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一五一.薄雲が空にかかり、朝日に照らされて


 薄雲が空にかかり、朝日に照らされてあめ色に光っていた。大地には靄がかかり、あちこちに光の柱が立っている。それほど寒くはないのだが、息を吐くと白く煙のように漂って中々消えなかった。

 ミトが白く漂う息を手で叩いて消そうとしている。


「……消えない」

「はは、そうだろう。さ、帰ろうか」


 丘の上から見る景色は、次第に色彩を増していた。夜明けとその後の、景色が移り変わって行く様を見るのが、ベルグリフは好きだった。

 そうして朝の見回りを済まし、ベルグリフは家に戻った。庭先でパーシヴァルが剣を振っていた。


「ただいま」

「おう、お帰り。異常なしか」

「ああ、いつも通りだよ」

「パーシー、鍛錬?」


 とミトが言った。パーシヴァルはにやりと笑った。


「そうさ。お前もやるだろ?」

「うん」


 ミトはふんすと胸を張り、木剣を取りに家の中に駆けて行く。ベルグリフも続いて家に入った。

 家の中は暖かかった。

 ベルグリフはマントを脱いで壁にかける。暖炉では埋め火を焚き直し、鍋でシチューがぐつぐつと煮られている。夜の間に寝かしたパン生地をこねながら、サティが顔を上げた。


「あ、お帰りなさい。パンまだなんだ。もう少し待って」

「いいよ。軽く剣を振って来るから。カシムとグラハムは?」

「瞑想しに出かけたよ。ビャクも一緒」


 上げ床の方ではシャルロッテが双子と一緒に何かしている。買ったばかりの龍の人形で遊んでいるようだ。同じような朝の風景である。


 ベルグリフは剣を持って外に出た。パーシヴァルの横でミトが木剣を振っている。毎日やっているから、段々と構えが様になって来ているように思われた。

 三人で少し素振りをし、軽く体をほぐして、井戸の水で顔を洗った。ひんやりして気持ちがいい。タオルで顔を拭いながら、パーシヴァルが言った。


「今日は山に行くんだったか」

「ギルドも畑も一段落したからね。木の実や蔓を集めるよ」

「それも冬支度の一環ってわけだ」

「冬の間は家仕事ばかりだからな。糸を紡いで、籠を編んで」

「去年の冬は賑やかだったが、今年はどうだろうな」

「アンジェたち次第だろうなあ……まあ、流石に冬越しはしないだろうと思うが」


 それでもアンジェリンの事だから分からない。最初はそのつもりがなくても、ここでの生活が楽しくなって腰を据えているうちに初雪が降る可能性はあり得る。


「まあ、それでも街道が整備されて来たから、雪が降っても帰れない事もないと思うけど……」

「なんだ、お前はさっさと帰って欲しいのか?」

「そうじゃないよ。でもアンジェはオルフェンじゃ頼りにされてるんだから、俺がいつまでも捕まえておくわけにもいかないだろう」


 ベルグリフは苦笑しながら髪の毛を結び直した。パーシヴァルはふっと笑う。


「真面目な奴だ。ま、どうせ会ったら帰って欲しくないと思うんだろ?」

「そりゃ、まあ……」


 ミトがベルグリフの袖をくいくいと引っ張った。


「僕も、お姉さんがずっといたらいいなって思う」

「そうだな……」


 ベルグリフは微笑んで、ミトの頭を撫でた。


 それから朝食を済まして、それぞれに動き始めた。

 シャルロッテはミトと双子を連れてケリーの家に行き、ビャクは畑に、カシムとパーシヴァルは釣竿を持って川へ出かけた。グラハムは魔導球と向き合って術式を考えている。サティはいつも通りに掃除や洗濯をしている。


 ベルグリフは籠を背負い、弁当を持って家を出た。

 早朝にかかっていた薄雲は、太陽が昇るにつれて姿を消し、抜けるような青い空が広がっている。


 平原を抜け、森へと入る。常緑の木もあるが、多くは紅葉し、近いうちに葉を散らす。一足早く枝だけになった木もあって、その隙間から青空が覗いている。夏よりも陽当たりがいいように思われた。

