一四九.車輪を軋ませながら乗合馬車が
車輪を軋ませながら乗合馬車が進んで行く。四頭立ての大きな馬車に人がいっぱい詰まっていて、アンジェリンたち一行が後ろの方に固まっていた。
天気は良く、風も心地よいので、幌は上げられて陽がいっぱいに当たるようになっている。
乗客は思う存分に日光浴を楽しんでいる様子だったが、アンジェリンたちは何処となく気分が盛り上がらなかった。
あれから三日ほど経った。
あの晩の戦いの後、宿敵を打ち破った喜びもほんの一瞬で、すっかり酔いも醒めてしまったアンジェリンたちは、ひとまず死体をギルドへと運んだ。まだ居残って何かやっていたライオネルは仰天したが、取りあえず死体を安置所に移し、片付かない気持ちで一眠りした。
それから翌朝になって改めて死体を検分したが、やはりその顔はイシュメールで、瓶底眼鏡はかけていなかったものの、もじゃもじゃ頭も顔立ちも見知ったものだった。
願わくは、そうでなければよかったのに、とアンジェリン始め誰もが思っていたが、現実は現実であった。
心中は混乱の極みであったが、ギルドが迅速に対応してくれたおかげで、アンジェリンたちは拘束を受ける事もなく、片付かない気持ちなりにトルネラへと出立した。
尤も、人一人死んだのだから尋常の出来事ではない。
しかし勲章まで持つSランク冒険者として名声を得ているアンジェリンは、単なる殺人犯などと言われる事はない。また往来での戦いは目撃者も多く、その中には見回りの兵士もいた事から、正当防衛だろうというのが大方の見解だった。
その上、ライオネルが水晶通信を使って帝都のギルドに連絡を取ったところ、イシュメールの登録されている情報と、アンジェリンたちの知っている事とに大幅な齟齬がある事が判明した。
イシュメールは高位ランク冒険者である筈だが、その名は登録こそされてはいたが、Eランクから昇進しておらず、また依頼の完遂報告などもない事が分かった。要するにランクが詐称されており、名前だけ登録されていて、まったく活動していない状態だったのだ。
「ま、推測するにシュバイツの隠れ蓑としての身分って事かな……いや、ライセンスは本物だよ。ただ、ランクの部分だけが登録されてるのと合わないんだよね。でもどう調べてもライセンスは偽物とは思えないし……もうこれ偽造ってレベルじゃないよ」
とライオネルは苦笑いを浮かべていた。
そういう事も含めて、色んな事が矢継ぎ早に起こって、それから逃げ出したい気持ちが募ったのも大きいような気がした。オルフェンに腰を据えていても仕方がないと思ったのだ。
アンジェリンは包帯を巻いた右肩をそっとさすった。ギルドの霊薬を分けてもらったから、もう痛みは殆どない。朝起きる度に夢だと思うのに、体の傷が否応なく現実を運んで来る。
マルグリットが顔をしかめたまま口を開いた。
「つまり、シュバイツの正体はイシュメールだった、ってわけか。おれたち、ずっと騙されてたって事かよ」
「そういう事になるんだろうなあ……でも変だよな。アンジェを殺す機会なんかいくらでもあった筈なのに、どうしてあんなタイミングで……」
アネッサは片付かない表情で腕組みしている。アンジェリンは嘆息して目を伏せる。
「……友達だと思ってたのになあ」
「言うなよ。わたしだってそう思ってたよ」
「ベルさん、悲しむかな。ダンカンさんも残念がるだろうなー……」
ミリアムはそう言って悲し気に俯いた。
イスタフで合流して『大地のヘソ』でも共に戦った。帝都までも一緒に行って、色々な事を教えてくれた。背中を預けるに足る存在だと思っていたし、知識も豊富で頼りになった。だからこそ、アンジェリンは残念で、悲しいやら腹立たしいやらで仕方がなかった。
