八十番
「お客さん、準備中だよ」
そう言った店主に音尾は「時間は取らせないからさ」と警察手帳を見せた。
「虫が入るからね閉めてくれ」
千早は公権力の強さに感心しながら、速やかにドアを閉めた。
八十番と書かれた置き看板は、まだ消灯していた。
「先日、そこの森林公園で起きた事件なんだけどね」
「前にも聞かれたよ。十時前に来た客だよ」
店主は仕込みの手を止めることも、こちらを見ることもなく言った。
「何を食べていきました?」
「は?」
店主は目を丸くして顔を上げた。
千早は壁に貼られたお札のようなメニューを見回して「大盛りは頼みました?餃子は?チャーハンもやってるんですね」と言った。
「アンタ何言ってんだ?そんなの事件にどう関係するんだ?」
「じゃぁ、完食しました?」
「いやいや、そんなの覚えて......」
「では、どうして鈴木淳也のことは覚えてるんですか?」
店主の手が止まった。
音尾の浅い呼吸に、場の空気が冷えるのを千早は感じた。
「それは......アレだよ、アレ」
店主は言葉を思い出そうと、自身のこめかみ付近を指で叩きながら目を閉じた。
「クスリ!!薬の袋だ」
店主は喉のつかえが取れたように、晴れやかな笑顔で千早を見た。
「大抵のお客さんはゴミ箱に捨ててくれるんだけど、鈴木さんは飲んだあとの空袋を置いて行ったんだよ」
「それは、調剤薬局で一包化してくれる薬ですか?」
「夜分って印字してあって、その下に鈴木淳也様って」
千早は音尾に大きく目を開くと、眉を上げて見せた。
「ありがとうございました。ご主人、次は煮卵トッピングで食べに来ますね」
「なんだ刑事さん、ウチのオススメ知ってたのかい」
店主は驚きながらも嬉しそうに言った。
そして「なんか思い出したら連絡するよ」と、立ち去る千早の背中に声を掛けた。
「刑事じゃないですけどね。勘違いしたなら仕方ないですよね」
千早は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「どうして煮卵だったんですか?」
音尾はもう完全に敬語だった。
「人の視線は左上からZを描くんですよ。だから売りたいものは左端に置くんです。普通、醤油ラーメンからなのに煮卵スタートでしたからね」
「だから最初に大盛りだの餃子だの言って、店主を煽っていたんですか?」
音尾は足を止めて千早に向き直った。
「鈴木淳也の根拠が知りたかっただけですよ」
「じゃぁこれで裏は取れましたね」
「はい。西久保巡査と八十番に現れた鈴木淳也はニセモノです」
音尾の表情が何か恐ろしいものでも見たように変わった。
そしてその視線の先には千早が居た。
「しかし西久保巡査は免許証で」
音尾は明らかに狼狽している様子だった。
無理も無い、現役警官の目を掻い潜ったというのだ。
「マスクでもしていたんじゃないですかね。酔っ払っていただけの相手に身分証を出させた上に『マスクを取れ』まではなかなか言えませんよ」
千早は西久保を庇うでもなく、純粋に所見だけを述べた。
「それじゃぁ、彼らが見た鈴木淳也は——」
「犯人でしょうね」
磯の香りを孕んだ生ぬるい夜風が、二人の間をまとわりつく様に吹き抜けていった。




