「桜田さん、休憩しましょう」
三鷹は画面外の桜田に向かって提案した。
一時間後、湯島の回復を待って再開する事にした。