マルグリットがぱんと両手で頬を叩いた。
「あー、もう。やめやめ。こんなに沈んでたって仕方ねえよ。黒幕を倒せたんだから、喜ぶ事じゃねえか」
「それはそうなんだけど……うー」
冒険者をやって長いけれど、こういった仲のいい友人に裏切られるのは初めてだった。
いや、元々黒幕だったのなら、向こうはこちらを友人などとは思っていなかっただろう。それが余計にアンジェリンを困惑させた。
シュバイツの事はもちろん嫌いだ。サティを苦しませ、シャルロッテを騙し、ビャクを散々利用した。
他にも自分たちの周囲で起こった問題事の多くが、彼の行動によって引き起こされている。好きになどなれる筈がない。
そのシュバイツとイシュメールがどうしても線でつながらなかった。
帝都で別行動を取り、シュバイツがいる時にイシュメールがいなかった、という事実が思い出されても、やはり感情は凪ぐ事がなかった。
どう思っていいのか分からない。騙されていた事に憤るべきなのか、サティの仇を討てた事に喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか。ともかく心がかき乱されてしまう。
「……本物、だったんだよね?」
ミリアムがおずおずと言った。本当にあの死体はシュバイツだっただろうか、という意味合いである。マルグリットが眉をひそめた。
「剣がなかったっつっても、アンジェをあそこまで追い詰められる魔法使いが他にいるか? カシムかマリアばーさんくらいしか思いつかねーぞ、おれは」
「んむ……」
ミリアムは俯いた。確かにマルグリットの言う通りだ。それに、あの青い炎や青白い閃光は、帝都で戦った時に見たものだ。
他にあんな魔法を使う者を知らない。死体の検分に来たマリアもそう言っていた。シュバイツは顔を変える事は造作もないが、魔法だけは独自のものを使う、と。だからこそ、“蒼炎”の異名の由来となっているのだ。
やはり、イシュメールなどという人間は最初からいなかったのだ、とアンジェリンは肩を落とした。一緒に飲んで話した事なども、全部嘘だったのだろうか。
だとすると、どんな気持ちで自分たちと一緒にいたのだろう、とアンジェリンは思った。人を裏切る、というのはあまり気分のいいものではなさそうに思う。それとも、表では仲の良い友人の顔をして、裏では自分たちを嘲笑っていたのだろうか。どちらにしても嫌な感じがする。自分ならば裏切るのも嫌だな、と思った。
「はあ……」
アンジェリンはまた嘆息した。息が重いように感じた。
これまでの色々な事を裏から操って来た黒幕が死んだ。その事実が嬉しいようでもあり、それが一時とはいえ共に戦った仲間であった事が、素直に喜べないような引っかかりを作った。
アネッサが腕を組んだ。
「……でも、これで一応全部終わったって事になるのかな」
「そ、そうだよ。偽皇太子もやっつけたし、シュバイツもやっつけたんだから、これでもう心配する事何もないじゃん。トルネラに着いたら、サティさんにそう報告できるよ」
ミリアムがわざと明るい調子で言う。アンジェリンは頷いた。そう思う事にしよう、と思った。だって元々敵だったんだもの。
「……でも、やだなあ、こういうの」
独り言ちた。誰も何にも言わない。後味の悪い事実に、皆それぞれ何となくやるせない気分なのだろう。
黙っていると、引っかかった事が次々と心に浮かんで来る。
アネッサが言っていたように、アンジェリンを不意打ちする機会などいくらでもあったのに、何故あのタイミングだったのか。空間転移を持ち、帝都での戦いですら姿を消して逃れたのに、どうして今回は逃げなかったのか。
