一四七.今すぐにでも帰りたかった。ともかく早く
今すぐにでも帰りたかった。ともかく早く帰って、ベルグリフの胸に飛び込みたかった。
マリアの庵でうたた寝に身を任せると、案の定悪夢が襲って来て、アンジェリンは跳ね起きた。全身がびっしょりと汗を掻いていて、燃えるように熱いのに、体の芯だけは氷のように冷えているように思われた。
跳ねるように起きたが、しかし力が入らずに椅子にへたり込み、両腕で体を抱くようにして震えていると、マリアが即座に何か魔法をかけて、それから温かくて甘いものを飲ませてくれた。
それからは少し落ち着いた。
それでも体がだるく、疲れが抜けたという風ではなかった。節々に痛みすらあったくらいで、風邪を引いたかと思うくらいだった。しかし熱はない。ただ力が抜けて、動くのがひどく億劫になっていた。
これは最早寝不足による疲労ではなかった。精神が完全に疲弊して、それが体を重くしていた。不意に涙が溢れて来て、嗚咽が止まらない事もあった。
マリアが渋面のまま、カップに飲み物を継ぎ足した。
「病人に世話をさせるんじゃねえよ、手のかかるガキだ」
「……ごめん」
アンジェリンは俯いたままカップに口を付けた。不思議な匂いが鼻腔をくすぐる。
薬草を何種類も煎じて、そこに砂糖と乳を入れて混ぜたものだ。甘く、飲みやすくて落ち着く。マリアはふうと息をついて椅子に腰かけた。
「げほっ……また悪い夢か」
「……今までで一番ひどい夢だった」
「覚えてるのか?」
「ううん……でも、お母さんが出て来た。すごく悲しそうで、わたしも悲しくて……」
段々と夢が現実と紛うほどに鮮明になっていた。しかし起きるとその鮮明さがたちまち陽炎のようにぼやけて曖昧になってしまう。それを見た時の感情の動きだけが明確に心に残っていて、それがひどく辛い。
長く眠ったような気がするのに、まだ日は暮れていなかった。相変わらず赤みがかった光が窓から射し込んで、舞う埃が見える。
アンジェリンが俯いたまま黙っていると、やがてマリアは大きく息をついて、アンジェリンを見た。
「……アンジェ、早めにトルネラに帰れ」
「え……」
「悪夢の原因は分からんし、シュバイツの狙いも不明瞭ではあるが……それでお前が倒れちまったら無意味だ。ベルグリフに会うのが、お前にとっては一番の薬だろうよ」
「でも……」
アンジェリンはもじもじした。
早く帰りたい、という思いに偽りはない。しかし、自分に変な事態が訪れている時に帰るのは、大事な故郷や家族の元にその面倒事を持ち込むようで、何となく気後れする。帰郷する時は何のしがらみもなく、お土産を山と抱えて、笑顔で帰りたいのである。
マリアはばりばりと髪の毛を掻いた。
「これは荒唐無稽な話だが……事象流って言葉は聞いた事があるか?」
アンジェリンは首を傾げた。そういえば、帝都でサラザールと会った時に、そんな事を言っていたような気がする。難しい話だったし、カシムが与太話だと言っていた覚えがあるから、今の今まで考えていなかったが。
「サラザールさんが、そんな事を言ってた気がするけど……カシムさんが与太話だって」
「だろうな。魔法学の分野でも正直根拠のない話だ。だが “蛇の目”は性格は別にしても魔法使いとしては一流だ。あれとシュバイツが絡んでいるなら、単なる与太話として片付けるわけにもいかん」
「……事象流って何なの? それがわたしと何か関係あるの?」
「お前との関係は分からん。だが、魔力とは別に、ある事象の流れ……物事の因果というものがあるだろう。それには大小があって、大きなものは時空的に影響を持つ、というものだ。それは魔力などの外的な力によるものではなく、人間自身が持つ魂の意識や行動、そういったものに起因する、という説だな。げほっ、げほっ! ごほっ!」
「ええと……」
要領を得ていないらしい顔のアンジェリンに、マリアは嘆息した。
