アンタッチャブル
「千早さん、どこ探したらいい?」
既に息が荒い高木の足は動きが鈍り始めていた。
「手っ取り早く、そして恐怖を与えたいなら高所です」
「高所って——」高木は足を止めて周囲を見回した。そして「三階建ての太陽園が一番の高所じゃん」と少し離れた千早に叫んだ。
「ここは高台です。海に向かえば崖です」
叫び返した千早に、タクシーが登った急坂を思い出した。遠くに聞こえる波音は海の遠さではなく高低差だと高木はようやく気付いた。
「分かった!」
高木は両足だけではなく、全身に力を込めた。上半身を捻りながら振り子のように脚を前に出した。千早と方向を変えて、同じ崖を目指した。指先と口先以外をこんなにも酷使したのは学生——いや、小学生以来だ。
それは千早も同じだった。
もう既に足は何度かもつれていた。
経営が上手く行けば、体力特化の助手が欲しい。片腹の痛みを紛らわすようにそんなことを考えたが、結局は手で押えて和らげるしかなかった。
不意に、波が砕ける音の切れ間に人の声が混じった。叫び——いや、怒声だ。
顔を向けた視線の先に白い乗用車が、ドアを開けたまま乗り捨てられていた。
無理矢理ここまで入って来たのだろう。大きな石を乗り越えられずに、前輪が浮いていた。
三人の人影が見えた。一人は車椅子だ。だがもう千早の足も限界を迎えていた。開いたドアに掴まるので精一杯だった。見る限り、追ってきた今井敏樹と佐藤圭太が向き合って何かを叫んでいるようだった。そして湯島には逃げる意思が無いように見えた。車椅子は動く様子が無い。
いや、或いはもう——
最悪が脳裏を掠めた時だった。
高木の姿が目に入った。
崖を湯島の居る方向から回り込んで来ていた。
このまま湯島を保護出来れば。
そう思ったのも束の間、あと数メートルのところで気付いた佐藤が振り返った。
千早は咄嗟にクラクションを鳴らした。
こちらを向いた佐藤に、高木が飛びかかった。佐藤は高木に反撃も防御もしないで、ただ湯島の車椅子の背中を蹴り出した。車椅子はゆっくりと僅か先の奈落へと進んで行った。湯島はブレーキすら掛けず罪を受け入れるように、或いは罪から逃れる用に死へ向かって行った。
時間がゆっくりと見えた。
敏樹が駆け出し、身を捻った高木が届くはずもない車椅子に手を伸ばす。ゆっくりと背中から倒れていく佐藤。
粘度の高い液体の中を泳ぐようにゆっくりと見えた。
ああ、なんだこれは。ユニオン駅の階段か、またはオデッサの階段だろうか。
出来の悪いパロディだ。
敏樹が転倒しながら車椅子の車輪を掴んだ。
そこで時間が一気に動きだした。
千早も再び崖へと駆け出した。
湯島は反動で車椅子から滑り落ちたが、衣服が絡まって転落を免れていた。
だがそれもいつまでも持つものではない。
高木と佐藤は互いの上下を入れ替えながら、取っ組み合いの格闘をしていた。
千早はその横を走り抜けて、湯島の襟首を掴んだ。
千早の姿に一瞬だけ驚いた表情を見せた俊樹だったが、頷くと二人同時に力を込めた。千早は湯島を、敏樹は車椅子を。
千早の尻餅に土埃が巻き上がり、湯島が引き上げられた。
「今井さん、やりましたよ」
そう言って上体を起こして見遣った先に、敏樹の姿は無かった。
「今井さん?今井さん!!」
千早の大声に、高木と佐藤の動きが止まった。
崖下を覗くと、バラバラになった車椅子と不自然な方向に脚を曲げた敏樹があった。
千早も、高木も、佐藤ですらも顔に当たる飛沫味も砂粒もいとわずに敏樹の名を呼び続けていた。
「救助ヘリ!」高木がスマホを取り出して「どこに掛けたらいい」と縋るような目で千早を見た。
「釧路には消防ヘリも警察ヘリもないです」千早は静かにそう言うと俯いて首を振った。
「じゃぁどうすんだよ!あんなとこ、誰も降りられないだろ」八つ当たりのように怒鳴る高木の肩に千早は手を置いた。
「海保を要請します。高木さんは警察に」
千早はそう言って118の緊急コールに電話を掛けた。




