千客万来
急坂を上がり、見晴らしの良い高台へとタクシーは向かった。車窓の奥に見える太平洋は遥か下だ。
「今日は珍しく穏やかですね」
千早の視線に気付いた運転手が話し掛けた。
「あ、これで穏やかなんですね」
「ええ。波自体は高いですが、白波が立っていませんから」
「なるほど、風が穏やかなんですね」
やはり海沿いの街に住むと、漁業に従事しなくても海の見方が分かるものなのだろうか。
「見えてきましたよ」
運転手が前の方を指差した。三階建ての、オレンジ色が一際目を引く建物があった。
「派手ですね」
「目立つくらいが丁度いいのかも知れませんね。中の人たちには」運転手はそう言うと、玄関前にタクシーを停めた。
「すみませんが、このまま待ってもらっても良いですか?」降り際、千早がそう言うと「大丈夫ですよ」と運転手は笑顔で返した。
タクシーから少し離れると、雑多な生活音に混じって、海の音が遠くに聞こえた。反対に潮の香りは濃く強い。
共同玄関から中に入ると、すぐ横に管理人室があった。小窓に付いたカウンターに置かれたベルを鳴らすと、奥から中年の男性がメガネを指で上げながら現れた。
「入居者へのご面会ですか?」
千早たち三人の組み合わせに、メガネの奥から訝しむような視線を無遠慮に向けた。
「湯島先生はいますか?」
「ああ、ちょっと待ってくださいね」
教え子の来訪と思ってくれたようだ。途端に声が柔らかくなった。内線電話を繋ぐと部屋番号だろうか、オンフックで三桁の番号を押した。
一回、二回......
七回、八回、九回——
十度目のコールで管理人は電話を切った。
「部屋には居ないようです。担当の介助者に聞いてみますね」そう言うと、今度は外線ボタンを押して職員に電話を掛けた。
「湯島さんに面会の教え子さん達が見えてるんですが」
「はい......そうなんですか。分かりました。はい、どうもありがとうございました」管理人は電話を切ると千たちに「二十分くらい前に外出したみたいです」と済まなそうに言った。
「なんだか別の教え子さんが来てたみたいで」管理人はそう言うと部屋の奥に向かって「佳子、佳子」と呼び掛けた。
「どうしました?」奥のドアが開くと、中年女性が顔を出した。
「俺が休憩中に湯島さんに面会あったのか?」
「ありましたよ。どうしたんです?」
女性はエプロンで手を拭く様な仕草をしながら管理人の隣に立った。そして千早たちに軽く会釈をすると「湯島さんに?」と言った。
「はい」千早がそう答えると「湯島さんったら、千客万来ね」と笑った。
「どういうことです?僕らと、他の生徒さん以外に誰か来たのですか?」反対に千早は眉間に皺を寄せて、詰問をするように尋ねた。
「え、ええ。生徒さんに遅れて十五分くらい後でしたか。高齢——湯島さんよりは若いくらいの男性が来ました」女性は戸惑いながらそう答えた。
「今からどれくらい前でしょうか?湯島先生は行き先を言いましたか!?」
「十分ほど——あ、もう十五分ほど前ですね。行先は分かりませんが、車椅子なので近所だと思いますよ」
「湯島先生は車椅子なのですね。ありがとうございました!」
千早はそう言うと、飛び出すように玄関を出た。
「私と高木さんはこの辺りを探しましょう。島田さんはタクシーで捜索してください。車椅子か『う67-44』の白の乗用車です」千早はそう言うとスマホを取り出して音尾へと電話を掛けた。
「音尾さん、佐藤圭太と今井敏樹さんが湯島を訪ねて来ています。二人に接触は無しです。湯島は佐藤圭太が連れ出しました。太陽園という施設からです」
千早は一気に情報だけを伝えた。
『いつですか?』
「連れ出しは三十五分前です。今井さんはそ十五分後の来訪です」
『分かりました。釧路署に緊急の保護要請を出します』
「やはり、音尾さんは気付いていますね」千早の口元が僅かに綻んだ。
『ええ、今井敏樹には犯行も共犯も不可能です』
「肩が上がらないのでしょう?」
『ええ、整形に通院していました。千早さんは、いつ?』
「加奈さんの部屋に踏み台を見ました。部屋に似つかわしくない無骨なパイプの。私より背が高い敏樹さんが使うのだとしたら、腕が上がらないのだろうなと。奥さんには重たそうでしたしね」
『さすがですね。こちらの話は——また後で。とりあえず今すぐ配備します』
音尾はそう言うと電話を切った。
千早もそれに合わせて駆け出した。
アスファルトに溜まった砂に微かな車輪の跡を見付けていた。