「……そんな顔するんじゃねえよ、あたしだって与太話としか思えん。魔力じゃねえって事は既存のやり方じゃ観測もできん。時空魔法の連中の中で一時期盛り上がった事もあったが、結局形而上学的な議論に終始するしかなかったわけだ。“蛇の目”はこれを単なる哲学じゃなくて現実の問題に当てはめようとしているようだが……」
ちっとも分からない。本調子でもない事も手伝って、アンジェリンは早々に理解する事を放棄してコップに口を付けた。マリアはそれを察したのか、やれやれと肩をすくめた。
「ともかく、もしそういう無茶苦茶な話を根拠に何かを企んでるとしたら、あたしにも対策を考えるのは難しいって事だよ。くそ、どこまでもあたしの神経を逆撫でしやがる野郎だ……」
「でも……それでわたしがトルネラに帰っても大丈夫なのかな?」
アンジェリンが言うと、マリアは少し難しそうな顔をしたが、やがて小さく首を振った。
「分からん。だが、トルネラには“パラディン”がいる。カシムに“覇王剣”もいるんだろう?」
「お父さんもいる……」
「ああ、まあ……シュバイツの企みは想像できんが、悪夢があいつの仕掛けている事だとしたら、お前の心がぐらつくのが一番まずいだろう。それならお前の安心出来る場所に居た方がいい。トルネラにも、何か起こっても対応できるだけの連中は揃ってるだろうし、相手が相手なだけにオルフェンでも出来る事は限られるからな」
「そう、かな……」
何だかそんな気がして来た。何よりも、ベルグリフが傍にいてくれさえすれば、色んな事が大丈夫なような気がする。
コップの中身を飲み干して、アンジェリンはふうと息をついた。
話をして頭が覚醒するほどに、夢の内容が消え去っていた。嫌な感じだけは残っているけれど、どうして自分が涙を流す程悲しかったのかちっとも分からない。
「じゃあ、そうしようかな……ギルドマスターに話しなくちゃ」
「そうしろ。ま、今はお前が長くいなくても何とかなるだろうよ」
マリアはそう言って、くたびれたように椅子の背にもたれた。
「帰るんなら、ついでに窓閉めてけ」
「ん……」
アンジェリンは立ち上がって鞄を持ち、開け放たれたままだった窓を閉めて回った。そうして扉に向かい、ふと思い立って振り返った。
「ねえ……ばあちゃんもトルネラに遊びに来る?」
「……考えとく」
マリアはまた何か考え事を始めたようで、もそもそとマフラーに口元をうずめて丸くなった。寒い日の小鳥みたいだ、とアンジェリンは思った。
最後の乗合馬車に飛び乗って、オルフェンへの道を揺られて行った。都に入る頃にはすっかり陽が落ちて、辺りは暗く、風も冷たくなっていた。
慣れた道を歩きながら、妙に気持ちが軽くなっている事に気付いた。帰ると決めてしまった事が、色々な悩みの区切りになったような気がしているのかも知れない。
しかし明日すぐに帰るというわけにもいかない。
ギルドに話をして、パーティメンバーにもそう言って、急ぎの用事があればそれを済まして、と色々する事がある。Sランク冒険者ともなれば、ギルドを離れる手続きもある。
夕飯を済まして行こうと、アンジェリンはいつもの酒場に入った。人が沢山いて、たいへんざわざわしている。
カウンターも一杯で、これは入れないかな、と見回していると、テーブルの一つをアネッサたちが囲んでいた。
これはいいタイミング、とアンジェリンは軽快な足取りで歩み寄った。マルグリットが最初に気付いて、「おー」と杯を掲げた。
「お前どこ行ってたんだよー、部屋まで様子見に行ったんだぞー」
「マリアばあちゃんの所に行ってた……」
「えー、オババの所? 元気なさそうだったのに、よく行けたねー」
「でもちょっと元気そうじゃないか」
アネッサがそう言いながら、グラスにワインを注いでくれた。アンジェリンはそれを一息で飲み干して、ふうと息をつく。
「決めたの。もうトルネラに帰る。準備ができ次第、すぐ」
三人は目を丸くした。しかし何となく予想できていたような風でもあった。
「マジか。おれはいいけど……」
「どうせ行くとは思ってたし、いいんじゃないか? アンジェが動けないなら、オルフェンにいてもトルネラにいても同じだし」