アンジェリンはぶるぶると頭を振った。今更考えても仕方がない事なのに、次々に頭を悩ます。楽しい帰郷の筈が、しかめっ面で考え込む羽目になってしまった。
「……最後の最後まで振り回されるなあ」
とアンジェリンは呟いた。搦め手の得意な相手である事は承知の上だったが、まさか自身の死を以てして自分たちを翻弄するとは。
疑問が浮かんで来ないよう、周囲に目をやる。
少し離れた席でヤクモが煙草をくゆらしていた。ルシールはその隣で六弦を抱いて目をつむっている。日向ぼっこという様相である。
マルグリットは馬車の縁に寄り掛かって遠くの風景を眺め出した。ミリアムは欠伸をしてもそもそと膝を抱え、アネッサは鞄から本を取り出している。
平和な光景だ、とアンジェリンは思った。このままトルネラに帰れば、すぐに秋祭りがやって来る。ベルグリフに思う存分甘えて、サティと料理をしたり畑を手伝ったりして、子供たちと遊んで、と楽しい出来事を想像する。
それから鞄一杯に詰め込んだお土産の事を考えた。
お菓子もあるし、人形や本もある。ミトも双子も、シャルロッテも喜ぶだろう。ワインや蒸留酒だって買った。カシムもパーシヴァルも嬉しがる筈だ。
そうだ、今度こそ山に入って岩コケモモを採りに行ける。あの群生地には春先に行った。濃い緑色の葉がいっぱいに生い茂っていて、秋になるとそこに赤くみずみずしい小さな実が沢山なるのである。籠一杯に摘み取っても、ちっとも減ったように見えない。
山を楽しみ、お祭りを楽しみ、暖炉の前での夜更かしを楽しむ。シュバイツがどうこうという懸念を話す必要はなく、馬鹿な話に興じて大笑いして構わない。
そう、これからはもう心配事などないのだ。
悪事を企む敵は皆倒した。釈然としない部分はあるかも知れないけれど、それは紛れもない事実だ。
だがそう考えると、何だか妙に呆気ない幕切れで、拍子抜けしてしまう。
もっと苦しみたかったなどと言うつもりはないが、今まで散々翻弄され続けた相手の最後にしては、少し物足りないように感じてしまうのも確かだった。心の引っ掛かりを解決したいと思う気持ちもあった。
しかし、すべて投げ打ってトルネラに逃げ帰りたいのも本心である。相反する気持ちが同じように胸のうちで主張して、アンジェリンは余計にくたびれた。
「……皆、どうしてるかな」
嫌な思いを上塗りするように、トルネラの風景を思い浮かべる。
セレンは冬前にトルネラに引っ越すらしい、と少し前に来た手紙で知った。
自分は手紙を書けていないが、ベルグリフは月に一度というくらいに手紙をくれた。日々の暮らしの事や、アンジェリンを激励するような言葉が連ねられ、時にはサティやパーシヴァル、カシムの書いた文もあったりした。シャルロッテの作ったらしい押し花が一緒に入っていた事もある。
もうじき帰れる。ちょっとばかり旅するけれど、それは些細な問題だ。
アンジェリンは目を閉じて膝を抱いた。
ほんの少し、胸の奥がちくちくする気がした。
○
赤や黄に彩られた森の上に真っ青な空がかぶさっている。もう本格的に秋がやって来た。公国では最も早い秋の訪れだが、トルネラで暮らしているとこれが普通だ。
村では春まき小麦や芋、豆の収穫が始まり、羊たちの冬越えの小屋の支度がされる。
秋まき小麦の畑は耕され、既に種のまかれた畑もいくらかあるくらいだ。もう朝晩は冷えて来て、薄着ではいられないような具合である。
街道が少しずつ整備されて来たせいか、行商人たちが早い頃から出入りを始めていた。
耳聡い者はここにダンジョンを基礎とした経済母体が産まれそうだと嗅ぎ付け、早めに唾を付けておこうとしているようだ。
そんな来客もあってベルグリフは対応に追われたが、もうトルネラに腰を据えているセレンが出張って来て、上手い具合に話をまとめてくれた。