 日陰の辺りに茸が生えていた。しかし大きくなりすぎて裂けている。きっきっと声を出しながら、繁みの中から小鳥が飛び出して、空に舞い上がって行った。

 見上げると、木の枝にアケビの蔓が巻き付いて、実がぶら下がっていた。


「……無理かな」


 ベルグリフは義足で軽く地面を蹴った。木登りは不得手だ。ああいった高い場所の木の実を採るのは、アンジェリンの役目だった。身軽なアンジェリンは、どんな木にもするすると登って行って、アケビや山葡萄を籠に山盛りにしていたものだ。

 そういえば、あの子を拾ったのもこんな時期だったな、とベルグリフは思った。

 秋深く、あの頃も秋祭りが近かった。あの時はカイヤ婆さんに頼まれて薬草を探しに行った最中だった。そのカイヤ婆さんはもう亡くなり、アンジェリンはあんなに大きくなっている。


 ベルグリフはほうと息を吐いた。それほど寒くはないのに、口許で息が白くなってすぐ消えた。

 事あるごとにアンジェリンの事を思い出すのは、やはり寂しいからだろうかと苦笑いが浮かんだ。口では偉そうに立場だ役目だと言っていても、本心では娘が傍にいる方が嬉しいのだ。


「……駄目な父親だな」


 ベルグリフはぼりぼりと頭を掻いてから、気を取り直して歩き始めた。次第に地面が上向きの傾斜になって来た。今日はもっと山手の方まで行ってみるつもりだ。今年は書類仕事をしていた時間が長かったから、久々に思い切り森の木々に囲まれていたかった。

 時折手の届く場所にある木の実や蔓を採り、籠に入れて行く。周りに注意しながらずんずん歩を進めて行くのは楽しい作業だ。子供を連れて来ている時はそちらを注意しなければいけないから、こうもいかない。

 開けた場所まで来て、ベルグリフは息をついた。手近な石に腰を下ろし水筒の水を一口含む。麓の方で煙が幾筋も上って行くのが見えた。


「蔓は大分集まったが……さて」


 独り言ちる。低い所にある山葡萄もいくらかは採れた。もっと足を延ばして岩コケモモを採りに行こうかと思ったが、


「……いや、やめよう」


 それはアンジェリンが帰って来てからでいい。食べたがっていたが、それ以上に自分で採りに行きたがっていた。先に採っておいて家にあっては、採りに行く前に食べてしまうだろう。そうなると喜びが半減するかも知れない。

 数年越しの岩コケモモだ。なるべく楽しませてやりたいというのは、余計な親心だろうか。ベルグリフは頬を掻いた。


「そろそろ、帰って来てもよさそうなもんだがな」


 水をもう一口飲んで、ベルグリフは空を見上げた。獲物を見つけたのだろう、鳶が向こうの方に鋭く下って行くのが見えた。



  ○



 整備された街道は、成る程確かに走りやすいようだった。初めはその違いが分からなかったが、まだ整備されていない道に入ると、その違いがてきめんに分かった。

 ごつごつした道では馬車が大きく跳ねたりして気が抜けなかったが、手入れされて平坦になった道では、うとうとして昼寝が出来るくらいであった。


 街道整備はトルネラ側とロディナ側とから同時に行われている。その間の部分で整備されていない所があって、そこでは寝ているどころではなかった。

 しかしトルネラ側から伸びて来ていた街道に行きあたると、もうすっかり走りやすくなった。

 工員に友達がいるかな、とアンジェリンは思ったけれど、今の時期トルネラは冬支度で忙しい為、夏の間に工員として働いていた若者たちも、秋口には村に戻ってしまったようだった。


 ともあれ、もうトルネラは間近だ。朝早くロディナを出て、もう昼前には辿り着く算段である。

 ロディナの宿で、明日には帰れると思ったアンジェリンは高揚していつまでも眠れず、そうして朝になったものだから、馬車の小刻みな律動を体に感じているうちに、ついうたた寝したらしい、ぽんと肩を叩かれて、仰天して目を開けた。