「準備がいるねー。お土産も買わなきゃいけませんにゃー」
アンジェリンがずっと帰りたがっていた事は三人とも知っている。今日明日とは思っていなかったからその驚きはあるが、別に突拍子もないという感じはないらしい。
追加の注文を終えたアネッサが言った。
「マリアさんにいい薬でも貰ったのか?」
「んー、それもあるけど……早くトルネラに帰れって言われた。わたしにはお父さんが一番の薬だろうって」
アンジェリンが言うと、三人とも笑い出した。
「あっははは、そりゃそうだな! アンジェにはベルが特効薬だぜ」
「顔色がいいのはそのせいかな。よかったじゃないか」
「オババもたまには良い事言うねー」
踏ん切りが付かない時に、誰かが背中を押してくれるというのはありがたい事だ。アンジェリンは頷きながら二杯目のワインに口を付けた。
また今夜も悪夢が来るのかと思うとやや憂鬱ではあったが、だからこそ酒場の騒がしさが、アンジェリンには不思議と心地よかった。このまま眠らずにここで夜を明かす事ができたら、と思うけれどそうもいかない。
「マリアさんと何話したんだ?」
「えっと……お母さんがエルフなのにわたしが人間なのは何でかって」
「あー、それか。何か分かったのか?」
アンジェリンはマリアと話した事を思い出しながらぽつぽつと話をした。三人は納得したように頷いた。
「成る程……確かに、辻褄は合いそうだな」
「他には?」
「他には……あの、サラザールさんの言ってた事象流って奴の事とか」
アンジェリンが言うと、マルグリットは露骨に嫌そうな顔をした。
「うえー、おれあの話チンプンカンプンだったんだよな。サラザールも何言ってるか分かんねーし……アンジェは分かったのか?」
「分かったと思う……?」
「よかった。仲間だ仲間」
マルグリットは嬉しそうにアンジェリンのグラスにワインを継ぎ足した。
アネッサとミリアムも苦笑いを浮かべている。カシムも与太話と切り捨てたあの話は、少女たちにはよく分かっていないようである。
今日三人が助けで入った討伐依頼の話や、トルネラに何を土産にしようとか、結局冬越しするのか、それともかねてからの計画通り東への旅に出るのかなど、話は転々としながら、段々と盛り上がって来た。
マルグリットが蒸かし芋を頬張りながら、言った。
「そういやイシュメールとかどうすんだろうな? あいつもトルネラに行ってみたいとか言ってなかったっけ」
「あー、そうだねー。でもイシュメールさんどうしてるんだろ? あの時ここで会った以来全然見ていないんだけど」
ミリアムが言った。アネッサがふむと口元に手をやった。
「日銭を稼ぐのに、仕事をしてるとか?」
「ううん、ユーリさんに聞いたら一度も依頼受けたりしてないって」
とアンジェリンが即座に否定した。だから足取りがつかめず、アンジェリンもマリアに先に会いに行ったのだ。それで余計に分からなくなって、四人は揃って首を傾げた。
「それとあれだ、ヤクモさんとルシールも」
「東に行くとしたら一緒に行くんだよね? トルネラに来ないってなったら、オルフェンで待っててもらう事になるのかなー?」
それは考えていなかった。アンジェリンは腕組みする。
確かに、そうだとしたらトルネラで冬越しするわけにはいかなくなるだろう。かといって二人がまたトルネラで冬を越したいと思ってくれるかどうかは分からない。
前に話した時も、ルシールはともかく、ヤクモはあまり乗り気でなさそうだった。自分にとってはかけがえのない故郷でも、二人にとってはただの田舎でしかないのだ。それはイシュメールだって同じだろう。
アンジェリンは椅子にもたれた。早く帰る、といっても自分一人の問題ではない。
「どうしよ……参った」
「まあまあ、ひとまず直接会ってみないと。明日は皆で探してみようよ」
ミリアムがそう言ってアンジェリンの頬をつつく。アンジェリンはミリアムの頬をつつき返した。
「……ミリィ、なんかぷにぷに感増した?」
「なにぃー」
ミリアムは口を尖らした。