辺境まで足を延ばすくらい行動力のある海千山千の行商人たち相手でも、セレンは一歩も引かないどころか対等以上に渡り合い、不義理で下心のある者は容赦なく突っぱね、有望で誠実そうな者とはきちんと商売の話をまとめた。
元来人が良く、交渉事に不慣れなベルグリフにとってこれは有難く、またセレンの有能さを再確認する事となった。これならばトルネラが食い物にされる事はあるまい。
契約書などを検めながら、ベルグリフは呟いた。
「今年は……冬の間にも行き来できるようになるのでしょうか」
「実際に雪の具合との兼ね合いを見たわけではありませんから確実な事は言えませんが、大きな隊商であれば越えて来る事は出来ると思いますよ」
とセレンが答えた。ベルグリフはハッとして顔を上げる。
「これは失礼、口に出ていましたか……」
「ふふ、はっきりと仰っていましたよ」
「いやはや……」
年を取ると独り言が多くなっていけない、とベルグリフは照れ臭そうに頬を掻いた。
ギルドの建物はまだ出来ていない。まずは代官屋敷を、という事だったから後に回ったのは止むを得ないだろう。その間、ギルドの事務仕事も代官屋敷の執務室を使わせてもらっていた。
種々の資料もセレンが保管しているから、結局その方が効率がいいし、そもそもセレンが赴任するきっかけはダンジョンだ。ギルドの仕事をするのもおかしな話ではない。
ベルグリフは窓の外を見た。いい天気だ。
こんな日は畑に出たくなる。実際、今は収穫の忙しい時期だ。山にも実りが多く、外仕事に欠く日はない。
何となくそわそわしているベルグリフを見て、セレンがくすくす笑った。
「畑に出たそうですね、ベルグリフ様」
「は、まあ……元々外仕事ばかりして暮らして来た身ですから、どうにも」
「分かります。すみません、いつまでも付き合っていただいてしまって」
「いえいえ、これは私の仕事でもありますから……」
商人たちも出て来たとなると、本格的に運営の体制を整えなくてはならない。
素材の卸し、冒険に必要な物品の入荷など、そういった事をギルドで一元的に管理できるようにした方が良い、というのがセレンの主張であった。
ボルドーやオルフェンのギルドは、そういったやり方で運営を安定化している。従来の中央ギルドのやり方とは違うが、元々そちらの息がまったくかかっていないので、それもすんなり行くだろうという事だ。
そういった事には疎いベルグリフはほぼ鵜呑み状態だったが、理屈は分かったので勉強の最中である。
この歳になってもまだまだ学ぶ事が多いと嬉しいような気もするし、ちょっとくたびれるような気もする。
粗方の書類と参考資料をまとめて片付け、ようやく終わった。座りっぱなしで体が硬くなっている。
ベルグリフは肩を回し、細かな文字を見続けて疲れた目を瞼の上から押した。これはそのうち眼鏡が必要になるかも知れないと思う。
セレンがメイドにお茶を運ばせて、砂糖菓子の入った皿を差し出した。
「どうぞ」
「ああ、ありがとうございます……」
「もうすっかり秋ですね」
セレンはそう言ってベルグリフの向かいに座り、自分も砂糖菓子を一つつまんだ。
「アンジェリン様は、秋祭りには帰って来られるのでしょうか?」
「そう言っていましたね。忙しいようで手紙の一つも来ませんが……元々いたずら好きな所もある子ですから、突然帰って来て私たちを驚かせようと思っているのかと」
ベルグリフが言うと、セレンは可笑し気に笑った。
「あんなに強くて頼りになるのに、アンジェリン様は可愛いですよね。わたし、そういう所がとても好きで」
「はは、そうですな。中々子供っぽい所が抜けませんから……そこがああいう素直さにつながっているのかも知れませんね」