「ひゃあう!」

「わあ」


 ミリアムが目を真ん丸にしてアンジェリンを見ていた。


「そ、そんなに驚く事?」

「……寝てた?」


 アンジェリンが言うと、アネッサが笑いながら言った。


「幸せそうな顔してぐうぐう言ってたぞ」

「うぬう……」


 アンジェリンは照れ臭そうに頭を掻いた。窓から外を眺めていたマルグリットが振り返った。


「もうちょいで着くぞ。森がすっかり紅葉してら」


 アンジェリンは体を起こして、マルグリットの肩に頭を置くようにして外を見た。

 道はもうなだらかになっていた。緩やかな丘陵に秋の草が揺れて、燃え立つような色の森の上に隆々とした山肌が陽を照り返して輝き、抜けるような青い空が乗っかっている。そこに村から立ち上る炉の煙が筋になって立ち上っていた。懐かしい匂いがする。


「……帰って来た」


 アンジェリンは緩んで来る頬を両指の先でむにむにと揉んだ。

 故郷の景色を見るだけでもう嬉しい。半年ばかり離れただけなのに、こんなに嬉しくて仕方がない。そう考えると、五年以上も帰れなかった時はよく我慢できたものだと思う。


 元通りに座って、そわそわして、今すぐにでも馬車を飛び出して駆け出したくなったけれど、そんなわけにもいかない。とりあえず隣にいたミリアムに抱き付いた。ミリアムは「うぎゃ」と言った。


「なにすんだよう」

「……ふふふ」


 ミリアムのふかふかした胸元に顔を埋めてぐりぐりと頬ずりする。ミリアムはくすぐったそうに身をよじらせたが、アンジェリンにがっちり捕まっていて逃げられない。


「やめろー」

「大人しくしろ……」

「何やってんだよ……」


 アネッサが呆れたように言った。マルグリットはけらけら笑っている。向かいに座ったヘルベチカもくすくす笑った。


「あなたが甘えたいのはミリィじゃないんじゃない?」

「……甘えているわけではなくて」


 駆け出したい気持ちを誤魔化しているのだ、という風に上手く言えず、アンジェリンは口をもぐもぐさせて、またミリアムを抱きしめた。


「うぎゅうー」

「もちもち……」


 ぐたぐたと揉み合っていると、窓の外からサーシャの顔が覗いた。今日は馬に乗る気分だと言って、ロディナからずっと馬に乗って馬車を先導している。


「アンジェ殿! もう到着しますよ!」

「知ってる……嬉しい」

「サーシャ、一足先に行ってセレンに先触れしておいて頂戴」

「はい、分かりました姉上!」


 サーシャはそう言うと、たちまち駆けて行ってしまった。アンジェリンはミリアムを解放してむうと口を尖らせる。


「ずるい……馬に乗れる人は」

「あら、アンジェは乗馬が苦手なの?」


 とヘルベチカが言った。アンジェリンは小さく頷いた。


「なんか……苦手」

「ふふ、あなたにも弱点はあるのねえ」

「こいつは弱点だらけだぜ」


 マルグリットがそう言いながら手を伸ばしてアンジェリンの頬をつついた。アンジェリンはその手を掴んでぐいと引き寄せた。体勢の整ってなかったマルグリットはそのままアンジェリンに捕まり、ぎゅうと抱きしめられた。

 マルグリットは抵抗して身じろぎした。


「やーめろー」

「生意気マリーめ……うりゃうりゃ」

「うぎゃー」


 くすぐられてマルグリットは手足をばたばたさせた。しかしアンジェリンからは逃げられない。


「まずいなあ、嬉し過ぎておかしくなってるぞ」


 アネッサが困ったように呟いた。

 そんな風にどたどたしているうちに馬車は進んで行き、やがて村に入った。広場の方には流浪の民が来ているらしく、賑やかな演奏が聞こえて来る。ヘルベチカが窓から外を見た。