少しずつ夜が更けて来たが、悪夢で跳ね起きたとはいえ、夕方に少し寝たのもあり、また気持ちが落ち着いて来たのもあって、あまり眠くなかった。
しかし他の三人は仕事に出ていたのもあって、少しくたびれているようだ。
マルグリットが両手を上げて欠伸をした。
「はー……眠くなって来た」
「だねー。合同依頼なんか久しぶりだったからなんか気疲れしちゃった」
三人が行ったのは、いくつものパーティが合同で行った討伐依頼だったらしい。ダンジョンの一つで魔獣の数が増えて、溢れ出しそうになっていたのだそうだ。魔獣自体は下位ランクのものばかりだったが、数が多いというのはそれだけでも大変である。
アンジェリンは椅子にもたれた。
「早く寝た方がいいよ……明日はギルドで待ち合わせしよ」
「アンジェはどうするんだ?」とアネッサが言った。
「もうちょっと飲んでく……まだ眠くないから」
三人は顔を見合わせた。アネッサが考えるように言った。
「そうさせてもらうか。正直、アンジェがいなかった分、今日はわたしも疲れたよ」
「ねー。マリーってばどんどんテンション上がって突っ込んで行こうとするんだもん」
「だからごめんって謝ってるじゃねえかよぉ」
マルグリットは拗ねたように口を尖らした。アンジェリンたちはけらけら笑った。
それで三人が先に帰って、アンジェリンはテーブルに一人で残った。
夜が更けて来ているから、少し人も減っている。
しばらくワインをちびちびと舐めながらぼんやりしていた。不思議なほど落ち着いている。こんなのは久しぶりだ。
少しずつ料理の残った皿を空にしていると、「あ、いた」と聞き覚えのある声がした。
「……ギルドマスター?」
見るとライオネルが立っていた。ホッとしたような顔をしている。珍しい所で会うな、とアンジェリンは目を細めた。
「いやあ、いてよかったよ」
「どうしたの。何か用?」
「や、俺じゃなくて」
ライオネルが少し身を避けると、後ろからイシュメールがひょっこり顔を出した。アンジェリンはおやという顔をする。
「イシュメールさんだ。わたしも探してたのに……どこ行ってたの?」
アンジェリンが言うと、イシュメールはバツが悪そうに頭を掻いた。
「いや、申し訳ない。実はずっとエルマー図書館に籠っておりまして……ちょっとのつもりが気付いたら随分時間が」
成る程、そういう事だったのかとアンジェリンは思った。魔法を使わない者にとっては単に本が多いだけのあの場所も、魔法使いにとっては宝の山に見えるのであろう。
それにしたって、どうしてライオネルも一緒に? とアンジェリンは首を傾げた。
ライオネルは頭を掻いた。
「いやね、イシュメールさんが来て、アンジェさんの居場所を知らないかって……二人の関係がよく分からなかったから、一応俺が付き添いでさ、部屋まで行ったけど留守だったから、もしかしたらここかなって」
アンジェリンはSランク冒険者だ。“黒髪の戦乙女”の異名もオルフェンに留まらず各地で知られている。何かよからぬ事を企む輩が接触を図ろうとしてもおかしくない。ライオネルはそれを心配して付いて来たらしい。
アンジェリンは呆れたように頬杖を突いた。
「わたしがどうこうされると思ってるの?」
「いや、そうは思わないけど、それで油断するのも嫌じゃない。最近アンジェさん調子悪そうだったし……まあ、杞憂だったみたいだけどね」
ライオネルは苦笑いを浮かべた。アンジェリンはふうと息をついて、二人に座るよう促した。ライオネルは頬を掻いた。
「やー、俺はまだちょっと」
「いいから。丁度ギルドマスターにも話したい事があったの」
「俺にも?」
それなら、とライオネルはちょっと嬉しそうに座った。休む口実ができたと思っているのだろう。アンジェリンはワインを追加した。
「トルネラにまた帰るのは言ってたと思うけど……」
「言ってたね」
「それを早めたいの。出来れば今すぐにでも帰りたい……」
アンジェリンが言うと、ライオネルはからから笑った。
「なるほど、そういう事ね。もしかして調子が悪いのは早く帰りたかったから?」