砂糖菓子の甘みをお茶で流すと人心地ついた。セレンもお茶をすすって、湯気に曇った眼鏡を取ってハンカチで拭う。
「もうすぐ秋祭りですね」
「ええ。早いもので」
「わたしも準備を手伝わないと……」
「いえいえ、そんな。それに祭りの準備自体はそんなにありませんから」
ベルグリフが言うと、セレンは目をぱちくりさせた。
「そうなのですか?」
「はい。教会から神像を運んで、料理を作って……どちらかというと、祭りの準備というよりは、祭りまでに済ませておく仕事が多いのですよ。収穫と冬支度の労いの意味合いが大きい祭りですから」
「そうでしたか……初めてトルネラにお邪魔した時、お姉さまと一緒に参加させていただきましたね。ベルグリフ様に計らっていただいて、とても助かりました」
「いえ、あの時は皆も喜んでおりましたよ。華やかになったと」
「ふふ、それなら良かったです。今度の秋祭りも、絶対に行くと姉は張り切っておりまして……もう馬鹿げた事は言わないと思うのですが」
とセレンは眼鏡をかけ直して嘆息した。ベルグリフはくつくつと笑う。仲の良い姉妹だと思う。
セレンはお茶のカップを両手で包むように持ちながら、ぽつりと呟いた。
「……不思議ですね。アンジェリン様に助けていただいたのが縁になって、今はこうしてトルネラで代官を務める事になるなんて」
「人生とは不思議なものですよ。それを言えば、私など今になってギルドマスターをやらされる羽目になるとは想像もしていませんでした」
ベルグリフが肩をすくめて言うと、セレンは「ぷふっ!」と吹き出した。
「――ごめんなさい、ふふふ……そうですね。思えばベルグリフ様が一番巻き込まれておいでなのかも」
本当にそうかも知れない、とベルグリフは笑った。
いつもならば、こんな綺麗な部屋に籠ってなどおらず、畑を耕して手と服を土まみれにして、山に子供たちを連れて出かけていた。種々の山の恵みは子供だけでなく大人たちも喜ばせた。干して貯蔵するのは勿論、新鮮な果実は生のまま味わって楽しんだものだ。
幼いアンジェリンが岩コケモモの群生地に大はしゃぎしていたのを思い出す。
あの小さな娘が、今となっては公国の、いや、帝国の英雄にまでなっている。その娘がいたから、ボルドー家に出会い、かつての仲間たちと再会した。
その糸を手繰って行くと、結局トルネラの山に行き着く。
丁度こんな季節だったとベルグリフはまた窓の外を見た。朝晩の寒風にさらされて、森の木々は却って燃え立つように葉を赤く染め上げていた時期だ。あの時アンジェリンを拾っていなかったら……。
「……きっとアンジェを拾った時から何かが変わって行ったのでしょう。驚く事ばかりですが……嫌な気はしていません。むしろあの子には感謝していますよ」
「わたしもです。トルネラの皆さまと知り合えたのは本当に僥倖だと思っています」
二人はテーブルを挟んだまま少し黙った。カップから湯気が上がって宙に溶けて行った。遠くから鶏の鳴く声が聞こえて来る。
「……さて、ぼつぼつ仕事に行かせていただきます」
「ああ、お引き止めしてすみませんでした……アンジェリン様が帰って来るのが、楽しみですね。また色んなお話を聞かせてくれるでしょうか」
「ええ、きっと。あの子も喜んで話をすると思いますよ」
ベルグリフは微笑んで立ち上がり、執務室を出た。
○
「お父さん、ほら、こんなにいっぱい!」
岩コケモモを満載した手提げ籠を持って、十歳のアンジェリンが駆けて来る。縁から幾つか零れ落ちて足元に散らばってもお構いなしだ。
「ほらほら、そんなに慌てなくてもいいよ」
ベルグリフは笑いながら、やって来たアンジェリンの頭を撫でた。