「あら、もう秋祭りが始まっているのかしら?」

「そんな事ない……祭りの前から来る人もいるから。道も綺麗になってるし」


 アンジェリンはそわそわしながら言った。やっと解放されたマルグリットは乱れた服を直しながら、荒くなった息を整えている。


 馬車が広場に入って、動きが緩やかになった。領主様の馬車が来たぞ、と外はざわざわしている。

 もう待ちきれない、とアンジェリンがまだ動いている馬車の戸を開けて飛び出すと、外にいた連中が目を丸くした。


「あれ、領主様の馬車なのにアンジェが出て来た!」

「いつもいつも派手な奴だなあ」

「おかえりアンジェー」


 見知った顔が口々に言う。アンジェリンは「ただいま!」と手を振って辺りを見回した。行商人たちが来ているから、家族が誰かいるかと思ったが、誰もいない。


「お前焦り過ぎだよ、ちょっと落ち着け」


 後から降りて来たアネッサがアンジェリンの頭をこつんと叩いた。アンジェリンは振り向いて口を尖らす。


「だって……」

「ま、嬉しいのは分かるけどさ」

「アンジェリンさーん」


 誰かが駆け寄って来た。見ると、すっかり馴染みの青髪の女商人だ。アンジェリンは「おお」と言って差し出された手を握った。


「久しぶり……元気?」

「ええ、おかげさまで! いやあ、ニアミスでしたねえ、あたし昨日来たんですよ」

「あれ、そうだったんだ……お父さんたちに会った?」

「会いましたよ。今日は来てないみたいですけど……」

「そう……」


 アンジェリンはちらと露店の方を見て、また視線を戻した。


「あのね、後でまたゆっくり見に来るね」

「はい、お待ちしてます!」


 女商人はにこにこして頷いた。

 後ろの馬車からヤクモとルシールが降りて来た。ルシールは耳をぱたぱたさせて六弦をじゃらんと鳴らした。


「おう、いっつふぃえすた。れったぐったいむろー」

「着いて早々これとはありがたい。丁度腹も減ったところじゃ……おいアンジェ、儂らはここで何か見繕うが」

「わたしはいい……」


 ヘルベチカが馬車から顔を出した。


「アンジェ、わたしはセレンの所に行くけれど」

「わたしはお家に帰る……わたしたちの荷物だけもらっていい?」

「ふふ、本当にベルグリフ様がお好きねえ……いいわ。でも後でセレンに会ってあげて頂戴」

「もちろん……」


 それでアンジェリンたち四人は荷物を担いで家に向かった。家並や道、垣根や灌木の茂みなどを見るだけで落ち着く。故郷に帰って来たという気分になる。


「変わんねーなー。ま、当たり前だけど」

「半年くらいだもんな。そう変わらない、と思うけど道があんなに綺麗だったもんなあ」

「ねー。セレンのお屋敷が完成してるんだよねー? 楽しみですにゃー」


 話をしながら歩いて行くと、見慣れた家が姿を現して来た。庭先に洗濯物がはためいている。

 井戸の辺りでサティが屈んで何かしているのが見えた。アンジェリンは嬉しくなって、重い荷物を担いでいるにもかかわらず、飛ぶように駆けて行った。

 足音に気付いたのか、サティが立ち上がって振り向く。アンジェリンは庭に入ると荷物を投げ出して、サティに飛び付いた。


「お母さん! ただいま!」

「うわっと!」


 唐突な突進にサティはよろめいたが、何とか倒れずに踏みとどまった。そのまま苦笑いを浮かべて、アンジェリンを抱き返す。


「もー、やんちゃっ子! びっくりするじゃない」


 回って来た手が背中を優しくさすり、頭を撫でてくれる。アンジェリンはえへへと笑ってサティに頬ずりした。


「おかえりアンジェ。よかった、元気そうで」

「うん! あのね、あのね、色々話したい事あるんだけど……」

「大丈夫、焦らないでも。今皆出掛けちゃってるんだよ。今回もゆっくりして行けるの?」

「分かんないけど、秋祭りが終わるまではいる……お父さんもお出かけ?」

「うん。お弁当持って山に入ってるから帰って来るのは夕方かなあ……ベル君もタイミングが悪いねえ」


 向き合っている母娘を見て、アネッサが呟いた。


「やっぱり、親子には見えないよな」

「ねー。姉妹だよねー」

「おーいサティ、おれたちもいるぞー。昼飯できてんのかー?」


 それで皆して荷物を運んで、久闊を叙べ合った。半年ばかりの間にも色々な事が詰まっているから、土産話には事欠かない。却って何から話していいか分からなくなったくらいだ。