アンジェリンはむうと唇を尖らした。そういうつもりではないが、確かにそう取られてもおかしくない。
「駄目?」
「いや、駄目って事はないよ。今は魔王騒ぎの時と違って人も足りてるからね。それに冬前には一度戻って来るんだよね?」
「一応その予定……」
「はは、一応ね。まあ冬越しして来てもいいんだけどさ……それにアンジェさんはトルネラから戻ったら東に旅に出るんでしょ? それを思えば多少早まるくらい何ともないよ」
どうやらそうらしい。今はアンジェリン以外にもSランク冒険者はいる。人手は足りているのだろう。
勿論アンジェリンは功績の点からいってもオルフェンのギルドでは信用も実力もトップだが、だからアンジェリンでなくてはいけない、という仕事はない。大公家から呼び出しでも食らえば別の話だろうが、そんな事はもうあるまい。
手続きはあるだろうが、ひとまず自分がいなくても大丈夫そうだ、とアンジェリンはワインを一口飲み、それからイシュメールの方を見た。
「そういう事なんだけど、イシュメールさん、どうする……?」
「そうですね……ええと、それは数日中にオルフェンを出るという事に?」
「ん……そういう事になっちゃう、かも」
やっぱり急な話かなあ、とアンジェリンは頬を掻いた。自分や仲間たちだけならばともかく、イシュメールやヤクモ、ルシールなども一緒と考えると、あまり事を急いては来られない人もいるだろう。
しかし、一刻も早く帰りたいのも確かだ。もう帰ると決めてしまうと、是非帰りたくて仕方がなくなっている自分に気付く。
魔王騒ぎの時はそれで何度も引き留められて怒り心頭に発していた。今度はそういう事情はないが、ともかく早く帰りたい事に変わりはない。
イシュメールはしばらく考えていたが、やがて顔を上げた。
「いいです、ご一緒しましょう……冬越しは厳しいかも知れませんが」
元々そういうつもりでしたしね、とイシュメールは笑った。アンジェリンはホッと胸を撫で下ろした。
「ありがと……もし帰るなら秋祭りの後になるから、冬前にはオルフェンに戻れるよ」
「そうですか。お祭りがあるなら隊商に交ぜてもらえそうですね」
もしアンジェリンがトルネラに残る気になっても、そうすれば帰る事ができる。
そう考えると、ヤクモとルシールにもその選択肢がある事に気付いた。トルネラに行くのはよくても、長い冬を過ごすのは嫌だというのはヤクモも言っていた。しかしそうなると二人と一緒に東に行くのは現実味を失う。そうなるとやはり帰らなくてはならない。
いずれにせよ、冬越しはしないという方針でいて、いざトルネラでそういう気になればその時はその時という事にしよう。
アンジェリンは一人で頷く。何だかそこまで頭が行くと気持ちが落ち着いた。
とにかく一度実際会って話ができさえすればそれでいい。イシュメールには会えたから、明日はヤクモとルシールを探そう。急過ぎて無理だというならば、それは仕方がない。
ちゃっかりワインを舐めているライオネルが口を開いた。
「アンジェさん、悪い夢が続いてるんだったよね?」
「うん……でも起きたら内容は忘れちゃってるの。だから逆に気持ち悪くて」
アンジェリンはそう言ってイシュメールを見た。
「イシュメールさん、何かそういうのの対策知らない? マリアばあちゃんには相談したんだけど、薬もそんなに効果なくて……」
「むむ……“灰色”のマリアの手に負えないなら私の出る幕ではなさそうですが……」
「え、マリアさんでも駄目だったの?」
「分かんないけど、ばあちゃんにはさっさとトルネラに帰れって言われた……わたしの特効薬はお父さんだろうって」
そう言うとライオネルは吹き出し、イシュメールはくすくす笑った。
「確かに、アンジェさんにはベルグリフさんだねえ。流石マリアさん、よく分かってるよ」
「流石に有名なんですね、アンジェリンさんのお父さん好きは」
「そうなんですよ。前にオルフェンで色々あって里帰りを引き留めちゃってた時は、そりゃもう今にも殺されるんじゃないかっていうような」