アンジェリンは得意気に籠を差し出して胸を張る。鼻の穴が膨らんでいる。いくらかはつまみ食いしたらしく、口の周りに点々と赤色の汚れが付いていた。
ベルグリフは口端を緩めて、アンジェリンの頭をぐいぐい押した。
「つまみ食いしたな?」
「やーん」
アンジェリンはきゃあきゃあとはしゃいで、籠を抱いた。
「今夜はごちそう!」
「おいおい、この籠全部食べる気かい?」
「岩コケモモならいくらでも食べられるもん」
「食べ過ぎてもお腹を壊すよ。ほどほどにしておきなさいね」
「むう……はぁい」
アンジェリンはちょっと不満そうに口を尖らしたが、それ以上文句を言うでもなく、籠をベルグリフに押し付けた。そうして空の籠を手に取って、再び岩コケモモの茂みの中に踏み入って行く。
岩コケモモの群生地は森の中にあるけれど、日当たりが良い。
この辺りは岩の多い傾斜地で、背の高い木がなく、秋の陽光が存分に降り注いで、赤い実は宝石のように光っている。アンジェリンは身をかがめて、黙々とそれを摘み取っては籠に入れていた。
宝探し、というには宝が多すぎるが、ともかく子供にとっては夢中になる事のようだ。それでも時折何粒か口に運び、その度に表情を緩めていた。
ベルグリフも一粒口に入れた。噛むとぷちんと果汁が弾けて、細かな種を噛む感触が楽しい。酸味の強い味わいだが、甘みもあって後を引く。この季節の御馳走だ。
草の茂みに義足を突っ込むのに警戒を要するベルグリフと違って、アンジェリンは身軽に茂みの中を歩き回って、ベルグリフよりも早く籠をいっぱいにする。それが嬉しいらしく、アンジェリンは時折顔を上げてベルグリフの籠と自分の籠とを見比べて、得意気に笑った。
「これはジャム?」
「そうだな。干したのはこの前作ったから……」
「瓶がいっぱいになるね」
冬越しの為の貯蔵に瓶詰は有効な手段だ。果物のジャムを始め、野菜を煮詰めたものや茸の油漬けなども作る。多くは陶器の瓶や壺だが、時に行商人が売りに来る硝子瓶を使う事もある。それらが棚に幾つも並ぶと、たまらなく豊かな気分になるものだ。
やがて夕方が近くなると、手提げ籠の岩コケモモを背負い籠に移し、父娘は山を下り始めた。西の山に太陽がかかり、影が伸びて来る。
アンジェリンは拾った枝を振りながら、ベルグリフの少し前を軽い足取りで下って行った。
ベルグリフはその後をゆっくりと付いて行く。何度も一緒に入った山だから、アンジェリンも道を覚えつつあるようだ。
「……ああ、アンジェ。そっちじゃないよ」
それでも間違える。
別の獣道に足が向いたアンジェリンをベルグリフは呼び止めた。アンジェリンは足を止めて振り向いた。
「……そうだっけ?」
「そうだよ。そっちは動物の道だ」
アンジェリンは獣道を見、別の方を見、それからベルグリフに駆け寄って来て手を握った。
頭上に紅葉した木々がかぶさって、辺りは薄暗くなっている。昼間来た時とは様相が違っていて、少し不安になったようだ。ベルグリフは微笑んだ。
「気を付けないと迷子になるからな。さ、行こうか」
「うん……」
アンジェリンはつないだ手をぎゅうと握り、ベルグリフを見上げた。
「帰ったら、ジャム作り?」
「そうだな。沢山作らないと、春が来る前に食べきっちゃうからね」
「……初雪、いつかな」
「いつだろうなあ」
降り積もった初雪の、一番上の柔らかい所を取って、それに岩コケモモのジャムをかけて食べるのが、アンジェリンの楽しみなのである。それでも一番好きなのは生の岩コケモモなのだけれど。
やがて森を出た。空は紫色で、もう足元に影はなかった。
空から冷気が降りて来て、吹く風が肌に冷たい。村の家々の煙突から煙が立ち上っている。
もうじき秋祭りだ。そうしたらほどなく冬がやって来る。
二人は村へと下って行った。