 帰郷ですっかり高揚しているアンジェリンは地面から浮いたような足取りで、畑から戻って来たビャクにまで抱き付いて嫌な顔をされた。


 そのうちに昼食の時間になって、釣りに行っていたカシムとパーシヴァル、羊の世話に行っていた子供組も帰って来て、たちまち賑やかになった。これが楽しみだったんだ! とアンジェリンは大はしゃぎで、シャルロッテやミト、双子を容赦なく捕まえては思う存分抱きしめた。嬉しいととにかく暴れ回りたくなるらしい。


 抱きかかえられたマルとハルがきゃっきゃとはしゃいでいる。


「アンジェ、力もちー」

「すごいねー」

「ふふ、お姉ちゃんパワーを見るがいい……」

「にしてもベルは山かよ。一人で行くって珍しいなあ」


 マルグリットが言った。


「最近はギルドの書類仕事で籠ってる事が多かったからね。あれでも鬱憤が溜まってたんじゃない?」


 とカシムが言った。パーシヴァルが頷く。


「だろうな。ま、たまには息抜きも必要って事だろう」

「あなたたち、そんな事言うなら手伝ってあげればいいじゃないの」


 サティに言われて、二人はそっと目を逸らした。

 久しぶりの実家の食事に舌鼓を打ち、取り留めもない話をしていたが、やがてシュバイツを倒した事を切り出した。これには事情を知る者は目を丸くした。


「嘘……え、本物だったの?」

「多分……帝都で戦ったのと同じ魔法使ったし」

「青い炎に青白い閃光、か。確かにシュバイツの使う魔法だね……にしてもイシュメールがね」


 カシムが少し残念そうに山高帽子をかぶり直した。ビャクは信じられないといった様子でアンジェリンを見た。


「……呆気なさすぎる。本当か?」

「ビャクったら、またそんな事言って! だってマリアお婆さまも本物だろうって言ったんでしょう? 間違いない筈よ」


 シャルロッテが反論した。ビャクは何か言いたそうに口をもぐもぐさせたが、やがて諦めて頭を掻いた。納得した様子ではない。しかしアンジェリンだって嘘を言っているわけではないから、どうしようもない。

 そっとグラハムの方を見た。グラハムは何にも言わずにパンをちぎっている。何か考えているようでもあった。


「……ともかく、倒した事は確か。死体も確認したし」

「そうか。ま、それならそれでいいさ」


 パーシヴァルがそう言って肩をすくめた。


 嬉しい話の筈なのだが、やはり少し暗い雰囲気になった。イシュメールを知らないサティやビャクはともかく、カシムやパーシヴァルは少し引っかかるものがあるようだ。この二人でこれなんだから、ベルグリフはもっと悲しむだろうな、とアンジェリンは思った。

 皿のシチューを拭ったパンを口に放り込み、アンジェリンは立ち上がった。


「お散歩行って来る……」


 とアンジェリンは食器を片付けて家を出た。何となく気分を変えたかった。

 広場の方から音楽が聞こえて来る。流浪の民たちは陽気で、大抵何かしら音楽を奏でて踊っている。彼らがいると祭りはとても盛り上がるのだ。

 動物、藁、煙など様々な匂いの混じったトルネラの空気を吸うと、アンジェリンはホッとした。オルフェンやボルドーよりも空気はひんやりしているようで、胸いっぱいに吸い込むと気分がすっきりする。