「……だって帰りたかったんだもん」
頬を膨らますアンジェリンに、二人はさらに笑った。
少しの間談笑してから、「あんまりいないと怒られる」とライオネルが席を立って行った。夜が更けても仕事があるのかしら、とアンジェリンは怪訝に思ったが、最近はギルドも景気がいいらしいから、色々の事があるのだろう。
店の中も段々人がはけて来た。イシュメールと差し向いになって杯を傾ける。イシュメールは飲んでも顔色が変わらないが、それでも回っているらしいのは手元の動きで何となく分かった。
「ギルドマスターというのは、忙しいものですね」
「そだね……ね、この前会った時に話せなかった事があるよね。ソロモンの事」
「ああ、そういえばそうでしたね。あの時も随分飲んでいましたから……」
イシュメールは手を上げて水を注文し、アンジェリンに向き直った。
「それで、ソロモンについて何が知りたいんです?」
「あのね」
アンジェリンはエルマーから聞いた話や、マリアと話した事などをかいつまんで説明した。自分が魔王であるという事は伏せたが、シュバイツが魔王を人間にする実験を行っていた事なども話した。
イシュメールは目を白くさせながらも時折相槌を打ちながら静かに聞いていた。
「……だから、わたしも一応色々調べておきたいなと思って」
「成る程、そういう事ですか。そんな実験を……」
イシュメールは腕組みをしてしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「ソロモンとヴィエナが共に戦った、というのは私も知っています。事実かどうかはともかく、古い文献にそういった事が多く記載されているのは確かです。しかしソロモン消失後の魔王の暴走、そしてヴィエナの勇者による討伐などは公平な文献が少ないのです。恐らくその頃になるとヴィエナ教の力が強くなっていたのでしょうね」
「あれ……ヴィエナとソロモンは最終的に敵対してたわけじゃないの?」
「いえ、彼らが直接争う事はなかったようです。ソロモンの大陸征服の際には、ヴィエナは静かにしていたようですね。ソロモンが消失した後、魔王が暴走して大陸中を破壊するようになってから、ヴィエナは勇者に力を授けて魔王を討伐した、とある文献にはあります。信ぴょう性の程は謎ですが」
アンジェリンは腕組みした。何だかこんがらがって来るようだった。
ヴィエナはソロモンのやり方に賛同していたのだろうか。それともソロモンの力が強すぎて、ヴィエナでは逆らう事ができなかったのだろうか。
どちらにせよ、ヴィエナ教からは敵視されそうな話だ。その辺りの文献の多くが失われているのも、何だか納得できるような気がした。
アンジェリンはテーブルに顎を付けて嘆息した。
「……こういう話って難しい。わたしの性には合わない……」
イシュメールは苦笑いを浮かべて、コップの水を口に運んだ。
「歴史というのはそういうものです。文献があっても、書かれている事が必ずしも真実とは限らない。書いた者がいる以上、その文はその人物の主観でしか物事を捉えられていませんからね。だから数多くの資料に当たり、その断片を組み合わせて全体の輪郭を掴むしかないのですよ。それすらも多くは歪なものになってしまうのですが」
「そうなのかも……でも真実は一つだけ、だよね?」
「ええ。しかし我々はその真実を目と頭と心を通して描きます。ある人物の正面を細かに描けたとしても、背後を見た事にはならない。真実は一つでも、我々は自分の視点でしか物事は捉えられませんから」
「……ソロモンとかヴィエナに直接話が聞ければいいのに」
「ははは、そうなったら凄いものですね」
少し飲み過ぎて舌が重い。水を飲んでひと息ついた。
イシュメールはごそごそと荷物を漁っている。財布を探しているらしい。
ふと、その荷物から林檎の枝が覗いているのが分かった。アンジェリンはドキリとした。前にイシュメールが落としたのを拾い上げた時、体にビリッとした衝撃が走った覚えがある。