 沢山の仲間と家族に出迎えてもらって嬉しかった。それでも何かが物足りない。


「……お父さん、早く帰って来ないかなあ」


 アンジェリンは呟いた。どうあっても、アンジェリンにはそれが一番になるのだ。

 帰って来たのは自分たちなのに、お父さんの帰りを待つなんて変だな、とアンジェリンはくすくす笑った。

 そうして、ベルグリフが帰って来た時は何と言って出迎えればいいかと考えた。帰って来る人を出迎えるのだから、やはり「おかえり」だろうか。


「……ううん、やっぱり」


 わたしはお父さんに「おかえり」って言って欲しいな、とアンジェリンは思った。


 広場まで出て、青髪の女商人の露店を冷やかしているうちに、食事を終えたアネッサにミリアム、マルグリットが追い付いて来た。

 それで四人してセレンの屋敷の方に行ってみた。白亜の壁の立派な建物で、前にはボルドー家の馬車がいくつも止まっている。トルネラの建物とは思えない出来だ。

 まじまじと外から建物を眺めていると、サーシャが出て来た。


「皆さん、そんな所でどうされたのですか?」

「立派な建物だと思って……」

「大工が頑張ってくれたのでしょう! 内装も中々のものですよ、どうぞ!」


 それで案内してもらってセレンとの再会を喜び、ボルドーの三姉妹とお茶を飲んだ。

 部屋も茶器も綺麗で、何だかトルネラじゃないような気分で、アンジェリンはそわそわしたが、窓の外を見れば確かにいつものトルネラの風景だ。変わってないのに変わったなあ、と思う。

 ヘルベチカがかちゃんとカップを置いた。


「それではベルグリフ様はお出かけですか……残念」

「夕方には帰って来るみたい……会えるのは明日」

「むむう、師匠に一手御教授いただきたかったのですが……」

「大叔父上はいるぜ」

「おお! ではグラハム殿に!」

「ちい姉さま、落ち着いて下さい。来たばかりなのに」


 セレンはやれやれと首を振った。


「セレン、トルネラには慣れた? もうここで暮らすの……?」


 アンジェリンが言うとセレンははにかんだ。


「ええ、今年の冬はここで越す事になりそうです。ベルグリフ様や皆さんに助けていただいて、何とかやって行けそうです」

「そっか。よかった……」


 それならそれに越した事はない。セレンと一緒にトルネラの冬を過ごす。それも中々魅力的で、オルフェン行きを来春まで延ばそうかしらと決心がぐらついた。


 それでしばらく話を楽しんでから屋敷を出た。

 陽は少し傾いて、陽射しが重くなったようだった。山肌を照らす光がほんの少し赤みがかって来たように見える。

 北から少しずつ雲が流れて来たらしい、抜けるようだった空に薄い膜がかかったようになった。


 四人は連れ立って村の外に出た。平原を風が撫でて行って、髪の毛がたなびく。ミリアムが帽子を取って大きく伸びをした。


「ふはー、ちょっと寒いけど気持ちいいー」

「何だかホッとするな……ここが故郷ってわけでもないんだけど」


 アネッサが言った。アンジェリンはアネッサの顔を覗き込む。


「そう? もう故郷みたいなもんでしょ……?」

「ん、む、ま、まあ……うん……」


 アネッサは照れ臭そうに頬を掻いた。ミリアムはくすくす笑っている。

 ベルグリフはもう帰路に就いただろうか、とアンジェリンは山の方を見た。

 赤や黄に染まった森の色が鮮烈に目に飛び込んで来る。あれを眺めると岩コケモモの事を思い出す。

 明日は早速出かけようと思う。シャルロッテやミト、ハルとマルの双子も連れて、摘んでも摘んでもなくならない岩コケモモで籠をいっぱいにする。考えるだけでアンジェリンの頬は緩んだ。


 次第に雲が分厚くなって、空が重く垂れ下がって来た。一雨来そうな雰囲気だ。この時季にこれでは木の葉が散ってしまうな、とアンジェリンは目を細めた。

 不意に背筋に悪寒が走った。咄嗟に剣の柄に手をやる。


「なんだ? なにか、妙な……」


 アネッサが怪訝な顔をして周囲を見回した。ミリアムは帽子をかぶり直してきょろきょろと辺りを窺う。マルグリットも眉をひそめて剣の柄を握った。


「何か来た、のか? 変な気配が……」

「……なんだろう」


 言いかけて、アンジェリンは目を見開いた。どうして気付かなかったのだというくらいの距離に人影があった。

 吹く風に白いローブがはためいている。

 アンジェリンは剣を抜き放った。


「嘘……お前、死んだ筈じゃ……!」


 イシュメール――シュバイツが林檎の枝を片手に笑顔で立っていた。


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