財布を取り出したイシュメールが、アンジェリンを見て不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「その枝……それって何なの?」
「枝? ああ、これですか」
イシュメールは枝を取り出してテーブルに置き、水を一口飲んだ。
「研究仲間から押し付けられたんですよ。なんでも古い時代の魔法使いの杖を復元したものだとかで」
アンジェリンは手を触れないように警戒しながら、林檎の枝をしけじけと見た。
相変わらず青々として、鞄に入れられていたであろうにもかかわらず、葉は萎れる様子もなく、ぴんと張って、葉脈一筋一筋がはっきりと分かるようだった。
「……これが杖なの?」
アンジェリンは怪訝な顔をして言った。ミリアムの持っている杖とは随分違う。他の魔法使いでも、杖を使っている者が持っているのは、もっと長いものばかりだ。
イシュメールは水を一口飲んで頷いた。
「現在は魔法使いの杖は綺麗に形作られたもの、いわゆる通常の杖と同じ形状ですが、古代の、つまりソロモン以前の時代の魔法使いたちは、体を支える用途の杖とは別の、魔道具としての杖を使用していたとされています。多くは木々の枝をそのまま折り取ったもの、特に力の強い古木の若枝が好まれたらしいですね」
「林檎の木は力があるの……?」
「林檎自体がどうかは分かりませんが、樹齢のある木には力があると考えられていたようです。術式の公式が殆どなかった時代ですから、道具自体の強さが重要視されていたのかも知れませんね」
「へえ……」
アンジェリンはそっと手を伸ばして、指先でちょんちょんと触れてみた。特に痺れるような感じはない。思い切って手に取ってみたが、恐れていたような衝撃はなかった。若枝らしいざらざらした手触りがする。
「……前も見たけど、よく枯れないね」
「はい。これも友人が魔術式を刻み、魔力をかなり込めています。だから葉も落ちませんし、青々としているでしょう。尤も、その為の術式にばかり比重が偏っていて、魔法の補助の道具としては……まあ正直、あまり役に立っていないのですよ」
イシュメールはそう言って苦笑した。
アンジェリンは手に持った枝をじっくりと見た。それにしては、何だか不思議な感じがする。奇妙に惹かれるものがある。
しばらく眺めているうちに、葉先が風で揺れたような気がした。
同時に、アンジェリンの胸の内でかちゃんと何か音が鳴ったような気がした。びくりと体を震わせたが、特に不調な感じはしない。枝をイシュメールに返して、ワインを飲み干した。
誰かが店を出る時に、外から風が吹き込んで来た。宵の風は酔った体にひんやりと心地よい。
少しずつ人が減っていて、マスターも店仕舞いの片づけをしているように思われた。アンジェリンは欠伸をして目をこすった。
「……帰ろうかな」
「そうしますか」
「でも……寝るのが怖い」
「確か悪夢がどうとか」
「うん」
それを考えると憂鬱になる。しかしこの酒場も夜通しやっているわけではない。いつまでも腰を据えているわけにもいかないだろう。
アンジェリンとイシュメールは揃って席を立った。途中までは道が同じである。
石畳を撫でて行く夜の風が、アンジェリンの三つ編みを揺らす。
「あのね、いつ帰るか決まったら言うから、宿屋の場所教えて……」
「ああ、そうですね。鍵と木馬という宿なんですが。魔道具や薬を取り扱う店の多い通りにある」
「……分かった」
少し頭を巡らせて、ああ、あの宿かと思い当たった。あの辺りは駆け出しの頃からよく出かけている。宿には入った事がないが、扉の上に吊り下げられた木製の馬と鍵の人形は印象に残っていた。
「ではお大事に……」
イシュメールと別れ、部屋への道を辿って行く。ワインが回っていい具合に気分がいい。不思議と憂鬱ではない。
足を止めて大きく息を吐き、空を見上げた。
薄雲がかかった夜空に星が瞬いている。
「……もうすぐ帰るね。待っててね、お父さん」
今年の投稿はこれが最後です。
新年は四日から再開します。
良いお年を!